本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

たかが信長 されど信長


定期的に訪れる感のある"信長ブーム"。

本書にはおもに、何度めかの信長ブームが訪れた1991~1992年(平成3~4年)に行われた遠藤周作氏を中心とした対談が収められています。

私自身、当時の信長ブームにはおぼろげな記憶しかありませんが、緒形直人演じる信長の大河ドラマ(信長 KING OF ZIPANGU)が話題になったことは印象に残っています。

ともかく多くの歴史小説を手掛け、日本文壇の重鎮として活躍していた遠藤氏を中心とした当時の対談本を今回はじめて手にとってみました。

本書に収録されている対談は以下の通りです。

  • 今さら、なぜ信長か - ブームを斬る(VS.津本陽・江坂彰)
  • 信長は天皇に勝ったか - 権威と権力の暗躍(VS.今谷明・山室恭子)
  • 『武功夜話』に見るマザコン男の孤独 - 前の一族と信長・秀吉(VS.吉田蒼生雄・高橋千劔破・藤田昌司)
  • あなたは信長の部下になりたいか - 「水の人間」の魅力と欠陥(VS.尾崎秀樹)
  • こんな英雄はいらない - 大ポカをするゴリゴリの合理主義者(VS.会田雄次)
  • でもやっぱり、信長は偉い?(遠藤周作ひとり語り)
  • 作家はなぜ歴史小説を書こうとするのか? - 書く側の論理(VS.辻邦生)

たとえば対談相手の1人である津本陽氏は、信長を主人公にした大ベストセラー「下天は夢か」を発表した作家であり、その他にも歴史学者、評論家などいずれも信長や戦国時代の専門知識を持っている人たちが対談相手です。

そこからは先行しがちな作家やメディアが作り出した信長像のみならず、アカデミズムの世界で明らかになった新しい信長像が浮かび上がってきます。

たとえば明智光秀が起こした「本能寺の変」において光秀の長年に渡る信長への恨みや、秀吉や家康の陰謀説が取り上げられることがありますが、学術的には信長がことさら光秀を虐待したということを裏付ける史料はないそうです。

また「桶狭間の戦い」で奇襲を仕掛けて今川義元を討ち取った信長には大胆なイメージがありますが、彼の人生においてそうした博打的な戦いは桶狭間の1回きりで、尾張国内の平定に7年、隣国の美濃攻略に7年、石山本願寺の攻略にも5年という月日を費やしており、信長の方が「鳴くまで待とうホトトギス」の家康よりも堅実な戦い方が目立っていました。

またブームの真っ只中にも関わらず、遠藤氏らしい率直な信長評も見られます。

もし信長の会社に我々が勤めていたら、首になるか、間違いなく過労死している(笑)。しかも彼は、すべての人物を機能としかとらえず、役に立たなければ捨ててしまう。いわば冷たい合理主義者で、私には、そんな英雄はいらぬわという気が心のどこかにあるんです。
それにしても、なぜ、信長という男は日本人に人気があるのでしょうか。その最大の理由は、早死にをしたということでしょう。沖田総司と同じで、本能寺の後も生きていたとしたら、信長の今日の人気はなかったと思います。

多くの歴史上の人物に言えることですが、やはりさまざまな角度から光を当てなければ本当の姿が見えてこないのかも知れません。

ニコライ遭難


タイトルにある"ニコライ"とは、のちのロシア皇帝ニコライ二世のことであり、その遭難を示す出来事とは、1891年(明治24年)に発生した大津事件を指しています。

本書は吉村昭氏が、大津事件の詳細や背景をこと細やかに描いた歴史小説です。

当時、皇太子だったニコライは両国の友好を深めるため軍艦とともに日本を訪れ、長崎→鹿児島→神戸→京都→東京という旅程を予定しており、京都から立ち寄った大津で巡査だった津田三蔵の凶行によって頭を負傷するという暗殺未遂が大津事件であり、日本史の教科書にも取り上げられています。

個人的には歴史小説というよりも特定の事件にクローズアップした歴史書といった方が相応しいほど、その描写は克明を極めており、ニコライの来日やそれを歓迎する日本の重鎮や民衆の様子が詳細に書かれています。

