幕府軍艦「回天」始末
タイトルに幕府軍艦「回天」とありますが、実際には榎本武揚を中心とした戊辰戦争、その中でも宮古湾海戦、そして箱館戦争を中心に描いた歴史小説となります。
榎本は幕末の中でもかなりユニークな経歴をもつ人物です。
彼は幕臣としてオランダへ留学した経験を持ち、船舶技術や国際法を学んで帰国し、当時もっとも開明的な考えと知識を持ち合わせていた人物です。
一方でいざ薩長連合による倒幕運動が本格的になると、大半の旗本や幕臣が慶喜の意向もあり恭順の姿勢をとった中にあって、上役でもある勝海舟の制止を振り切ってまで旧幕府艦隊を率いて江戸を離れ、新政府軍へ対して最も強固かつ最後まで抵抗を続けることになります。
やがて箱館戦争で力尽き降伏することになり、当然のように抵抗勢力(蝦夷共和国)の総裁という立場から死罪を免れないところですが、新政府側の黒田清隆らが彼の才能を惜しんで助命嘆願して赦されることになります。
江戸の無血開城を実現し、一度も新政府軍と戦うことのなかった勝海舟が明治政府の要職への誘いを断り、隠居生活に入ったのとは対称的に、最後まで戦い抜いた榎本は、明治政府の駐露特命全権公使をはじめ、大臣を歴任してゆくといった栄達を果たします。
「忠臣は二君につかえず」といった価値観から見ると、彼の豹変ぶりは褒められたものではなく、才能があったことは間違いないものの、彼の評価が分かれるのはこの辺りに原因があるような気がします。
個人的には榎本武揚の性格には頑固な面と柔軟な面が同居していて、良い意味で切り替えができる人物であったと思います。
そうした意味では維新志士の1人でありながら、榎本と同じく勝海舟を師と仰いだ坂本龍馬と雰囲気が似ていて、この2人が出会っていたら意気投合したのではないかと歴史のIFを想像したりします。
本作品を執筆するきっかけが、いかにも吉村昭らしいものです。
それは著者が三陸海岸にある田野畑村を訪れた際に、ここが宮古湾海戦へ向かった旧幕府軍の軍艦である「高雄」が座礁した地であったことを知ったからです。
榎本艦隊の「高雄」は、旗艦である「回天」とはぐれているところに新政府軍の「春日」に追い詰められ、岩礁へ乗り上げ、乗組員たちは岸へ上がって散り散りになって逃げます。
そしてすぐ近くの田野畑村に逃げ込んだ彼らの中には、村人にかくまわれているうちにそのまま土着した者もいたそうです。
そうした逸話を地元の史家から聞き、資料を集めているうちに本書の構想が生まれたといいます。
めったに歴史の勝者側の視点で作品を描くことがないという点でも、まさしく吉村昭氏らしい作品です。