おろしや国酔夢譚
天明2年(1782年)。
伊勢から江戸を目指して出港した廻船・神昌丸に乗り込んだ船頭光太夫はじめ15名は嵐によって7ヶ月も大海を漂流することになります。
神昌丸はアリューシャン列島の1つアムチトカ島に漂着しますが、アラスカ半島に連なる列島ということもあり、そこでは過酷な自然が待ち受けていました。
タイトルにある"おろしや"とはロシアのことであり、ベーリング海一帯に毛皮を求めて進出していた当時のロシア帝国の人びとと出会うことで彼らの運命は大きく変わってゆきます。
光太夫一行の異国での生活は10年間にも及びますが、故郷へ戻るという念願を果たせず寒さや病気で次々と倒れてゆく仲間たちが続出することになります。
それでも光太夫はユーラシア大陸を横断しモスクワやペテルブルグを訪れ、ロシア皇帝エカチェリーナ2世に拝謁することになります。
文化も言葉も気候もすべてが違う異国の地で過ごす日々。
さらに帰国の可能性も定かではない不安がつきまとうとあっては、お世辞にも明るい物語とはいえません。
それでも光太夫に協力してくれる少数のロシア人が現れたり、若い船員たちはいち早く日常生活の中でロシア語を覚えて彼らの生活に馴染んでゆく様子も描かれています。
はじめは漂流記くらいの気持ちで読んでいたのですが、次第に15名の日本人たちの人生を描いた壮大な作品であることに気付き、読む人によって印象に残る登場人物も異なってくるはずです。
例えばロシア文化に馴染もうとせず、ひたすら故郷へ帰ることだけを願い続けた九右衛門と、洗礼を受けロシアの地に残る人生を選んだ新蔵の存在は対称的です。
また本作品の持つ別の魅力は、数奇な運命でロシア帝国を訪れることになった当時の日本人たちの紀行文になっているという点です。
作者の井上靖は光太夫の残した記録だけでなく、ロシアに残っている文献も引用して当時のロシア人たちの生活や文化、滞在した町で起こった出来事などを作品の中で綴っています。
本作品の主人公ともいえる漂流時の船頭であり、ロシアの地では日本人たちの代表であった光太夫は不屈の精神で仲間たちを励まし続け、またロシア帝国の要人に働き続けることで帰国を実現させます。
単純な娯楽小説として楽しむには暗い作品ですが、歴史小説、紀行文、そして人間ドラマを描いた作品としての魅力を持っています。
つまり時代を超えて読み続けられるべき1冊ではないでしょうか。