例えば以下はニコライが神戸に上陸した時の様子です。

ニコライは、出迎えの者に帽子を脱いで丁寧に握手をかわし、御用邸に入った。午後二時であった。
ニコライは、邸内に陳列された美術品をみた後、茶菓のもてなしをうけて十五分間休憩した。この間に、淡路洲本の新岡与文から鳴門蜜柑、小物屋町万年堂からカステーラ、神戸町一丁目明治屋からキリンビール、兵庫県湊町州田藤吉から瓦煎餅の献上をうけた。

やがて、ニコライは御用邸を出た。玄関前から門の外にむかって人力車がならび、宮内省から送られてきた人力車にニコライ、ジョージ親王、有栖川宮の順に乗り、・・・(略)

駐ロシア公使や政府内部でやり取りされた暗号電文や書簡も充分に紹介されており、そこからは当時の日本の様子のみならず、世界情勢までもが見えてきます。

当時のロシア帝国は世界最強の軍事国家であり、それに対して明治24年当時の日本は僅かな海軍しか所有しておらず、のちの日露戦争時の艦隊は姿形もありませんでした。

つまり明治天皇や日本の首脳陣たちは、この事件の結果がロシアの武力による報復、もしくは武力を背景にした巨額の賠償金へ対して頭を悩ませたのです。

東京から慌てて天皇や大臣たちが負傷したニコライ皇子が療養している京都へ見舞いに訪れる様子などは、日本の首脳陣が完全に狼狽してしまった結果だといっても過言ではありません。

こうした日本の誠意が通じたのか、幸いにもニコライ皇子の傷も命に別状なかったこともあって致命的な外交問題にはならずに事件は収束しました。

そして一転して本書の後半では、事件の張本人である津田三蔵への裁判を巡る行政と司法の対立と駆け引きが描かれます。

謀殺未遂罪は無期以下の懲役というのが当時の刑法ですが、第百十六条には以下の法案が織り込まれていました。

天皇・三后(太皇、太后、皇太后、皇后)・皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ、又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

松方正義首相はじめ、西郷従道伊藤博文といった首脳陣たちは、ロシア皇帝を満足させるためには厳罰、つまり第百十六条を適用して死刑とすることを主張しますが、児島惟謙大審院長をはじめとした裁判長や判事たちは、その法案の成立過程からも第百十六条は日本の皇室のみに適用されることは明らかであると主張し、何よりも司法権の独立を守り抜くために真っ向から対立します。

明治時代に1人の男が起こした事件を最大限まで拡大して見てゆくことで、かえって日本を取り巻く世界情勢が見えてくるという、まさに大津事件は当時の世相が凝縮された出来事だったのです。

プリズンの満月


"巣鴨プリズン"は、第二次世界大戦において戦勝国である連合国軍が多数の日本人戦争犯罪者を収容した施設として有名です。

その跡地は池袋サンシャインシティとして再開発され、当時の面影は公園に残された石碑以外に見い出すことは出来ません。

本書は吉村昭氏が"巣鴨プリズン"を舞台にして描いた小説です。

刑務官として40年間の勤務を終え定年を迎えた主人公・鶴岡が、昭和25年から8年間勤務した巣鴨プリズンでの出来事を振り返る形式をとっていますが、この主人公は著者が創造した架空の人物でありフィクションです。

ただしそこでの出来事は、当時のプリズンで事務官を務めていた森田石蔵氏からの詳細な取材、そして当時の記録を丹念に調べて執筆されており、その点では本書は紛れもなく歴史小説に位置付けられます。

収容された戦犯たちはGHQによりA級、B級、C級戦犯に分類されますが、これは犯罪の内容(種類)によって分類されたものであり、刑罰の軽重を示すものではありません。

実際にはA級戦犯として7名、BC級戦犯として52名が巣鴨プリズンで処刑されたといわれており、他にも20名が病気や自殺によってプリズン内で亡くなっています。

多くの犠牲者、遺族を生み出したという点で戦争が""であるという点に異論はありませんが、そもそも戦争という非常時における殺人行為を罪に問えるのか、戦勝国の人間が一方的に敗戦国の人間を裁く権利を有するのかという点については当時から国際的に議論されてきました。

実際に極東国際軍事裁判に参加したインド人判事・パールは「日本への原子爆弾投下を決断した者こそ裁かれるべき」という旨の発言をし、裁判という舞台が戦勝国による復讐的性格を帯びている点を鋭く批判しましたが、この言葉に本質的な矛盾が凝縮されているように思えます。

当初、巣鴨プリズンは米軍の将兵によって運営されていましたが、やがてアメリカ軍が主力となっている朝鮮戦争の情勢が激化するに及んで人手不足のため日本人の刑務官が招集されました。

