アグルーカの行方
本書には「129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」という副タイトルが付いています。
フランクリン隊は極地探検史における最大の悲劇として知られており、彼らの目的はヨーロッパから北極圏を通って太平洋へ抜ける北西航路の開拓でした。
1845年にエレバス号とテラー号の2隻で出発したフランクリン隊は北極圏で氷に閉じ込められたため、やむなく陸路を通っての帰国を目指しますが、その途中で129名全員が帰らぬ人となります。
何人かのイヌイットによる目撃情報、そしてその後行わた探索によって発見された隊員たちの遺体や遺留品から当時の状況が分かってきますが、彼らは最終段階において飢餓のためにカニバリズム(人肉食)が行われたことも明らかになり、当時のヨーロッパに衝撃が走りました。
しかし生存者が1人もいなかったため、遭難の全貌は今でも解明されていません。
本書は作家であり冒険家でもある角幡唯介氏が、同じく極地冒険家として知られている荻田泰永氏とともにフランクリン隊の軌跡を辿る冒険を行ったノンフィクションです。
角幡氏は冒険家であっても未踏の山や絶壁に挑戦する登山家やクライマーではなく、人の住んでいない僻地を冒険することに興味があるようです。
彼らは凍った海や島を徒歩によるソリ引きでフランクリン隊の軌跡を辿り、乱氷による凹凸をソリで乗り越えるのに苦戦するものの、地形的にはほぼ平坦です。
さらに景色も変化に乏しい氷の世界が続きます。
しかし極地冒険の最大的の難関は、フランクリン隊がそうであったように気候そのものにあります。
顔から氷柱を垂らして凍傷を負いながら歩き続ける彼らの半径数百キロ以内には1人の人間も住んでいない世界であり、その過酷な自然環境は作品の中からよく伝わってきます。
例えばマイナス20度以上の気温の中で人間が活動を続けるためには、通常の2倍以上にあたる1日5000キロカロリーを摂取しても充分ではなく、角幡氏たちは激しい飢餓に悩まされ続けます。
作品はフランクリン隊の消息を解説、または推測しながら冒険の過程を実況するような構成ですが、氷の上をひらすら歩くという単純な行為そものが困難な冒険であることがよく分かります。
また人間は登場せずとも、ホッキョクグマ、麝香牛、雷鳥といった北極圏ならではの動物が登場します。
しかし極限状態にある角幡氏たちにとって動物たちは観察対象というより、乏しい食糧を補充するための狩りの対象であったのです。
本作品の魅力は単純な極地冒険録として楽しめることはもちろんですが、荒涼とした景色の中で150年前のフランクリン隊の姿を探し求める旅という視点でも味わい深い作品です。
フランクリンは大英帝国の威信と期待を背負いながらも希望を持って旅立ったはずですが、やがてそれは失望に変わり絶望で幕を閉じることになります。
その結末を知っている後世の人間が、同じ道を辿るという行為は極地冒険であると同時に、情緒漂う探索といった雰囲気があるのです。
それでも、日本人は「戦争」を選んだ
著者の加藤陽子氏は東京大学の文学部教授であり、本書では著者が中高生へ行った5日間の特別授業の内容が収められています。
テーマはタイトルにある通り、近代史における日本が戦争を行った理由であり、以下のように分かりやすく順を追って授業が進められてゆきます。
- 日清戦争
- 日露戦争
- 第一次世界大戦
- 満州事変と日中戦争
- 太平洋戦争
中高生向けということで噛み砕いた内容かと思えば、大人にとってもかなり読み応えのある内容になっています。
歴史の教科書であれば年号や出来事、人物名の暗記が中心ですが、本書の授業ではつねに
「なぜこのとき日本はこのような決断を下したのか?」
を考えることが求められます。
代表的な例として、なぜ日本は長期化しつつある中国との戦争、朝鮮や満州の防衛といった課題がある中で、さらにアメリカヘ対して無謀ともいえる太平洋戦争の開戦に踏み切ったのかという疑問があります。
もちろん戦争を決意した当時の首脳陣たちは最初から負けることを覚悟していた訳ではなく、彼らなりの勝算があったのです。
それを知るためには過去の出来事を1つずつ取り上げるのではなく、連続した流れの中で理解する必要があります。
政治、経済、軍事的要素だけでなく、当時の民衆心理や社会的背景、相手国(中国、ロシア、アメリカ)の立場からの視点でも考察する必要があるでしょう。
著者の紹介する史料は一般的な歴史教科書には掲載されていない、たとえば日記やメモ、演説内容といったものであり、当時の人びとがどのように状況を把握していたかが分かる新鮮なものばかりです。
