本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

イルカと墜落


本書はノンフィクション作家である沢木耕太郎氏が、NHKクルーとともにドキュメンタリー番組制作のために訪れたブラジルでの出来事を執筆したものです。

番組の目的はアマゾン奥地に住み、文明社会と接触したことのない先住民族「イゾラド」を取材するというもので、2000年~2001年に撮影を行ったようです。

"イゾラド"の正体そのものはNHKスペシャルとして放映された番組を見てもらえればよいというスタンスで、本書で執筆されているのは、撮影の裏舞台を含めた"過程そのもの"になります。

有名なサンパウロやリオデジャネイロと違い、アマゾン奥地を目指すだけあって登場するのは聞いたこともない街が殆どです。

しかもそこへ辿りつくためにはチャーターしたセスナ機やアマゾン川を船で何日も遡る必要があり、取材過程そのものが冒険なのです。

そして一緒に取材することになるイゾラドを調査、保護している活動家・ポスエロ氏との出会いは一つの山場ですが、この作品の本当のピークはほかのところにあります。

1つは現地へ向かうためにトランジットで立ち寄ったカナダで、ワールドトレードセンターへ2機の旅客機が突っ込むというアメリカ同時多発テロ事件(911テロ)が発生したことを知る場面です。

そしてもう1つは、アマゾン奥地へ向かうために著者が乗り込んだセスナ機(双発機)が墜落事故を起こすという出来事です。
墜落した飛行機は大破したものの、著者含めて乗組員全員が奇跡的に助かるという九死に一生を得る体験をしています。

飛行中にタンクから燃料が流れ漏れ出てゆく様子、高度を維持するために著者がパイロットの指示で荷物を機外へ放り出す場面などは、客観的に見ると絶望的な状況です。

この時の著者は50代ですが、作品を読んでいてそっくりな雰囲気だと感じたのが、若き頃の自身の紀行小説「深夜特急」であり、旅先でのさまざまな出来事、そこで食べたもの、街の風景などが綴られています。

旅を通じての貴重は経験は若者たちだけの特権ではなく、何歳になっても旅でドラマチックな経験が出来ることを教えてくれているような気がします。

スロ-ライフ


著者の筑紫哲也氏といえば新聞記者出身で、夜の報道番組・NEWS23のキャスターとして長年活躍していた姿を覚えている人も多いと思います。

2008年3月に病気を理由に番組を降板、同年11月に惜しまれつつ死去しています。

筑紫氏はTV番組以外にも文化人としても多方面で活躍しており、NPO法人「スローライフ・ジャパン」の設立に携わり、また出身地である大分県日田市では自由の森大学の学長に就任しています。

本書は月間読書誌「図書」に2005年から全15回にわたり連載された「緩急自在のすすめ」を基に出版されたものです。

例えば私自身もインターネット技術の急速な発展と普及、ファストフードやファストファッションの恩恵を受けている1人であり、間違いなく生活が便利になりました。

一方でこれらが「人類へ幸せをもたらすか」と問われると、必ずしも"YES"と答えられる自信はありません。

大量生産と大量消費を繰り返し、技術革新が戦争へ応用され、ネットの普及が時間と心のゆとりを失わせている側面が確かにあるからです。

こうした風潮へ対していち早く警鐘を鳴らしていたジャーナリストの1人が筑紫氏であり、その想いがタイトルによく表れています。

本書は連載記事を書籍化していることもあり、起承転結で話が進んでゆくのではなく、エッセイ風に細かく論じられるテーマが変わってゆく側面があります。

世界中どこでも均質な飲食物が提供される一方で、得体の知らないものを身体へ取り込み続けることの弊害、またファストフードへ反対する形でイタリアで始まったスローフード運動の紹介、詰め込み式の教育により子どもたちから希望が失われている問題などに始まり、話題はほぼ衣食住全般へと及んでいます。

著者は生涯に渡ってインターネット、Eメール、携帯電話やパソコンといったものに無縁の生活を送っていたようです。

最新情勢にアンテナを張り巡らせるキャスターの素顔としては意外でしたが、それを真似することは(私を含めた)大部分の人にとって現実的ではありません。

ただし著者は"ファスト的なもの"をすべて拒否せよと主張しているわけではありません。

"ファストvsスロー"を良い悪いの一元論で片付けるのではなく、「早起きは三文の得(ファスト)」、「あわてる乞食はもらいが少ない(スロー)」、「早メシも芸のうち(ファスト)」、「急がば回れ(スロー)」など両義的に考えることが重要であり、それらを総括した言葉が連載の題名であり、本書の副題になっている"緩急自在のすすめ"ということになります。

ビジネス書やライフハックと称する記事には"コスパ"、"タイパ"に代表される効率化を追求する内容のものが多いですが、そこで立ち止まって何が自分の幸せにのためになるのかという視点を持つきっかけを本書は与えてくれるのではないでしょうか。

