本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

レッド・マーズ〈下〉


レッド・マーズ」上巻では、"最初の100人"と呼ばれる科学者たちが火星へ移住してテラフォーミング(火星を人類が住める環境に改造する)に従事するといった壮大なストーリーが展開されました。

下巻では初期のテラフォーミングの時代は終わり、地球から続々と移住者たちがやってくる本格的な開発が行われる段階へと移行してゆきます。

著者のキム・スタンリー・ロビンソンはアメリカのSF作家ですが、かつて自国の歴史にあったようなフロンティアの開拓が火星を舞台に行われてゆくストーリーになっています。

一方で火星の開発には大規模な資本投入が必要となり、そこでは国連火星事業局(UNOMA)や各国の思惑、そして巨大な多国籍企業(作品中では超国籍企業)との間に複雑な利害関係が生じ始めます。

"最初の100人"たちは人類最初の火星移住者ということもあり一定の影響力を持ち続けていましたが、彼らの間でもその考えは一枚岩ではありませんでした。

たとえば火星の緑化を積極的に進めるべきというグループと火星本来の環境をなるべく温存しようというグループが対立していたり、地球の影響力を排除するために独立すべきだというグループさえ存在していました。

さらには火星の未来を導くリーダーの地位を巡っても表面下でライバル争いが行われ、作品中ではそうした人間関係の描写に一定量が割かれています。

結果的には急進的に火星の開発を進めるグループが主導権を握り、やがて宇宙エレヴェーター(地上と宇宙をケーブルでつなぎ輸送するシステム)が完成することで、さらに加速度的に人と物資が火星へ送り込まれることになります。

それに伴う居住環境の悪化、資源や富の搾取といった事態が進行するに伴い、火星各地の植民街が一斉に蜂起するといった事態へ発展しゆきます。

最初の百人たちも両陣営に分かれて敵対することになり、この争いを収拾しようと火星各地を奔走するグループも存在します。

ストーリーの規模は壮大でありながらも、あくまで個々の登場人物の視点に沿った形で描かれているため、読者が感情移入しやすいのではないでしょうか。

またさまざまな角度から楽しむことの出来る作品でもあり、たとえば登場人物たちも個性的な多様であり、その中には自分と似たようなタイプの人物を見出すことができるかもしれません。

現実的に今世紀中に火星へ人類が降り立つことはほぼ確実であり、そこへ人類が定住するための計画も実施されてゆくはずです。

つまり本作品の内容はSF小説でありながらもリアルな近未来を示唆する内容であり、人類がまったく新しい世界へ適応してゆき、そこで新しい進化を遂げてゆく可能性を模索している作品であるともいえます。

レッド・マーズ〈上〉



個人的に興味のあるアメリカ合衆国によるアルテミス計画(有人宇宙飛行の計画)が時々ニュースで報じられると、つい聞き耳を立ててしまいます。

この計画によれば2030年年代には有人火星探査を目指しており、現時点においてもNASAの無人火星探査機であるオポチュニティキュリオシティによって新しい事実が次々と明らかになってきており、こうした記事がWebで公開されると同じくつい見入ってしまいます。

つまり最近になって急速に火星は遠い存在ではなくなりつつあるのです。

タイトルから分かるとおり本作品の舞台は火星であり、それも古典SFにあるような火星人が登場するような内容ではなく、人類が火星へ植民するという近未来を描いています。

上下巻で合計1000ページにも及ぶ長編であり、ストーリーの序盤では100人の科学者が南極での訓練を経て植民のために火星へ向かうことになります。

本書は1992年に発表されていますが、100人の科学者たちは2026年に火星へ向かって飛び立つという設定になっています。

また100人の科学者といっても地質学、生物学、植物角、農学、遺伝子工学、機械工学などさまざまな分野の専門家たちからなる人類の叡智を結集したチームであり、長い宇宙飛行を経て火星へ到着した後にはテラフォーミングという大きな使命が待っています。

テラフォーミングは最近急速に研究が進められている分野でもあり、簡単にいえば無人の惑星を人類が住める環境に変えてゆく計画や技術のことであり、大気が極端に薄く、かつ北極より気温が低く、高い宇宙放射線にさらされているといった過酷な環境下にある火星では避けては通れない道です。

現実問題として地球では人口増加に伴う資源の枯渇や自然環境の悪化という課題を抱えており、長い目で見ると人類の一部が火星へ移住することへの必要性はかなり現実味を帯びてきています。