過去の出来事を調べるのは手段でしかなく、歴史学の本質は先人たちの言動から何を教訓にすべきかを学ぶことにあります。
一方で同じ過去の出来事から導き出される教訓が人によって正反対であることも珍しくなく、仮に人間が歴史からつねに正しい教訓を引き出す能力があれば、今の世界は限りなく平和だろうと思います。
つまり歴史の年号や人物名には正解がありますが、本来歴史学に正解はないのかも知れません。
本書の内容は、なるべく正しい教訓を歴史から引き出すための材料を提供する授業であり、そこには歴史は暗記科目といったマイナスイメージから脱却するヒントがあるように思えます。
ちなみに先生(著者)からの質問に対する学生からの回答内容は大人顔負けであり、学生たちの優秀さにも驚かさせられます。
「意識高い系」という病
ネットスラングにそれほど詳しくない私でも「意識高い系」というワードはたびたび目にする機会があります。
一見すると褒め言葉のようですが、文脈から皮肉を込めたネガティブな意味で使われる機会が多いことは私でも知っています。
著者の常見陽平氏の言葉を要約すると次のようになります。
社会問題に対する関心が高い、勉強熱心、積極的で交流好き。
ただし自分の実力以上に自己アピールしたがる残念な人たち。
確かに残念な人であり、この「意識高い系」というネットスラングは、2009年頃から本格的に使われるようになったようです。
本書では、こうした「意識高い系」の人びとの生態系(?)を明らかにしつつ、彼らを誕生させる土壌を作った「自分磨き」メディアの存在、そして彼らの発言力を広める原動力となったFacebookやTwitterをはじめとしたソーシャルメディアの影響力を解説しつつ、最終的には情報との正しい向き合い方を提言しています。
私自身、「意識高い系」というタイトルに惹かれて好奇心で本書を手にとったものの、実際に扱っているテーマはかなり大きなものです。
「意識高い系」というテーマから入り、読者にネットリテラシーを啓蒙する本と言ってよいかも知れません。
政治、芸能に限らず、ほぼすべてのジャンルのニュースがネットで話題にされない日はありません。そしてそこでは行き過ぎた誹謗中傷というのがつきものです。
本書は2012年に出版されていますが、変化が早いと言われるネットの世界においても本書で紹介されているような状況は殆ど変化がないように思えます。
つまりネットリテラシーを掲げたところで、人間はいきなり賢くはなれないのです。
それは異種交流会、勉強会を何度か経験して、いきなり自分が優秀になったと錯覚している「意識高い系」の人たちとまったく同じことです。
常見氏が指摘しているように、いきなり優秀になれる方法はありません。
地に足をつけて目の前の現実(仕事や家族)に丁寧に対処してゆくしかないという点もその通りだと思います。
ネットの話題を取り扱った本にも関わらず10年近く経過しても内容が陳腐化していないため、今でも一読の価値がある本であるといえます。
骨が語る日本人の歴史
本書の著者・片山一道氏は骨考古学の専門です。
骨考古学というとほとんどの人に馴染みが薄いですが、発掘された人骨を調べ、当時の人の様子を明らかにする学問だといいます。
本書では
- 旧石器時代人
- 縄文人
- 弥生人
- 古墳時代人
- 中世以降
旧石器時代の人骨は発掘数が少なく多くを語ることは難しいようですが、その後約1万年に渡って続く縄文人はかなり特徴的だったといいます。
骨太で小ぶりで頑丈な体格。下半身が発達した体形。大頭大顔で寸詰まりの丸顔の顔立ち。著者はこれを当時の日本列島(縄文列島)の独特な風土が深く関わり、外界と長く孤立してきたことが要因であると推測しています。
大きな鼻骨と下顎骨、そして彫りの深い横顔は、世界中くまなく探しても類を見ないほどに特異的である。
しかし弥生時代になると、なにかもが様変わりするというから驚きです。
すなわち長い平坦な顔、低い鼻、細い顎、高めの身長といった縄文人と対照的な特徴を持っています。
一方で近畿地方や九州西北部や南部、四国や東海地方の以東以北では縄文人の特徴を持った人骨が多く発見され、多様性というのも弥生時代のキーワードになります。
またこうした発掘状況から著者は
「弥生人が縄文人に置き換わった」
「大陸からの渡来人が縄文人を駆逐した」
といった二分論には反対し、生活様式の変化、そして両者が徐々に混合していった結果であると主張しています。