またもう1つ忘れてはならないのが、かなり広がってきた"Sustainability(持続可能性)"という視点です。

つまり資源の消費や環境への負担が少ない生き方を意識することで、私たちの次の世代がより幸せに暮らして行けるよう努力する義務があるといえます。

子どもの隣り


灰谷健次郎氏の短編集です。
約200ページの文庫本に4作品がコンパクトに収まっています。

それぞれの作品を簡単に紹介してみたいと思います。

燕の駅

心臓の病気により長い間入院生活を続けている少女・千佳が主人公のストーリー。
彼女は今まで3回の手術を受けてきましたが、医師から必要と言われている4回目の手術を拒んでいます。
それは隣の病室で闘病を続けきた顔見知りの患者が亡くなり、また医師たちが(自分を含めた)患者をまるで実験動物のように見ていると思い込み、生きる希望を無くしているからでした。
そこへ新しく中年の立木さんという患者が隣室へ入院し、彼との交流を通じて少女の心に少しずつ変化が訪れてゆくというストーリーです。
長い闘病と反抗期が重なるという複雑な主人公の心境がよく描けている作品だと思います。

日曜日の反逆

勤務先から車で帰宅中の男は、毎週日曜日に国道を1人で歩く少年を見かける。
そして何度か少年を送り届ける車中で、2人の間には奇妙な絆が生まれてくる。
男は過去に少年と同じ年頃の1人息子が自殺するという悲運を経験しており、少年が抱えている問題に力を貸してあげたいと思い始める。
自身を孤独だと感じている少年の心境を直接描くのではなく、男の視点を通じて描かれいる作品です。

中学生である主人公・美那子の視点を通じて両親への反抗、生徒と先生の対立を描く。
また最初は反発していたが、自分とは違いはっきりとした意見を持ちクラスを引っ張る同級生の伊丹君を意識するようになる。
ど真ん中の思春期の子どもを描いており、多かれ少なかれ誰もが自分の過去を重ねて読んでしまうな作品です。

子どもの隣り

4歳の少年が主人公の作品。
毎日のように目的もなく駅に集まる老人たち、また偶然に出会った視覚障害を持った少女、家出をして彼と同棲している少女たちと知り合い、幼い視点から大人と少年少女の世界を描いている。
4作品の中では1番長く、子どもを取り巻く社会の問題を風刺している側面もある作品。


本書を読んで改めて思うのは、灰谷氏の描く子どもの心理描写が精密かつリアリティに溢れている点です。

大人(親)の視点から見ると、子どものやること/考えていることが分からない場面によく出くわしますが、よく考えれば誰もがかつては子どもであった経験を持ち、彼らの気持ちに寄り添うための記憶が奥底に眠っているはずなのです。

そうした記憶を掘り起こしてくれるような魅力が本書には詰まっているのです。

スーパーリッチ


タイトルにある"スーパーリッチ"を直訳すれば"大金持ち"ということになります。

本書ではスーパーリッチをビリオネア、つまり10億ドル以上の資産を持つ人びとを指す言葉として具体的に定義しています。

これを日本円に換算すると1400~1500億円の資産を持つ富豪ということになり、私には想像できないレベルの金持ちです。

著者の太田康夫氏は日本経済新聞社の記者として、経済へ大きな影響を持つ彼らへ取材をしてきた経験を持ちます。

こうした大富豪は世界一の経済大国であるアメリカで一番多いのですが、その次に多いのは21世紀に入って経済成長の著しい中国です。

社会主義国家で経済格差の象徴でもあるスーパーリッチが増えているのは皮肉な現象であるといえます。

本書ではそんなスーパーリッチたちの衣食住、さらには趣味やバカンスの過ごし方などを紹介しています。

またスーパーリッチの中にも世代の違いによる価値観の違いが生まれており、かつての金持ちがブランド品や高級車、不動産といった"モノ"へ対してお金を消費する時代が変わりつつあり、特別な場所、食事などによる経験、つまり"コト"へ対してお金を使う風潮へと変わりつつあります。

本書ではスーパーリッチ、つまりビリオネアだけでなく、ミリオネア(100万ドル/約1.5億円以上の資産を持つ人たち)たちの傾向についても言及しています。

どちらもお金持ちには違いありませんが、この両者の間にはかなりの経済力格差があり、章によってはビリオネアとミリオネアが入り混じって記載されている点が分かりにくく残念な点でした。

私自身、10年近く前から富裕層向けビジネスが将来有望であるという話を聞いたことがあります。

それをはじめ聞いた時は、金持ちだけを相手に商売をしてもそもそも絶対数が少ないため、充分な需要が得られないのではないかと漠然と思った記憶があります。

しかし日本を含めて世界的に貧富の格差が年々広がりつつあり、たとえばアメリカでは上位10%の富裕層が全金融資産の52%を所有し、下位50%が所有する同資産はわずか8.5%という衝撃的なデータがあり、日本においてもその数字に近づきつつあります。

