成功する里山ビジネス
まず本書のタイトルには分かりにくい点があります。
"里山ビジネス"というと、里山にある天然資源や自然を利用したビジネスを想像してしまいますが、本書の内容はかなり方向性が違います。
もちろん田舎暮らしに憧れて移住するという類の本でもありません。
地方を活性化するビジネスに従事し、成功または活躍している人たちを紹介してゆくというのが本書の主旨です。
改めて言うまでもなく日本は高齢化社会、人口減社会と騒がれていますが、そのスピードは想像以上に早く進んでいるという実感が個人的にもあります。
山奥だけでなく地方都市でさえも空き家が目立ちシャッター商店街が増えつつあるニュースを耳しますし、実際にそうした風景を目にする機会が増えてきました。
一方で首都圏への転入超過は続いており、地方との経済格差は開いてゆくばかりです。
著者の神山典士氏は、人口減に入った今の時代を「下山の時代」と定義し、高度経済成長の時代は集団就職に代表されるように大都市に人口を集約させ大量生産を行った時代と逆のことをやるべきだと提唱しています。
すなわち著者の提唱する下山サイクルとは次のようなものです。
「労働分散(地方へ行け!)」→「労働生産性の低下(経済効率以外の価値の創出)」→「所得減少(貨幣価値以外の生き甲斐、やり甲斐の創出)」→「新しい物を買うよりも再利用、古民家再生、廃校利用等」→「物をつくっても買う人のいない状況=デフレギャップ」→「さらなる労働力分散」
この割り切った考え方には私も賛成です。
地方の人口を増やそうとしても日本全体で人口が減っている状況では限られたパイ(移住者)の奪い合いになりますし、すべての地方の取り組みが成功することはありません。
それは観光についても同じで、必ず成功する地方と失敗する地方が出てきます。
それよりは少ない(限られた)人数で地方を活性化させる手段を模索する方が現実的だと思えます。
本書では出版、演劇、農業やワークショップ、コンサルタントなどで地域を盛り上げる人たちが紹介されていますが、いずれも田舎で隠居暮らしにはほど遠いバイタリティ溢れる人たちです。
また重要な点として自分の生まれ故郷を活性化させたいという人よりも、都会から移住した人たちの"よそ者視点"がキーワードになっている点です。
それは地元の人にとって当たり前過ぎて気付いていないものこそ、実は都会からは魅力的に映っているものが多く、また都会におけるビジネス経験と行動力が地方にとって大きな戦力となるケースが多いからではないでしょうか。
さらに"ビジネスの成功=経済的な成功"と位置付けていないところも本書に登場する人たちの特徴です。
地域のコミュニティが活性化して継続してゆくこと、そして何より精神的な豊かさを重要視することこそが本書のいう"成功する里山ビジネス"なのです。
マヤ探検記 下
スティーブンズとキャザウッドの2人が1839年に行ったマヤ文明遺跡発見の探検は、1841年に「中央アメリカ、チアパス、ユカタン旅行の出来事」として出版されますが、これが爆発的に売れてベストセラーとなります。
当時の知識人たちにも絶賛され、2人は一躍有名人として知られるようになります。
そして旅行記を出版した1941年10月には早くも2度目の探検に出発します。
それは同時に過酷なジャングルへ豪雨や泥にまみれたながら蚊やダニや病気という困難に再び立ち向かうことを意味していました。
彼らの勇気ある挑戦は報われ、またしてもピラミッドをはじめとした数々の建造物やモニュメントを発見し大きな成果をあげました。
2人はもっとも有名な探検家としての名声を揺るぎないものとし、1943年に出版した「ユカタン旅行の出来事」はまたしても大ヒットすることになります。
スティーブンズには探検家としての資質だけでなく類まれな文才も持ち合わせており、キャザウッドの正確なデッサン力との相乗効果で今でも歴史に残る名著として知られています。
何と言っても現代であれば国家事業として行われるべき遺跡調査を、たった2人の探検家が成し遂げたのです。
何度もマラリアや怪我によって倒れ、時には生命の危機も経験しながらも探検を続ける2人の姿は常識からは考えられません。
探検記を読んでいると、心の奥底から湧き上がってくる前向きな精神力がジャングルの中を進む原動力になったことがよく伝わってきます。
ただし残念なことに、結果的に今回の探検が2人にとって最後になります。
未知の文明を追い求めるスリルのある日々ではなく、生計を立てるための現実的な日々に追われることになるのです。
スティーブンズは実業家として、キャザウッドはエンジニアとしていずれも当時爆発的に普及しつつ合った鉄道に関わることになります。
当時のアメリカは開拓時代が終わりつつあり、近代化へ向けた新技術が次々と生まれ始めた時代でもありました。
探検家としてのキャリアを終えたスティーブンズは、経営者としてパナマで鉄道を敷設するために奔走し、キャザウッドは鉄道技師という新しい仕事を見つけます。
残念なことにスティーブンズは、探検家時代に体を酷使したせいか1852年に46歳という若さで世を去ります。
