誰か故郷を想はざる
寺山修司という名前だけはかなり以前から知っていました。
代表的な肩書は歌人、劇作家とありますが、私自身は彼の歌集や劇を見たことはありません。
そもそも彼は47歳という若さで1983年に没しているため、その姿をTVなどでタイムリーに見た記憶もありません。
ただし寺山修司の軌跡を追ってみると、先ほど上げた肩書のほかにも、TVやラジオの作家として、随筆や評論作家として、さらには作詞家や映画監督など多岐にわたっており、きっと私も無意識に彼の作品には触れいているはずです。
今でこそ多方面のメディアで活躍している人は珍しくありませんが、寺山氏はその先駆者的存在であり、どの分野においても彼の才能は一流と認められていました。
本書は彼の少年から青年にかけての自叙伝ですが、副題には「-自叙伝らしくない-」と付いています。
実際に本書を読んでみると、紛れもなく書かれている内容は自叙伝です。
自らや父と母の出生、無口でアル中だったという父の逸話、そして父が出兵地で戦死してのちは母と二人での暮らしの様子、疎開での暮らしから玉音放送を聴いたときの記憶、さらには中学、高校のときの想い出などが綴らています。
そして本書の後半では、大学生となるための上京、たった1年で退学しての東京での暮らしの様子が綴られています。
先ほど副題で触れた"自叙伝らしくない"という部分ですが、これは全編にわたって見られる作家らしい鋭い比喩、ときには世の中や自分の存在さえも揶揄するような表現が多用されていることであり、さらには歌人らしい詩的な表現が多用されているという点です。
詩的な表現というのは時に具体的な状況をひどく抽象化してしまう場合がありますが、その時の著者の気分や心情を本質的に表現できるというメリットがあります。
また作品中でしばしば用いられる鋭い比喩からはアウトロー的な雰囲気が感じられ、彼に熱狂的なファンがいたことにも頷けます。
これは彼と同年代の石原慎太郎氏の若い頃の雰囲気にも似たようなものを感じさせます。
さまざまな分野において、つねに時代の最先端を走り続けた鬼才・寺山修司の研ぎ澄まされた感性とその原点の全容とまでは行きませんが、その一端を垣間見ることができる1冊ではないでしょうか。