剣豪血風録
津本陽氏は多くの作品を残していますが、その中で私がもっとも好きなジャンルは剣豪小説です。
本書では10人の高名な剣客がそれぞれ短編の形式で登場し、彼らが会得した剣の真髄を垣間見れる構成になっています。
- 塚原卜伝
- 富田勢源
- 伊藤一刀斎
- 佐野祐願寺
- 東郷重位
- 小野次郎右衛門
- 柳生兵庫助
- 宮本武蔵
- 柳生十兵衛
- 堀部安兵衛
剣豪好きでなくとも、知っている名前があるのではないでしょうか。
作者自身が剣道三段、抜刀道五段の腕前を持ち、また武道全般にも通じているため、剣豪と言われた人たちが辿り着いた境地、命がけの修行や決闘の中で体得した神業、さらには剣客たちの息詰まる決闘シーンが非常にリアルに描かれており、かなり贅沢な1冊となっています。
もともと本書のために書き下ろされた作品はなく、過去に発表された長編、短編の中から選りすぐりの部分を転載する形で構成されています。
つまりこれから"津本陽"という作家の魅力を知りたいという方にとっては、うってつけの1冊といえるでしょう。
私自身、読んだことのあるシーンが幾つか収録されていましが、それでも充分に楽しむことが出来ました。
単純に著者の文章から伝わってくるスリルや緊迫感を楽しむという読み方がもっともシンプルだと思いますが、生死を賭けた勝負という場面における人間の心理状態、その勝負を幾度も制してきた剣豪たちに学ぶという点でも生半可な啓蒙書よりもはるかに役に立つ1冊であるように思えます。
北越雪譜
「北越雪譜」は、江戸後期に越後塩沢(旧:塩沢町、現:南魚沼市)に住む商人であり文筆家でもあった鈴木牧之(1770~1842)が執筆した書籍です。
さほど雪の積もらない江戸の人びとたちへ挿絵も交えて雪深い越後の生活や文化、民話を紹介している書籍で、当時のベストセラーとなりました。
当時の雪国での暮らしを伝える歴史的にも貴重な資料であり、歴史小説に限らず多くの書籍で引用されることも多く、さらに私自身も作者の出身地からそう遠くない場所で生まれ育ったこともあり、本書の存在は以前から知っていました。
岩波文庫から版されている同書は学術的な価値を損なわないように原本の内容を忠実に再現していますが、今回紹介するのは教育社から原本現代訳シリーズとして出版されているものです。
すこし前に古本市で購入し自宅で積まれたままになっていましたが、冬の寒い時期に読む本として相応しいと思い今回手にとってみました。
牧之はしばしば雪を風流だと言う人は、雪のあまり降らない地域に住んでいるからだとし、塩沢のように数メートルの雪が積もる地域に住む人にとっては四苦八苦する厄介な存在であることを繰り返し述べています。
具体的に雪かき(本書では雪掘)の大変さ、交通の難儀さ、時には人の生命を奪う吹雪や雪崩の恐ろしさと共に、そこで生活する人びとの知恵も同時に紹介しています。
ただしすべての面で雪が厄介な存在かといえばそうでもなく、雪上でさらすことで生まれる名産・越後縮(えちごちぢみ)の製造過程についても細かく紹介されています。
現在は小千谷縮(おじやちぢみ)が有名ですが、当時は堀之内、浦佐、小出、塩沢、六日町、十日町、高柳など周辺の地域でも盛んに作られ、縮の種類も地域ごとで違っていたようです。
紹介されている民話については怪奇な内容のものも多く、囲炉裏端で老人から聞く昔話そのものという雰囲気があります。
本書で紹介されている文化や生活の一部は、200年もの時を超えて未だに地元に根付いているものも多く、本書が貴重な史料と言われる所以がよく分かります。
ちなみに本書はの序盤では作者である牧之の生い立ちや「北越雪譜」が出版されるまでの経緯が細かく紹介されており、執筆に至るまでの背景を知ることができます。
さらに本編においても原本を省略したり、要約や入れ替えなどをせずに忠実に現代語訳されているようであり、どことなく原文の雰囲気が伝わってくる点は好感が持てます。
おそらく絶版になっている本ですが、今でも入手するのはそう難しくないため、興味のある方は是非手にとってみて損はない1冊です。
ビジネスエリートの新論語
本書は2016年に発刊されていますが、帯には「20年ぶりの新刊!初の新書!」とあります。
著者の司馬遼太郎氏は1996年に亡くなっていますが、本書は1955年(昭和30年)、産経新聞記者であった著者が本名、福田定一の名で刊行した「名言随筆サラリーマン ユーモア新論語」を元本としています。
つまり著者が本格的な作家活動を始める前に執筆した本ということになり、貴重な資料としての意味と多くのファンたちの要望によって出版された1冊だと思われます。
まず昭和30年当時のビジネス書という視点で見ると、かなり貴重ではないでしょうか。
本書が発表された当時はようやく戦争の傷跡が癒えつつある時期でしたが、高度経済成長期の前夜というタイミングであり、「日本は戦争に負けて大国から4等国へ落ち潰れた」と言われていた時期でもあります。