つまり日本の国法によって罰せられた訳ではない日本人戦争犯罪者を日本人刑務官が監視するという図式が成立してしまうのです。

本書には囚人たちに課せられる強制労働、死刑執行、芸能人による慰問に至るまで、刑務所内での出来事がこと細やかに記載されるとともに、囚人、そして刑務官が抱く複雑な心情までもが滲み出すかのように伝わってきます。

後世の我々は、巣鴨プリズンが昭和33年に閉鎖されることを知っていますが、当時の人たちはいつまで拘置され続けるのかという不安、そしていつ死刑が言い渡されるかという恐怖の中で日々を過ごすと同時に、一家の大黒柱を失った家族たちが困窮していることを知るに及んで、大きな焦燥感を抱いていたのです。

これは巣鴨プリズンに限った話ではなく、オーストラリアやフィリピン、中国やソ連などに抑留された日本人たち共通の感情であったのです。

やがて第二次世界大戦が終わり年月が経過するとともに、戦犯へ対する国際世論が変わり始める様子も本作品から伝わってきます。

作品全体に漂うのは重苦しい雰囲気ですが、わずかな希望の光が差し込み始め、それが少しずつ広がってゆきます。

しかしそれまでに長い時間と多くの犠牲が必要だったのは残念であり、戦争という行為の結果もたらした1つの悲惨な出来事として、後世に生きる我々は教訓を得なければなりません。

かきつばた・無心状


井伏鱒二氏の短編が15作品も収められている何とも贅沢な文庫本です。

  • 普門院さん
  • 爺さん婆さん
  • おんなごころ
  • かきつばた
  • 犠牲
  • ワサビ盗人
  • 乗合自動車
  • 野辺地の睦五郎略伝
  • 河童騒動
  • 手洗鉢
  • 御隠居(安中町の土屋さん)
  • リンドウの花
  • 野犬
  • 無心状
  • 表札

随筆、私小説や歴史小説といった幅広いラインアップが揃っていますが、個人的に気になった作品を取り上げてみたいと思います。

まずは「おんなごころ」です。
これは井伏氏と交流のあった太宰治が愛人とともに入水自殺した時の出来事を振り返っています。

自殺直前の太宰はノイローゼ気味であり、先輩作家としての立場から療養することを薦めた著者との関係も良い状態ではありませんでした。

それでも自殺してしまった太宰へ対して強く忠告できなかった自分に「しまった」という後悔の気持ちがあること、一緒に無理心中した女性に振り回されていた太宰へ対して哀れみの感情を綴っています。


かきつばた」では広島へ原爆が投下された当時、故郷の福山市で体験したことを私小説として書いています。

福山市は原爆の影響を受けませんでしたが、壊滅した広島の様子が分からず、"奇怪な爆弾"によって一瞬に消滅したという噂が広まるにつれ、少しずつその悲惨な実態が明らかになってくる緊迫した様子が伝わってきます。

やがて福山市も大空襲に襲われ、著者は避難した山の尾根から町の燃える明るみを眺めることになります。

強烈な体験にも関わらず、井伏氏の作風らしく強い感情を表に出さずに淡々と当時を振り返っているのが印象的です。

そして終戦直後に友人宅の池で著者が目撃した1人の女性の水死体、その池に季節外れに咲いていたカキツバタがなぜか不思議な純文学の世界を感じさせます。

この時の体験が後にに大作「黒い雨」を執筆する大きなきっかけになったのは間違いありません。


御隠居(安中町の土屋さん)」では、著者が上州安中町に住む80歳の老人の元を訪れ、日露戦争に従軍し重傷を負った挙句にロシア兵の手によって捕虜にされた時の体験談を聞きに行ったときの様子を描いています。

老人の所属していた中隊はロシア軍の包囲によって全滅し、ほとんど唯一人の生き残りという悲惨な状況でしたが、耳は遠くなっているものの、快活かつ無頓着に当時の体験を話す老人の迫力に圧倒され、肝の据わった明治人の姿をそこに見出します。