古墳時代は以降はのちの日本人に共通する中顔、中頭、中鼻、中眼、中顎、体形は胴長短脚の傾向が多くとなるといいます。
中世以降もこの特徴は続きますが、身長は低くなり続け、虫歯が多くなる傾向が出てくるようです。
また最近70年における日本人は顔立ちも体形もすべてが特異に変化したといいます。
平均身長が10cm以上も高くなり、著者は歴代の日本列島人の中に紛れても、すぐに現代人だと正体がバレるだろうと言います。
原因は定かではないが乳幼時期の栄養条件、食事の西欧化が要因であると推測しています。
ここから分かるのは、生活環境が変わるとたった1代で人骨の特徴が大きく変わり得るということです。
こう考えると縄文人が弥生人型の人骨に変化していったというのも説得力があります。
本書を通じて重要だと感じることは、残された文献や遺跡だけが歴史ではないということです。
物言わぬ人骨は正真正銘の歴史性を有しており、そこからは従来とは違った角度から歴史の変容を推察することが出来ます。
それこそ著者の唱える「身体史観」であり、そこからは歴史上の事件や事象を追うだけでは見えてこない、当時の人びとの生活が見えてくるのです。
勝者の思考法
スポーツは完全とは言えないまでも、会社員などの職種と比べても公正・公平なルール下で勝者と敗者が決定する世界であると言えます。
人柄や処世術といった目に見えない要素、物事に取り組む手法が評価される余地は少なく、何よりも"勝利"という結果が重んじられるのです。
そんなプロフェッショナルたちが真剣勝負を繰り広げる世界において、勝利し続けることがいかに困難であるかは容易に想像が付きます。
本書ではスポーツの中でも主に日本のプロ野球やMLBの世界を中心に"勝者"をテーマにしたコラムが掲載されています。
- 第1章 弱者が強者に勝つ方法
- 第2章 名監督・名コーチの思考法
- 第3章 敗者の思考法
- 第4章 組織に見る勝敗の明暗
- 第5章 勝者の思考法
目次を見ても分かる通り、一口にスポーツといっても選手以外に、監督やコーチ、球団、さらに国際大会であれば協会といったレベルで勝者を論じることが出来ます。
また大部分の読者は一流プロスポーツ選手と同じようなパフォーマンスを出すことは出来ませんが、少なくとも彼らの思考法は真似ることができます。
とくに常勝軍団の監督やコーチの考え方や手法は、会社員にとっても参考になる部分があるはずです。
さらに常勝軍団がいれば弱小軍団、つまり敗者も存在するはずであり、彼らの思考からも私たちは学ぶことがあるはずです。
前置きが長くなりましたが、本書はある意味ではビジネス書としても、スポーツコラムとしても読むことが出来ます。
著者の二宮清純氏はスポーツジャーナリストとして長年活躍してきた人であり、企業経営はともかくスポーツの世界の厳しさをよく知っている人です。
とはいえ本書の内容は決して堅苦しいものではないため、個人的には姿勢を正して熟読するよりも、スポーツコラムとして楽しみながらも何かビジネスのヒントを見つけられればラッキーくらいの気楽さで読んで見ることをおすすめします。
プロ野球「人生の選択」
毎年約100人の新たなプロ野球選手が生まれ、ほぼ同じ数だけの選手が去ってゆきます。
毎年10月に入るとペナントレースが終わり、ドラフト会議と戦力外通告がファンたちの話題を賑わせます。
ただ今年はコロナの影響で夏の甲子園大会が開催されなかった影響もあり、少し盛り上がりに欠けてしまったのは残念です。
プロ野球選手にとって入団、退団といったイベントもそうですが、本書ではスポーツライターの二宮清純氏がプロ野球選手にとっての人生の岐路となった場面にスポットを当ててコラム風に紹介しています。
野茂英雄やイチロー、松井秀喜らがメジャーリーグに挑戦したエピソードが本書で紹介されますが、個人的にはスター選手のエピソードよりも、厳しいプロ野球の世界で生き抜くために奮闘してきた選手のエピソードの方に興味を惹かれます。
分りやすい例でいえば、主にオリックスで活躍して176勝を挙げた星野伸之投手が当てはまります。
彼は高校卒業後にドラフト5位で入団しますが、そこで自分の球速がプロ1軍のレベルにないことを悟ります。
そこで星野投手の下した決断は、剛速球を身に付ける努力ではなく、スローボールに磨きをかけるというものでした。
遅いボールで打者のタイミングを外すためのフォームと正確なコントロールを武器として身に付け、最速でも120キロ後半のボールで厳しいプロ野球の世界で活躍し続けたのです。
また本書では大リーグで活躍した選手も紹介されています。
