レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

冬の鷹


日本史で解体新書といえば杉田玄白がすぐに思い浮かびます。

元々はターヘル・アナトミアというドイツ人医師クルムスが書いた解剖学書をオランダ語訳したものが原本になっていますが、解体新書の訳者には杉田玄白のほかに中川淳庵、、桂川甫周といった江戸時代の医師たちが名を連ねています。

しかし最大の功労者はこの中に名を連ねていない前野良沢であり、4人の中では唯一オランダ語を翻訳できる能力を持った人物でした。

今となっては良沢が自ら名乗らなかった理由は不明ですが、その翻訳の不備(=完全な翻訳ではないこと)を自分が一番分かっており、学者としてのプライドが許さなかったという説があります。

いずれにしても解体新書の出版はセンセーショナルな出来事となり、結果として杉田玄白の医者としての名声が高まり、多くの門人たちを抱える医術の大家としての地位を築くことになります。

一方の前野良沢は生涯をオランダ語の学習に捧げ、出世することもなく質素に生涯を送り続けました。

性格の面でも社交的で世間を渡るのが上手な玄白、そして内向的で人付き合いが苦手な良沢は対照的な2人だったといえます。

本書「冬の鷹」は、この対照的な2人の生涯を描いた歴史小説ですが、著者の吉村昭氏の興味は終始一貫して前野良沢へ注がれています。

若くしてオランダ語の習得を志した良沢でしたが、長崎でオランダ通詞(通訳者)を務める西善三郎吉雄幸左衛門らにオランダ語を学ぶことがいかに至難であり、中津藩医師として江戸に滞在したままの習得はまず不可能だと諭されます。

さらに2人の通詞の師匠であり、和欄文字略考を執筆した青木昆陽でさえも、オランダ語を話すことはおろか、翻訳すら殆ど出来なかったというのが現実だったようです。

しかし良沢は無理と言われようとも一度決めたオランダ語の習得を諦めることはありませんでした。

良沢は藩主に願い出て、100日程度でしたが長崎へオランダ語修行に出ます。

もちろんわずかな期間で語学が目立った上達をすることはありませんでしたが、そこで手に入れたのが解体新書の原書であるターヘル・アナトミアだったのです。

これが後に杉田玄白らと共に解体新書を執筆するきっかけになります。

玄白はオランダ語を新しい西洋の知識を手に入れるための手段として捉え、自らの名声を利用して多くの弟子を育てたという点で功績があり、決して非難されるものではありません。

しかし著者の心を惹きつけたのは、生涯をオランダ語の研究に捧げ、富と名声からも無縁だった孤高な良沢の生き方だったのです。

また良沢の数少ない友人として高山彦九郎が登場します。

尊王思想家として日本全国を奔走しますが、当時はまだ盤石だった幕府権力による弾圧で挫折することになります。

彦九郎が生きているうちにその努力が実ることはありませんでしたが、その尊王活動にかける情熱は、政治的性格がまったくなかった良沢とどこか通じるところがあります。