井上成美
山本五十六、米内光政に続き阿川弘之氏「海軍提督三部作」のトリを務めるは、井上成美(いのうえしげよし)です。
3人の中で一番年少の井上であり、最後の海軍提督でもあります。
米内は寡黙で部下へ対しても滅多に腹の内を見せない重厚なタイプのリーダーであり、山本は率先して行動する活発なリーダーでした。
そしてこの対照的な2人の上司と行動を共にした井上は、知性的なリーダーであったといえます。
この3人は「海軍左派トリオ」と言われ、いずれも日独伊三国同盟、日米開戦へ一貫して反対だったことは知られていましたが、3人の中でもっとも強固な反対意見を述べ続けていたのが井上でした。
舌鋒鋭く身も蓋もない発言は上司や部下を辟易させることがしばしばあり、政治的な妥協を知らずにいかなる権威にも屈しなかった井上は、米内や山本と違い、海軍内部からの評価でさえも分かれる人物だったようです。
彼は精密なデータから理論や分析を積み重ね、大和魂に代表される精神論を一切排除し、第二次大戦緒戦におけるドイツの快進撃を一時的な戦況であると冷静に分析していました。
つまり戦前から日本が敗北するという結末を正しく予測し、彼の開戦反対の根拠は思想からではなく、つねに理論的な根拠を伴ったものでした。
しかし結果として米内、山本含めて彼の意見が容れられることはありませんでした。
アメリカは開戦前から井上の言動を把握しており、井上が戦争責任を追求されることはありませんでしたが、戦後間もなく彼自身は責任を感じ三浦半島の長井で隠棲生活を始めます。
それは食べるにも事欠く貧しい暮らしでしたが、かつての海軍仲間たちの資金や物資援助を簡単に受け入れることはありませんでした。
井上は海軍きっての知性と呼ばれていましたが、それを自らの昇進や金儲けに活用することを極端に嫌い、清廉、頑固といった側面がありました。
軍人を神格化することを嫌い、乃木神社や東郷神社の存在を苦々しく思い、かつての上司であった山本が戦死し郷里の長岡で山本神社建立の相談があったときもはっきりと反対しています(もっとも山本自身の性格からしても祀られるのは迷惑だっと思いますが)。
井上は昭和17年に江田島の海軍兵学校の校長へ事実上の左遷という形で就任することになりますが、そこでも彼は自分の流儀を貫き通します。
館内に掲げられている歴代海軍大将の写真をすべて下ろさせ、英語の使用が敵性語として陸軍では使用が禁止されたのちも、自国語一つしか話せない海軍士官が世界に出て通用するわけが無いと断言し、英語のカリキュラムを廃止することもありませんでした。
また「生徒たちをもっと遊ばせろ」と指示し、幅広く一般教養を身に付けさせることで視野の広い士官を育てるというのが井上の方針でした。
またさらにその裏にあったのは、日本がやがて敗戦し、その後復興させるための人材を育成するという遠大な計画でもあったのです。
ある人は井上の本質は教育者だったと評しますが、彼自身にもそうした自覚があったようです。
人情の機敏に疎かった面があり器の大きなタイプの大将ではありませんでしたが、それが故に終始迷うことなく日独伊三国同盟、日米開戦に断固反対し続けた孤高の人であったのです。