井伏鱒二という作家の落ち着いた作風が根底にありながらも、これだけ多彩な作品を生み出せる才能に感心せずにはいられません。

宮本武蔵―「兵法の道」を生きる


私にとって宮本武蔵のイメージは、ほぼ吉川英治の小説がすべてです。

もっとも同氏の作品では、宮本武蔵が巌流島で佐々木小次郎との決闘に勝利した場面で終了し、その後半生にはまったく触れられていません。

私の中では若くして半ば隠遁生活に入り、水墨画や「五輪書」を執筆して暮らしたという勝手なイメージを持っていました。

本書は思想学者でもある魚住考至氏が、信頼できる文献からその生涯を丁寧に追ってゆき、半ば創作によって伝説化された宮本武蔵の実像に迫るとともに、そこから浮かび上がってくる思想を「五輪書」などを中心に専門家の視点から解説してゆく構成になっています。

小説に登場するヒロインのお通や幼馴染の又八は吉川氏が作った架空の人物であり、沢庵和尚との関係も事実ではなかったというのは予想通りですが、佐々木小次郎との決闘で武蔵が約束の刻限に大きく遅れ「小次郎、敗れたり」で有名な波打ち際での決闘場面は創作の可能性がきわめて高く、実際の勝負は約束の刻限に両者が同時に相会して行われた可能性が高いというのは意外な発見でした。

ただし武蔵が自作の大木刀を用いて、勝負を一撃で決したという部分は事実のようです。


小次郎との決闘を制した武蔵は、その後の人生も隠遁生活とは程遠いものでした。

三河刈谷城主・水野日向守勝成の元で大阪夏の陣に参加し、その後は姫路藩で自身の流派を広め、さらに明石城を築く時には兵法家として城下の町割り(城下の区画整理)を担当しています。

同時期に京都の文化サロンにも顔を出すようになり、そこで画を描き始め、庭造りにも挑戦したようです。

やがて明石の小笠原藩が小倉に移封されるとともに一緒に九州へ渡り、島原の乱にも養子の宮本伊織とともに出陣しています。

伊織はやがて小倉藩で筆頭家老の地位にまで上り詰めますが、客分の武蔵は名古屋や江戸にも頻繁に出かけてゆき、文化人たちと交流するとともに、精力的に自らの流派を広める活動を行っていたようです。

60歳を目前にして熊本の細川藩の客分として高禄で召抱えられ腰を落ち着けますが、そこでも藩主や重臣たちへ剣術指導を行っています。

ようやく最晩年になって熊本郊外の洞窟(霊巌洞)にこもって「五輪書」を執筆し始めますが、とっくに隠居していてもおかしくない年齢にも関わらず、こうでもしなければゆっくりと執筆活動の時間さえ満足に取れなかったような印象を受けます。

とにかく本書から浮かび上がってくる宮本武蔵の人生は、孤独とは程遠いものであり、むしろ多くの人たちとの交流を通じて名声を高めたという印象が強いものでした。

後半の五輪書を解説している部分は、多くの書籍で取り上げられている部分でもあるため割愛しますが、その特徴をひと言で表せば、神がかった精神論や無意味な伝統を排除した"極めて実践的な内容"であるということです。

本書によってひたすら剣術のみに打ち込んだ宮本武蔵のイメージが崩れ去り、殺伐とした戦国時代の中で誰にも縛られず自由に生き抜いた新しい武蔵像が見えてきたような気がします。

地獄変


一度は読んでおきたい名作を、あなたの鞄に、ポケットに-。

角川系列と思われるハルキ文庫から出版されている"280円文庫シリーズ"のキャッチフレーズです。

いずれも日本文学の名作が収められており、本書には芥川龍之介の作品以下4篇が収められています。

  • 地獄変
  • 藪の中
  • 六の宮の姫君
  • 舞踏会

いずれも過去に何度か読んだことのある作品ですが、彼の作品はいずれも読み終わった時に強烈な感動や悲しみといったものが湧いてきません。

その代わりに何ともいえない淡い余韻が続き、意識せずとも断片的に作品の風景が頭の中に浮かんでくるのが特徴です。

例えるなら俳句のあとに残る余韻に似ているかもしれません。

そこが映像や絵によってストーリーが展開されてゆく映画やマンガといった媒体とは決定的に違う小説の特徴でもあり、とくに芥川龍之介の作品にはそれを強く感じます。

たとえば「地獄変」で見る者を戦慄させた良秀の描く地獄変の屏風はどのようなものなのか?

また「舞踏会」における鹿鳴館の優雅な様子などが、何となく頭の中に浮かんでくるのです。

こうした読了後の余韻に浸りたくて芥川龍之介の作品を繰り返し読んでしまうのかも知れません。

本書のような手頃な価格で場所もとらない文庫本を身近に置いておくというのも悪くありません。