タイトルから察して本書の内容は論語を紐解きながら、サラリーマン(ビジネスマン)の理想の姿、つまり成果を上げて出世するノウハウが書かれた本ではないかと思いました。
しかし実際に読んでみると、ビジネス書というよりユーモアをり入れたエッセイであり、のちの著書にここまで砕けた文体で書かれた著書は見当たりません。
社長はおろか重役のイスの数は限られたものであり、そこを目指して出世する努力をするより、サラリーマンとして大過なくキャリアを全うするための処世術、また出世しなくとも実現できる幸せを追求する方法といったものが中心に書かれています。
著者自身もまえがきで「一種の"悪書"かもしれない」と語っており、本書よりも元本となったタイトルの方が相応しい内容です。
さすがの著者もこの時から十数年を経て、「東洋の奇跡」と言われる経済成長を果たし、日本が世界第2位の経済大国となることは予想できなかったに違いありません。
昭和30年当時のサラリーマンたちの風景が見れる作品として、一種の古書を読むような気分で読んだほうが楽しめると思います。
また第2部では、職業記者として著者へ大きな影響を与えてくれた先輩、また新聞記者として自身の10年の職歴を振り返った内容が書かれており、こちらは完全に後年の司馬遼太郎としての片鱗が垣間見れる文体で書かれています。
いずれにしても私にとって司馬遼太郎とは、中学生時代に読書と歴史の楽しさを教えてくれた作家の1人であり、その"番外編"という形で楽しませてもらいました。
軍師の門 下
竹中半兵衛、そして黒田官兵衛を主人公した火坂雅志氏「軍師の門」下巻のレビューです。
信長から離反した荒木村重の説得に失敗した官兵衛は有岡城に1年間幽閉されますが、城が落ちて救出された際には衰弱しきって足は生涯にわたって不自由になってしまいます。
しかしそれよりも官兵衛にとってショックだったのは、信長から殺害を命じられていた嫡男の松寿丸(のちの黒田長政)を匿ってくれた半兵衛がその間に病没していたことでした。
そして官兵衛は図らずも半兵衛に替わって本格的に秀吉の軍師となります。
秀吉の毛利攻めにあたって活躍する官兵衛でしたが、その中でもっとも有名なものは本能寺の変で信長が斃れた際に直ちに明智光秀を討伐するよう進言したことではないでしょうか。
つまり秀吉が天下人となるもっとも大きな転機となった中国大返しは官兵衛の策であったという点であり、まさしく軍師として面目躍如たる場面です。
一方で天下取りが近づくにつれ、秀吉は次第に官兵衛を遠ざけるようになります。
鬼謀によって数々のピンチをチャンスに変えてきた官兵衛でしたが、ライバルである柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、確固たる地位を築き始めた秀吉にとって、もはや官兵衛の助言は必要ではなくなりつつあったのです。
加えてより深刻なのは、主人・信長に替わって天下を掌握すべきだと助言をした官兵衛の凄みは、隙あらば次には自分の地位を狙うのではないかと警戒されてしまったのです。
そこに軍師として他人の心を読むことに長けている官兵衛自身が気付かないわけがなく、意識的に権力の中枢から距離を置くようにします。
実際に秀吉が天下統一を成し遂げた後、官兵衛に与えられたのはわずか豊前中津12万石であり、自分より後輩の加藤清正や石田三成よりも低い石高しか与えられませんでした。
こうした葛藤と失意の中で官兵衛は如水と号して、嫡男の長政へ家督を譲り隠居することになります。
やがて高山右近の勧めによりキリスト教に改宗したことにより、心の安らぎを得たように思えましたが、彼の心の奥底にある自らの知謀をもって天下に名を轟かせたいという野望の火は完全には消えていませんでした。
そして官兵衛は秀吉の死後、関ヶ原前夜になってその野望を実行に移します。
それは東方で徳川家康と石田三成による決戦が行われている間に九州を平定しまい、あわよくば中国地方へも攻め入り、日本を2分する西方の大勢力になることを狙ったものでした。
蔵の金銀をすべて使い、9,000の兵を集めた官兵衛はまたたく間に九州を席巻してゆきます。
家康との間に「九州切り取り次第(九州の領土取り放題)」という密約があったようですが、官兵衛が1~2年は続くであろうと予測していた対決が関ケ原でわずか1日で終わったこともあり、あとは島津領を残すのみとなった状態で官兵衛の野望は終わりを迎えます。
これによって秀吉の軍師としてではなく、自らが主人公となって天下分け目の戦いを制するというという官兵衛の夢が潰えたのです。
ひょっとすると官兵衛は、自らの野望を実現することで先に亡くなった竹中半兵衛の夢をともに叶えようと考えていたのかもしれません。
軍師の門 上
戦国時代の醍醐味といえば、両陣営の軍勢が真っ向からぶつかり合う合戦であり、そこで活躍する猛将たちにスポットが当たりがちですが、個人的には謀略をもって戦いを有利に進めるべく戦場の片隅で活躍する知将、つまり軍師たちの活躍に一番心惹かれるものがあります、