そしてキャザウッドもその後を追うようにして、1854年の海難事故によって亡くなります。
スティーブンズは数々のマヤ遺跡を発見したものの、当時は考古学的な研究は行われずほとんど具体的なことは分かりませんでした。
本書の終盤では、現代のマヤ文明研究を紹介する形でスティーブンズの偉業を現代に伝えてくれます。
それでもマヤ文明に関する研究はエジプトなどと比べるとまだまだ発展途上にあり、これからも次々と新しい発見があるに違いありません。
マヤ探検記 上
まず本書のタイトルにある"マヤ"とは、メキシコやグァテマラといった現代の中南米(ユカタン半島)を中心に栄えたマヤ文明を指します。
このマヤ文明はアメリカ大陸でもっとも早くに栄えた文明であり、その歴史は同じアメリカ大陸のアステカ文明やインカ文明よりも古く、四大河文明にも劣らない高度な文明を築いていました。
しかしコロンブスがアメリカ大陸と発見した15世紀末には既に滅んでいた文明であり、長きに渡りほとんど存在さえ知られていない謎に満ちた存在でした。
時が流れ19世紀にはじめてマヤ文明の遺跡を本格的に探索したのが、本書の主人公であるジョン・ロイド・スティーブンズとフレデリック・キャザウッドの2人でした。
まだ"考古学"という分野が黎明期であり、体系的な研究や支援が得られなかった時代に遺跡を発見するのは、スティーブンズたちのような好奇心と勇気を兼ね備えた探検家たちに委ねられていました。
スティーブンズは弁護士、キャザウッドは建築技師の資格を持ちながらも、ジャングルの奥深くに眠る古代文明の遺跡を発見するという魅惑にとりつかれ、1839年にニューヨークからユカタン半島の付け根にあるベリーズに向かって旅立ちます。
そしてもちろん彼らの探検は旅行とは異なります。
熱帯雨林という過酷な自然条件の中をボロボロになりながら突き進んでゆく2人の姿は、勇敢な探検家というよりジャングルをさまよう遭難者に近いものでした。
さらに2人の前に立ちはだかったのが、南米各で勃発していた内戦による治安問題でした。
武器を手にした原住民のインディアンやメスティーソたちによりたびたび危険にさらされますが、探検にあたり外交官の使命も同時に帯びたスティーブンズの卓越した交渉術により何とか危機を乗り切ってゆくのです。
本書ではマヤの探検記だけでなく、スティーブンズとキャザウッドの経歴についても細かく触れています。
そこからは活発で社交的なスティーブンズと、物静かで職人気質のキャザウッドという対照的な人物像が浮かび上がってきます。
しかし何ヶ月にも渡って協力し合って探検を成功させたことからも分かる通り、2人の相性は抜群だったのです。
上下巻700ページ以上にも及ぶ大作ですが、19世紀前半に未知の文明を求めた2人の探検家の足跡を余すことなく現代に伝えてくれる伝記であり、同時に読者を夢中にさせる手に汗握る冒険記でもあるのです。
山の怪談
田中康弘氏の「山怪」シリーズに影響されてタイトルだけを見て思わず手にとった本です。
もちろん山にまつわる怪談集だと思ったのですが、実際には20人もの民俗学者、作家、登山家、随筆家のアンソロジー本です。
その時代も幅広く明治~平成といた範囲で、編集者のセンスと好みで収集されています。
実際に読んでみると怪談だけでなく、柳田国男や高橋文太郎といった民俗学者としての立場から民話を解説したものから、山とはあまり関係ないと思われる幽霊ばなし、短編小説などが掲載されていたりと読み始めてから戸惑いがあったのが正直な感想です。
もちろん中には登山家が体験した正真正銘の"山の怪談"も掲載されていますが、全体的にはアンソロジーとしてまとまりがないように感じました。
しかし本書に掲載されている1つ1つの作品は完成度の高いものであり、途中から雑誌の特集記事の切り抜きを読むような感覚に切り替えてからは楽しく読むことができました。
数多くの作品の中で個人的に興味深かったのは、世間的にはあまり知られていない郷土研究家、民俗学者である小池直太朗氏による「貉の怪異」という"ムジナ"にまつわる民話を扱ったものです。
山で人を化かしたり驚かせる動物といえば狐や狸が定番ですが、信州ではムジナにまつわる民話が数多く残されているそうです。
山暮らしの経験がない人にとって"ムジナ"という名称は聞いたことはあっても馴染のある名前ではありません。
実際、「ムジナ=アナグマ」という認識が一般的ですが、狸やハクビシンをムジナと呼んだり、そのいずれにも当てはまらない独自の動物だったりと地域によって異なるようです。
ともかく昔から日本人にとって馴染みのあるはずの"ムジナ"が実は正体が定かではなく、人に化けたり、寒林で木を伐る音を真似たり、さらに小川で小豆を洗う音を立てたりという伝承が多く残っているという話は興味深く印象に残っています。
雪男は向こうからやって来た
著者の角幡唯介氏は、探検家という肩書を持つノンフィクション作家です。
探検家といえば人類未踏の地の探索、未踏破の山への初登頂、はたまた極地探検などを思い浮かべますが、本書はヒマラヤ山中に棲むという謎に包まれた"雪男"を見つけるという、読者の予想の斜め上をゆく探索をノンフィクションとして描いたものです。
