石橋湛山―リベラリストの真髄
石橋湛山(いしばし たんざん)は明治~大正、そして昭和を生きたジャーナリスト、そして政治家です。
戦後の政治家という点では、吉田茂、鳩山一郎、池田勇人と比べると知名度は低いのではないでしょうか。
それは病気によりわずか2ヶ月間で総理大臣の地位を去った「悲劇の宰相」であることも一因でしょうが、彼を別の視点から見るとまったく違った像が浮かび上がってきます。
彼の真骨頂は近代日本における稀有なリベラルなジャーナリストとしてであり、前出の3人が生粋の政治家であったのと違い、彼が政界を志したのは戦後になってからでした。
当時の日本においてリベラルなジャーナリストは、政府から危険視されていた共産主義者よりも珍しい存在であり、帝国主義、そして次々と植民地政策を推し進める日本政府へ対して一貫して反対し続けました。
まずは有権者の資格として直接国税を一定以上納めるという条件を撤廃し、完全なる普通選挙と民主主義の実現を訴え続けました。
湛山は明治期の政府を藩閥政治、専制政治であると批判し続けたのです。
次に朝鮮半島や満州含めた日本の実質的な植民地をすべて放棄することも主張し続けました。
外国はそこに住む各民族が主権者なのであって、無理に支配したところで反感や不安は決して消えず、結果的に長い目で見れば政情不安の原因になり、国家にとって損失になるというものでした。
湛山は単純な平和主義者であったわけではなく、その理由を政治、外交的論点、経済的論点、人口・移民的論点、軍事的論点、国際関係的論点いずれから見ても無益であることを理論的に指摘したのです。
それは帝国主義そのものを否定することであり、その延長線上にある日中戦争、日独伊三国同盟、アメリカとの開戦すべてを批判し続けました。
湛山は東洋経済新報社の記者、あるいは主幹としてこうしたジャーナリスト活動を続けましたが、戦時下の言論統制にあっても発言や考えを翻すことはありませんでした。
当時の政府は言論弾圧の方法として、反戦的な記事の出版社へ対してインクや用紙の割当を減らすといった実力行使に出ますが、それを心配した友人が同情しても
「いざとなれば雑誌を廃める覚悟さえしていれば、まだ相当のことがいえますよ」
と語ったといいます。
湛山は社屋や私邸を売却してでも雑誌を発行し続けることにこだわり、言論の自由を何よりも重んじていたのです。
湛山はクラーク博士、そのクラークの薫陶を直接受けた大島正健(湛山が通った尋常中学校の校長)から強い影響を受けており、そこで学んだアメリカン・デモクラシーの精神がその考え方の根底にあり続けたのです。
そのため戦後の実質的なアメリカ占領下の日本ではGHQと意見が一致したかといえば、まったくの逆でした。
政界へ進出した湛山は、戦勝国による一方的な占領政策を批判し、日本の真の独立を模索し続けたのです。
そのためGHQから帝国主義者・全体主義者というまったくの濡れ衣で公職追放(レッドパージ)される屈辱を味わうことになります。
1950年代の段階で湛山は日米安保体制、つまりアメリカ追従外交が日本およびアジアの安全を将来にわたり保障することは困難であることを予測し、日中米ソ平和同盟という構想を持ち、かつその実現に向けて精力的に活動していたのです。
そしてまさに現在、米中関係が冷え込む中で湛山が危惧していた安全保障上の不安が実現化しつつあります。
当時と違い中国が大きな成長を遂げた今、あくまでも日米同盟に固辞し続けるのか?
今まさに石橋湛山という人物を再評価する時期が来ているといえます。