もしかすると私の孫の世代には火星へ移住することが外国への移住のように珍しくない時代になっているかも知れません。

本書はまさにそうした近未来を描いた作品であり、SFの大家であるアーサー・C・クラークは本作品を次のように評しています。
驚愕すべき1冊。
これまで書かれた中で最高の火星植民小説だ。
来世紀の移民者たちにとって必須の書となるだろう。

本書は現代科学の延長線上に沿って書かれたリアルな描写が特徴であると同時に、ヒューマンドラマという面でも特筆すべき特徴があります。

それは科学者といえども普通の感情を持った人間であり、100人の間には恋人、同志、ライバル、さらには決して相容れることのない敵対者といったさまざまな関係性が生まれ、やがてそれらは幾つかのグループを構成してゆきます。

それでも彼らがバラバラになってしまえば過酷な環境にある火星への植民計画が失敗することは明白であり、彼らを必死にまとめようと悪戦苦闘するリーダーの視点からもストーリーが描かれており、大きな視点から見れば人類にとって火星をどのように開発すべきかといった問題へと発展してゆきます。

とにかく作品の分量に見合うだけの壮大な物語であり、読者をどっぷりと火星の世界へ浸からせてしまう魅力に溢れる作品になっています。

偶然世界


現在、日本をはじめ民主主義国家では、直接的、間接的の違いはあれど選挙によってその国の最高権力者を選ぶ制度を持っています。

そして大多数の民主主義国家の国民たちは、その制度を独裁国家よりは望ましい(あるいはマシな)方法と考えているはずです。

しかし歴史が証明しているように、国民によって選ばれた権力者が常に正しい決断を行うのかは別の話になります。

そもそも民衆は無知で愚かなものであるという考えは、紀元前から直接民主政を行ってきたアテネ人たちの実感でもありました。

そこで登場するのが、今話題になっている「AI(人工知能)」です。
この先AIが人間よりもはるかに高度な知性を持ち、感情に左右されない理性を兼ね備えるようになれば、AIに最高権力者を選んでもらうのが最善の方法となるかもしれません。

本書はアメリカの代表的なSF作家であるフィリップ・K・ディックのデビュー作であり、まさしくそのような時代が到来した未来を描いた作品です。

作品の舞台となるのは23世紀初頭であり、地球を含めた太陽系の各惑星に60億の人類が住んでいるという設定です。

この人びとの頂点に君臨するのがクイズマスターと呼ばれる最高権力者であり、それはボトルと呼ばれる権力転送装置(つまり一種のAI)によって選ばれるのです。

しかしクイズマスターにはつねに公式に認められた刺客によって生命を狙われる存在でもあり、その座に就いて数時間、あるいは数日でその地位(と生命)を失う可能性があり、その就任期間は平均して2週間という短さです。

彼の描くSF作品は、綿密な科学的考証を元にした近未来というよりも、人間の本性を鋭く切り取ったようなある意味で突拍子もない未来世界であり、それだけに文学的なSF作品という見方ができるかもしれません。

このような無機質でシステマチックな未来をたくましく生き抜く主人公は、飄々としながらもハードボイルドな雰囲気が漂っています。

とくに本書はデビュー作ということもあり、荒削りな部分はありながらもその傾向が顕著に現れているような気がします。

本書はちょうど今から70年前に発表された作品でありながらも、現代に生きる私たちに考えさせる点があり、SF作品であると同時に文学作品であるといえるでしょう。

母の待つ里


世界最大手のユナイテッドカードが提供する世界最高ステータスであるプレミアムクラブの年会費は35万円。

そのプレミアムクラブ会員向けに1泊2日で50万円という価格で提供されているのが、ユナイテッド・ホームタウン・サービスであり、次のように宣伝されています。
ふるさとを、あなたへ。
1971年、マサチューセッツ州コンコード、ケンタッキー州エリザベスタウン、アリゾナ州メサの3ヶ所を拠点として始まった、ユナイテッド・ホームタウン・サービスは、現在全米に32のヴィレッジと100人以上のペアレンツを擁するプロジェクトに成長しました。
ユナイテッド・ホームタウン・サービスは別荘事業でもホームステイでもありません。失われたふるさとを回復し、過ぎし日に帰るという、ライフストーリーの提供です。
このたび、アメリカ合衆国におけるプロジェクトをそのまま日本に移入し、プレミアムクラブ・メンバー限定のサービスを開始する運びとなりました。