雪男と聞くと、妖怪や幽霊と大差のないオカルトな世界を想像してしまいますが、それは著者自身も同じだったことが本書に書かれています。
つまりはじめは雪男の存在に否定的だった著者は、知人から紹介されて雪男捜索に熱中する高橋好輝をはじめとした捜索隊の面々と合うことになります。
そこで芳野満彦、田部井淳子、小西浩文といった世界的に有名な登山家たちも雪男の目撃経験を持っていることが判明します。
中でもフィリピンのルパング島で残留日本兵の小野田寛郎を発見したことで有名な冒険家・鈴木紀夫に至っては雪男発見に執念を燃やし、その捜索中に雪崩によって生命を失うことになります。
海外登山家の中でも雪男の目撃談は数多くあり、足跡についてはかなりの数の写真が撮影されてきました。
著者が参加することになった雪男捜索隊のメンバーたちはいずれも経験豊富な一流の登山家たちであり、彼らの真剣な眼差しと熱意に接するうちに著者も「もしかして」という期待を抱くようになります。
ただし雪男を捜索するために向かったダウラギリ山系にあるコーナボン谷はヒマラヤの中でも秘境であり、登山家で賑わう有名な高山と違い、有史以来数えるほどしか人間が足を踏み入れていない最果ての地域でした。
本書は雪男捜索の旅だけを対象にしたノンフィクション作品ではなく、そこへ至るまでの過程、著者による有名登山家への雪男目撃談の取材など、サイドストーリーでしっかりと肉付けされており、重厚なノンフィクション作品に仕上がっています。
実際の雪男捜索は単調な見張り作業がほとんどのため、それ自体では紙面を稼げないという現実的な課題もあったでしょうが、結果として読者もいつの間にか雪男捜索を "空想家の気まぐれ" ではなく、"人類にとっての新発見" として期待してしまう説得力が出てくるのです。
捜索がどのような結果に終わるのかは読んでからのお楽しみですが、途方のない現実離れした大発見に熱意を持ち続ける人たちを "人生の浪費" と見なすか、"充実した人生"と見なすかによって本作品の価値は変わってきますが、読者が後者であれば本作品を夢中になって読むことができるでしょう。
木村政彦 外伝
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」は読み応えがあり、伝説の柔道家・木村政彦の実像を知ることのできる大作ノンフィクションでした。
そして前述の本を木村政彦の"正伝"として位置づけ、本書は文字通り"外伝"として書かれたものです。
序盤では、"史上「最強」は誰だ?"と題して、木村政彦と山下泰裕が柔道で対決したらどうなるかをシュミレーションしています。
山下泰裕といえば木村政彦と同じくかつて"史上最強の柔道家"と評された名選手であり、一般的な知名度は木村より上ではないでしょうか。
木村と山下は現役時代が重なっていないため夢想と言ってしまえばそれまでですが、2人を知る柔道家へのインタビュー、それぞれのエピソード、さらに柔道経験者である著者が具体的なテクニックにまで言及し、かなりマニアックに検証しています。
中盤以降は対談&インタビュー形式で木村政彦にとどまらず、柔道全般について縦横無尽に語っています。
本書に登場する対談相手を書き出してみます(カッコ内は肩書き)。
- ヒクソン・グレイシー(柔術家)
- ミスター高橋(新日本プロレスの元レフェリー)
- 安齋 悦雄(元拓大柔道部監督)
- 青木 真也(総合格闘家)
- 岩釣 兼生(元柔道家)・石井 慧(元柔道家・総合格闘家)
- 岡野 功(元柔道家)
- 堀越 英範(元柔道家)
- 松原 隆一郎(社会経済学者)・磯部 晃人(柔道評論家)
- 平野 啓一郎(小説家)
- 角幡 唯介(作家・探検家)
- 菊池 成孔(ミュージシャン)
- 猪瀬 直樹(作家)
- 原田 久仁信(漫画家)
- 吉田 豪(ライター)
- 綾小路 翔(ミュージシャン)
- 小林 まこと(漫画家)
- 中井 祐樹(元総合格闘家・柔術家)
見て分かる通り、柔道界にとどまらず幅広い分野の個性豊かな人たちが次々と登場してくるため、対談テーマは似ていても発言内容には思った以上にユニークさがあり、読者を飽きさせません。
誤解を恐れずに言うと、本書は私が学生時代によく読んでいたプロレスのムック本(雑誌の別冊)の雰囲気によく似ています。
木村政彦の生涯を丁寧になぞり人物像を明らかにするという点では、前作である程度やりきった雰囲気があり、本書にはそれを補足しつつも遊び心が垣間見れるからなのかも知れません。
ハードカバーで分量もたっぷりあるため、木村政彦ファンになりかけている私にとってかなり贅沢な気分で読書に浸ることができました。
なお本書を10倍楽しむために、前もって前作「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んでおくことを是非おすすめします。
そして本書を読み終わる頃には、"木村政彦マニア"になっているはずです。
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