遥かなるケンブリッジ―一数学者のイギリス
数学者の藤原正彦氏がイギリスのケンブリッジ大学へ1年間の留学を行った体験と、そこで肌に触れたイギリス文化を鋭い観察眼で描いたエッセーです。
留学といっても藤原氏がケンブリッジ大学へ留学したのは数学者としての地位を得た中年になってからであり、妻と2人の息子を伴っての赴任という形です。
著者は私もファンである作家の新田次郎、大ベストセラーとなった「流れる星は生きている 」で有名な藤原てい夫妻の次男です。
数学者とはいえ血は争えないものらしく、藤原正彦自身もベストセラー作家として有名です。
イギリスでは"オックスブリッジ"と称され、オックスフォード大学と双璧をなす伝統と実績を持ったケンブリッジ大学。
約800年前に創立した同大学はイギリス文化を凝縮したものであり、ベーコン、クロムウェル、ダーウィン、ニュートンといった歴史的偉人が多く在籍し、世界で最多の81人ものノーベル賞受賞者を排出した大学として知られています。
晴天が少なく曇りがちの気候であるイギリス。
一見すると、陰気で社交性に乏しいイギリス人の気質に、訪れた外国人の気分が滅入ってしまう重苦しい雰囲気が漂っています。
しかしそこには伝統を重んじて最新の流行や成金主義を軽蔑する風潮、不便さに耐えてまでも古いものを尊重する自虐的とさえいえる考えは、日本人にも理解できるかも知れません。
著者も最初は排他的で頑固なイギリス人の文化に対してストレスを感じますが、イギリス人たちと交流を深めるうちに彼らが親身になって助けてくれること、そしてユーモアを尊重する人びとであることを理解してゆきます。
また「紳士の国」だけあって、フェア(公正)さを重んじる精神があり、日本の"親切"とも通じる部分があります。
弱い立場の人を援助するとき、日本人は「かわいそう」、「弱い人を助けるのは当たり前」といった道徳的なものが動機になりますが、イギリス人は「フェアであるべき」という騎士道的な精神が動機になるのではないでしょうか。
世界中にはイギリスよりも歴史のある国が数多くありますが、それでもイギリスほど伝統を重んじる国は殆どないのではないでしょうか。
17世紀から19世紀にかけて世界の7つの海を制覇した「日の沈まない国」と謳われたイギリス帝国の姿は見る影もありませんが、それでも彼らは外国から1度も征服されておらず、本当の挫折を味わっていません。
つまり成熟・洗練・老練というキーワードがピッタリときます。
藤原氏はイギリス人やその文化を自らの体験を元に鋭く観察しており、次のように評しています。
イギリスは何もかも見てしまった人びとである。
かつて来た道を、また歩こうとは思わない。
食物や衣料への出費は切り詰めているが、精神的余裕の中に、静かな喜びを見出している。
不便な田舎の家の裏庭で、樹木や草花の小さな変化に大自然を感じ、屋根裏をひっかき回して探し出した曾祖父の用いた家具に歴史を感じながら、自分を大切にした日々を送っている。
もちろん悲しみや淋しさを胸一杯に抱えてはいるが、人前ではそれをユーモアで笑い飛ばす。シェイクスピアの「片目に喜び、片目に涙」である。
外国での暮らしを題材にしたエッセーは数多くありますが、優れた視点で書かれた秀逸な1冊です。