このホームタウン・サービスは、東北の雪深い山村で提供されており、そこには表札まで用意されたクライアントの擬似的な生家が用意され、84歳になる母親役が出迎えて手料理を振る舞ってくれるのです。

利用者は経営者、定年を迎えた会社員、ベテラン医師などいずれも60歳を超えた男女です。

彼らは最初は戸惑いながら、そして次第にほかのツアー旅行では得難い経験と感動を得ることが出来るのです。

そして彼らに共通するのは東京で生まれ育ち、今や両親も居なくなり、現在は1人暮らしで"帰るべきふるさと"を持たないという点です。

このホームタウン・サービスが提供されている地域は過疎化が進んでいるのものの、豊かな自然と美しい風景、そして絵に書いたような藁葺きの曲がり屋が生家が用意されています。

それはまるで「まんが日本昔ばなし」、もう少しリアルティのある例えをするとNHKの「小さな旅」の舞台となるような、日本人が共通して抱いている"ふるさとの原風景"なのです。

私の周りに元々地方の出身であり、定年、または定年自体を早めて帰郷して暮らしている人を何人か知っていますが、それは帰るべきふるさとを持っている人の特権であり、こうした"ふるさと"を持たない人たちを癒やしてくれるのがホームタウン・サービスなのです。

ホームタウン・サービスでは母親だけでなく、店の店主、寺の和尚、隣人に至るまで、訪れるゲストと昔から顔なじみのように接してくれる徹底ぶりです。

裕福な大人だけが楽しむことのできる道楽という妖しい設定のようにも思われますが、そこには始めからホストとゲスト双方が納得ずくのルールがあり、何よりもペアレンツ(母親)役のちよさんが心から(擬似的な)息子や娘たちをもてなす心を持っているというポイントがあります。

設定がかなりメルヘンチックなだけに大人が読んで楽しめる物語として成立させるのはかなり難しいように思えますが、稀代のストーリーテラーである浅田次郎氏は、それを軽々とクリアしてゆきます。

著者は東京都出身ですが、本書で使われている南部弁はかなり本格的で味わいがあり、作品の演出に大きな役割を果たしています。

これは「壬生義士伝」を読んでいるときにも感じたものでもあり、やはり一流のストーリーテラーにとって地道な雰囲気作りの努力は欠かせないものであることが分かります。

作品の部類としてはネタバレしない方が楽しめると思いますので詳しくは書きませんが、人の持つ優しさや寂しさを味わえる作品に仕上がっています。

神々の明治維新



かつて国家的規模で日本人の宗教生活の全体を再編成、帰属させようとした試みが行われました。

明治維新の過程で王政復古が宣言された際に、皇祖神崇拝の考えを中心とする国家神道が作り出され、やがて神仏分離・廃仏毀釈といった具体的な政策が実行に移されました。

本書では日本思想史を研究する安丸良夫氏が、こうした政策を推進した人々の思惑、またそれが明治以前の既成宗教へどのような影響をもたらしたのか、さらにこうした経験を通して日本人の精神史的伝統がどのように転換していったのかを考察しています。

明治以前まで大きな神社には(禰宜などの)神職のほかに僧侶が在籍し、神殿に仏像が祀られていることが珍しくなく、それは寺においても同様でした。

こうした神社仏閣を神仏習合と言いますが、以前、関東で唯一の神仏分離から免れた竹寺へ訪れた際には、牛頭天王(ごずてんのう)が祀られており、独特の雰囲気がありました。

この牛頭天王自体が、密教や道教、陰陽思想、さらには神道などの要素が混ざり合った神仏習合を代表する神であり、ほかにも蔵王権現などが神仏習合の神として有名です。

ともかく神仏分離によって江戸時代までは当たり前だったこうした風景が少なくなったことは事実です。

さらに日本人には地域に根付いた民俗信仰が存在します。

これは仏教、または天照大神といった日本神話の神々が知られる以前から存在していた神々(信仰)で、修験道(山岳信仰)塞(さい)の神道祖神、さらにはナマハゲのような地域共同体に密着していることが特徴的です。

本書は岩波新書らしく、学術的な表現でさまざまな事例が紹介されており、原文の引用も各所に見られる硬派な作りになっています。

神仏分離や廃仏毀釈がうまく進んだ地域、強い抵抗にあった地域などが紹介されており、とくに強い抵抗を示したのは本願寺に代表される真宗の勢力だったようです。

また修験道の分野でも抵抗が強く、新政府の政策への不満や不安からさまざまな流言や妖言が発生したと言います。

確かにどのような神であれ先祖代々拝んでいた石像や神体などを目の前で破壊されれば、たとえそれが政府の方針であろうと強い怒りとともに、神罰を恐れる不安が生じるのは当然であるといえます。

