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その峰の彼方

その峰の彼方 (文春文庫)

今から10年以上前になりますが、新田次郎氏の山岳小説を夢中になって読んでいた時期がありました。

そんな私にとって本書の作者である笹本稜平氏は、現役作家における山岳小説の第一人者でもあります。

ただし新田氏がノンフィクション小説を得意としていた一方で、笹本氏は山を舞台にした多様なフィクション小説を得意としている点で特徴が異なります。

その中でも「その峰の彼方」は、正統派かつ本格的な山岳小説といえるでしょう。

舞台はアメリカのアラスカ州にそびえる北米最高峰・マッキンリー、近年では先住民の呼び名である"デナリ"が正式名称となっているようです。

実績を残しつつも日本の山岳界に窮屈さと閉鎖感を感じていた主人公・津田は、デナリの魅力に取り憑かれ、アメリカ国籍を取得してデナリの麓にある小さな町・タルキートナでツアー会社を営んでいました。

そんなある日、学生時代からの友人である吉沢の元へ津田が厳冬のデナリで遭難に合ったとの連絡が入ります。

吉沢は急遽日本からアラスカへ飛び、地元のレンジャーたちと津田を救出すべくデナリへと向かうのでした。


ここまでは長い物語の導入部ですが、本作品には山岳小説にある幾つもの要素が取り入れられています。

まず何と言っても外せないのがデナリを舞台としている点です。

デナリはエベレストよりも2700メートル低い山ですが、登山に要する高低差はエベレストに勝り、加えて北極圏に近い高緯度にあるため冷え込みが強く、気圧が低い(空気が薄い)といった厳しい自然条件下にあります。また一方では、独立峰に近い山容と巨大な氷河を兼ね添えた雄大な山でもあります。

つまり山岳小説には欠かせないデナリの美しさと厳しさが物語の中で何度も描写されてゆきます。

そこへ誰も成し遂げていないカシンリッジ・ルート冬期単独登攀を目指した津田の挑戦は、冒険小説としての魅力を充分に備えています。

また遭難し行方不明となった津田を捜索する吉沢たち一行の苦闘は、山岳救助の緊迫感に溢れています。

タルキートナには津田の生還を信じる、出産を控えた妻の祥子、先住民のリーダーであり津田のメンターでもあるワイズマン、津田が登山前に構想してた新しいビジネスのパートナーであり山岳部の先輩でもある高井の姿があります。

他にも挙げればキリがありませんが、ともかく多くの要素を取り入れた本作品からは、著者のかける意欲が伝わってきます。

そして作品自体はかなりの長編になっていますが、何と言ってもクライマックスは津田自身に迫る生命の危機とともに訪れる内面的な経験ではないでしょうか。

作品ではそれをオカルト的な超常現象やサードマンのような心理的作用ではなく、人知を超えた大自然の意志という形で描いています。

ただし作品中でその正体が明らかにされている訳ではなく、その解釈はそれぞれの読者に委ねられています。

ぜひ読み応えのある山岳小説にチャレンジしてみは如何でしょうか。