私は本書で初めて知りましたが、ジャイアンツに在籍していたバリー・ボンズは、MLB歴代1位記録となる通算762本塁打で知られる偉大なバッターですが、彼が本塁打を量産するようになったのはキャリアの後半になってからであり、それまでは走攻守揃ったアベレージヒッターとして活躍していました。
しかし年齢の影響で走力の衰えを自覚するようになると肉体改造やフォーム改造を行い、走力が不要となる正真正銘のホームランバッターとして生まれ変わったのです。
よくホームランバッターは天性のものと言われますが、ボンズはその常識を自らの努力で覆したのです。
後半は日本プロ野球へ対する提言コラムという形がメインとなり、内容がタイトルと少し離れてゆきますが、それでも本書が出版された2003年当時の日本プロ野球を懐かしみながら読むことができました。
イスラーム生誕
本書は日本におけるイスラーム研究の第一人者であった井筒俊彦氏のイスラム教の解説書です。
井筒氏は30以上の言語を操る語学の天才と言われ、独自の意味論的解釈学という研究手法を編み出したことでも知られ、イスラム教解説の入門書としては名著と言われる1冊だそうです。
ひとまず難しいことは脇に置いておいて、日本において仏教、あるいはキリスト教の成り立ちに関する解説本、あるいは関連した文学作品は容易に入手することが出来ます。
一方でイスラム教に関するそうした作品は圧倒的に数が少ないのが現状です。
その理由は飛鳥時代に伝来し定着した仏教、あるいは16世紀半ばにポルトガル(イエズス会)によって布教が開始されたキリスト教とは違い、日本が長らく地理・歴史的にイスラム文化圏と疎遠だったことです。
しかし今やイスラム教は中東のみならずアフリカ、東南アジアにおいても浸透し、統計上ではすでに仏教徒を上回る信者数となり、21世紀中にはキリスト教徒を抜いて世界一の信者数となることが確実であると言われています。
つまり今後も進んでゆく国際化、あるいは多様化社会にあってイスラム教徒との共存は避けて通れない要素であり、そのための一般的教養として有用な1冊であると言えるでしょう。
文庫本ということもあり決して分量は多くはありませんが、本書で示唆されている内容は奥深く、小説のようにストーリーを辿るだけではなく、著者の言わんとすることを理解しながら読み進めることが重要になってきます。
ここでは私なりに本書によってイスラム教の理解に役立った部分を簡単に紹介してみます。
まずイスラム教はユダヤ教、キリスト教と同じくセム的一神教を起源とする宗教であるため、かなりの共通点があるという点です。
つまり唯一絶対神を信仰する宗教であり、モーセやアブラハム、キリストやムハンマドはいずれも預言者という性格を持つ点、旧約聖書を肯定的に解釈している点も共通しています。
次にイスラム教が広まったアラビア、ペルシア地方は、元々多神教が信仰されていた地域であったという点です。
多神教の時代はジャーヒリーヤ(無道時代)と呼ばれ、血族や限られた地域ごとに異なる神を崇拝していたという点では、日本の神道とも共通している点があります。
また唯一神のアッラーは、多神教時代における主神(最高神)の位置付けとして元々存在していた神であり、決してイスラム教(ムハンマド)が独創した神ではないという点です。
例えば日本においては天照大神が唯一神となり、他の神の存在はすべて否定されたと仮定すると理解し易いかも知れません。
最後にムハンマドの軌跡を辿ると、イスラム教は政治的な世界と一体化しているという点です。
ムハンマドは同じく宗教の創始者といえるブッダやキリストとは違い、武力行使そのものを否定はしませんした。
むしろ異教徒へ対して武力行使も厭わないという教えは、ムハンマド自身が聖地メッカを奪還するためにムスリムを組織化して戦争という手段を取ったことにも大きく影響さており、軍事は政治に直接的に結びつくからです。
これは後発であったイスラム教が世界的宗教へと発展する過程で避けて通れなかった道でもあり、後の時代においてキリスト教国家や仏教国家が武力行使したことを考えると、必ずしも一方的に非難される性質のものではないというのが個人的な印象です。
本書で言及されているのは現在の国際情勢、あるいは宗派ごとの複雑な対立といった要素ではなく、あくまでもイスラム教の成立過程にのみ焦点を当てています。
基本的な知識の欠如によって、イスラム教へ対する誤解や先入観を抱かないためにも、少しでも多くの日本人に読んで欲しい1冊であることは間違いありません。
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