一方で政策を実行する側においても、維新を経て日本という国を近代国家の仲間入りさせるため、まずは天皇を中心とした国家的祭祀を体系化し、日本国民の信仰を統一させることで団結を図ろうとする意図がありました。

しかし国家の強制力によって長年に渡り生活や習俗に根付いた信仰を変革するといった考え自体に無理があり、西洋諸国の反対もあってこうした政策は失敗することになります。

神仏分離・廃仏毀釈といった政策自体は明治維新史上の1エピソードに過ぎないかもしれませんが、そこを通して見えてくる景色は思ったより奥深く広いものであることを認識させられた1冊です。

無芸大食大睡眠


麻雀放浪記」で有名な阿佐田哲也氏のエッセイ集です。

彼には色川武大(いろかわ たけひろ)というペンネームもありますが、こちらは純文学的な作品を執筆する時に用い、阿佐田哲也名義ではおもにギャンブル(その中でも特に麻雀)を題材とした作品の場合に使用するようです。

もちろんこれは著者が二重人格ということではなく、エッセイのときは阿佐田哲也名義のほうが、より自然体で本音を書きやすいということではないでしょうか。

著者は1929年(昭和4年)生まれで東京で育ち、「麻雀放浪記」の主人公・"坊や哲"のモデルが自分自身だったことから分かる通り、若い頃はかなりアウトローな経験を積んできたようです。

さらに東京というカルチャーの最先端に触れられるという利点を活かして博打だけではなく、演芸、演劇、映画、音楽、スポーツといった幅広い分野に造形が深く、盛り場にも早くから出入りしており、この分野でも生き字引のように詳しいようです。

こうした分野がそのまま著者の交友範囲の広さとなり、エッセイの中にも数え切れないほどの有名人が登場します。

エッセイの中で個人的に興味深かった部分を幾つか紹介してみようと思います。

本書の中に"開花しなかった芸人"という題のエッセイがあります。

TVやラジオといったマスメディアが発達し、世の中に爆発的に売れる芸人が出てきました。

現在存命の芸人であれば萩本欽一、ビートたけし、タモリなどが該当しますが、著者とは一世代年齢が離れていることもあり、本書でも名前は登場するものの殆ど触れらていません。

著者は開花しなかった芸人を以下のように定義付けています。
テレビに向かない芸がある。 ご家庭向きでない芸もある。 凄い芸の持主だったり、ユニークな才があっても、ブラウン管にはまらない孤高の芸がある。
演芸会ばかりに限らないが、こういう人たちはどうしてもマイナーな職場しかなくて、だんだんクサってしまう例が多い、

本書ではその代表例として、パン猪狩、マルセ太郎、深見千三郎(こちらは映画でビートたけしの師匠として名前が知られるようになった)などの名前が挙がっていますが、彼らの芸を知らなくとも楽しく読むことができます。

また"なつかしの新宿"という題のエッセイでは、著者がヤミ市の頃より盛り場に出入りしてこともあり、味わい深い店たちを紹介しています。
現在ある店で、一番古く、貫禄上位は「みち草」であろう。ここのママは七十をすぎたはずだが、まだ元気で店に出ているらしい。
それから「利佳」「ノアノア」「五十鈴」「小茶」「呉竹」。皆古いが健在のようだ。

これは本書に登場する店のほんの一部ですが、店ごとに俳優やミュージシャン、芸人や作家といった同業者が集まる特徴があったらしく、幅広い交友のあった著者はその殆どに出入りしていたようです。

私自身、しばしば新宿を訪れることがあるため気になって少し調べてみましたが、残念ながら現時点では殆ど閉店してしまっているようです。

こうした話題は映画、相撲、さらには競輪など幅広い分野で語られており、私自身が生まれる前の昭和10~30年代の風景が感じられます。

ただしこうした昔を振り返る話題だけではなく、普段の著者の暮らし、たとえば締切に追われてホテルに缶詰になっている間にも、誘惑に負けてそこを抜け出して酒場や麻雀へ出かけてしまうなど、著者の人間らしい一面も存分に楽しむことができる贅沢な1冊です、