本作品の主人公は秀吉麾下で両兵衛(りょうべえ)と言われ、張良・陳平にも例えられた竹中半兵衛、黒田官兵衛の2人です。
若干21歳の竹中半兵衛が歴史の表舞台に出てきたきっかけは劇的なものでした。
それは難攻不落といわれた稲葉山城をわずか十数名の手勢だけで乗っ取り、主人である斎藤龍興(道三の孫)を追い出したというものです。
それを知った信長は美濃半国と引き換えに稲葉山城の引き渡しを求めますが、それをあっさりと断り、半年後にはこれもあっさりと稲葉山城を龍興へ返しています。
それを聞きつけた若き日の官兵衛は、はるばる播磨から半兵衛を訪ねに来るというのが物語の序盤です。
この2人が秀吉に仕える以前に出会ったという記録はありませんが、武力ではなく知力によって戦国時代に名を馳せようという野望を持つ2人が運命的な出会いを果たすという演出には、軍師好きの私としては引き込まれてしまう場面です。
半兵衛は官兵衛より2歳ほど年長ですが、秀吉へ仕えたタイミングは10年近く半兵衛の方が早いようです。
よって官兵衛が秀吉に仕え始めた時点で、半兵衛は軍師として確固たる地位を築いていました。
一方でその頃には半兵衛は体調を崩し始め、それと前後して官兵衛は信長から離反した荒木村重の説得に失敗し、有岡城に約1年間幽閉されてしまいます。
その後、半兵衛は36歳という若さで病気により早逝してしまうため、この2人が揃って秀吉麾下にいた期間はわずか1年間ということになります。
それでも官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長により嫡男・松寿丸(後の長政)の殺害を命じた際には、半兵衛は危険を犯して松寿丸を自らの領地で匿います。
短い時間ではあるものの、官兵衛にとって半兵衛はその背中を追いかける存在であると同時に、友であり恩人でもあるという強い絆があったのです。
本作品ではこの2人の活躍を余すことなく描かれており、「THE・戦国時代小説」という印象を受けます。
上下巻で約900ページもある分量でありながら、戦国ファンであればページをめくる手が止まらなくなり一気に読んでしまいたくなるような作品です。
死は存在しない
著者の田坂広志氏は、原子力工学を専門をする研究者であり、現在は企業経営、大学教授、私塾の運営など多岐にわたって活躍しており、作家としても多くの著書を発表しています。
人間は、寿命や病気などにより、いつか「死」を直視しなければならない時期が来ます。
しかし日本人の大多数は、自分が死を迎えた後にどうなるのかという疑問を抱いているはずです。
深い信仰心のある方ならば、その教義に従ってたとえば極楽、または地獄へと行くことになると信じている人もいるはずです。
ただし中には信仰心を持ちながらも、極楽では美しい音楽が流れ、池には蓮の花が咲いている快適な場所、あるいは地獄には閻魔大王と鬼たちがいて血の池や針の山があるという昔ながらのアナログ的な説明に納得できない人もいるのではないでしょうか。
一方で科学では肉体が滅べば、そこで自分という意識も消えてすべてが「無」になるという説が有力ですが、これはこれで無味乾燥だと感じてしまいます。
本書では最先端の量子科学の研究成果である「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」という観点から、死後の世界がどのようなものであり、そこで私たちの意識がそのように変わっていくのかについて説明したものです。
私には量子科学を正確に説明することはできませんが、簡単に言えば原子やそれを形作る電子、陽子、中性子、さらに小さなニュートリノといったミクロな世界を研究する学問で、それによって宇宙の起源を解き明かすことを目的としているようです。
宇宙がどのように誕生し、形作られたのが分かれば、地球をはじめとしたあらゆる惑星、そしてそこに生息する生物の謎にも迫ることができ、本書のテーマである生物の「死」についても考察できるということになります。
また本書のもう1つのテーマが、最先端の量子科学が提示している仮説を用いて、宗教的な神秘の解明を試みているという点です。
一例として「以心伝心」、「予感」、「予知」といった現象が該当しますが、著者は宗教的な神秘を科学の力によって種明かして、それまで科学が「偶然」、「妄想」、「錯覚」と断じていたものを再評価し、理性的な視点から両者の間に「橋を架ける」ことを目的としています。
具体的にどういった仮説が紹介されているかは本書を読んでのお楽しみですが、手軽に読める新書という形式で最新科学の一端を知るとともに「死」へ対して新たな視点をもたらしてくれるという点では是非読んでおいて損はない1冊だといえます。
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