つまり、今や富裕層をターゲットから外したビジネスは非効率であるという時代が到来しているのです。

これはインバウンド観光客を代表とした一泊10万円のホテル、一杯5千円のラーメンといった一般市民からは法外な値段に感じるサービスや商品へ対して確実な需要があることからも分かります。

とはいえ私自身は富裕層には縁がないため、彼らの実態を知るために本書を手にとってみた次第です。

一方で本書の終盤で著者は、この格差社会の持つ危うさを指摘しています。

極端に経済格差の広がった状況は社会不安を招くという理論は私にもはっきりと理解できます。

必死に働いても上がらない賃金、あるいは解雇された人びとが明日の生活にも不安を抱えている一方で、雪だるま式に富を増やしている金持ち(その多くは彼らを雇用する資本家でもある)との間に、深刻な亀裂が入るのは当然のことだからです。

さらに付け加えるとこれも世界的な動きですが、経済的な影響力を持つ人びとは同時に政治的にも大きな影響力を行使できることを意味しており、世代を超えて格差を固定してゆく性格を持っています。

そして過去の歴史から行き過ぎた格差は政策によってではなく、革命という名の内戦、もしくは国家間の戦争によってしか解決していないという事実が不気味な将来を暗示しているかのように感じてしまうのです。

幕末百話


著者の篠田鉱造は明治4年東京生まれで報知新聞社へ入社し、明治35年から幕末を知る古老たちからの実話を「夏の夜物語」、「冬の四物語」として新聞で                                                                                                           連載し、明治38年に本書「幕末百話」として出版した本が元になっています。

この本の目的は知らせざる史実の解明ではなく、市井の人々の回顧録、つまり幕末を生きた古老たちからの昔話を集め後世に伝えてゆくこと自体を意図したものです。

よって昔話を語る老人たちの中には維新の立役者や幕府の要人といった名の知れた人物は1人も登場していません。

それだけに飾らない味のある昔話が掲載されており、その中から幾つか簡単に紹介してみたいと思います。

江戸の佐竹の岡部さん

佐竹家の家来で岡部菊外という生涯に81人斬りをした侍の話。
町人相手へ無理難題を吹っかけたりしていたが、目の見えない按摩を辻切りした後にその怨念で病死したという。

ズバヌケた女国定忠次の妾

むかし本石町(日本橋あたり)に住んでいたお事という女性が、元は国定忠次の妾であったという話。
男まさりの気性で、役者の(市川)小団次の後妻となり、その身上を盛り返したという。

江戸名物折助の生活

折助(武家で使われた下男)たちの生活実態を語った話。
折助の仕事といえば殿様が登城する際のお供くらいで、彼らの当時の大部屋での暮らしの様子(食事や博打など)を紹介している。

血判起誓文のお話

歴史小説でよく出てくるいわゆる血判状についてのお話。
すでに幕末の頃の血判は形式的なものになってしまい、勢いよく指を切るのではなく、薬指の爪の下の所を軽く突いて滲んできた血を押すだけだったこと。
最後に血判の文例を実際に書いて紹介している。

撃剣修行の道場

むかし斎藤弥九郎の道場(練兵館)へ通っていた人の昔話。
寒稽古や道場へ行く途中に夜鷹蕎麦を食べたときの様子、さらに蕎麦屋の主人と揉めて峰打ちを食らわせたら逃げ出したので、置いていった蕎麦をたらふく食べた思い出を語っている。


どれも他愛もない話のようですが、それだけに当時の風景が蘇ってくるような独特の雰囲気があります。

本書の終盤では幕末百話とは別に「今戸の寮」という話が掲載されています。
当時、今戸(今の台東区の隅田川沿い)の寮(当時の別荘の呼び方)で女中をしていた老女による回想録で、当時の上流の人びとやそこで働く人たちの暮らし向きが伝わってくる内容です。

本書の内容が掲載された明治30年代に暮らす人びとにとって、すでに幕末は遠い昔の出来事となってしまい「江戸は遠くになかりけり」というのが実感だったようです。

CAN'T HURT ME


タイトルの"CAN'T HURT ME"を直訳すれば、"私を傷つけることは出来ない"ということになります。

著者のデイビッド・ゴギンズには次のような紹介文があります。
退役海軍特殊部隊(ネイビーシール)。米軍でシール訓練、陸軍レンジャースクール、空軍戦術航空管制官訓練を完了した、たった一人の人物である。
これまでに60以上のウルトラマラソン、トライアスロン、ウルトラトライアスロンを完走し、何度もコース記録を塗り替え、トップ5の常連となっている。
17時間で4,030回の懸垂を行い、ギネス世界記録を更新した。

やたら情報量が多いですが、尋常な経歴でないことは分かります。

たえとばネイビーシールの訓練が過酷で、その任務が命の危険と隣合わせにあることは私も知っていますが、ほかの経歴も合わせて考えると、とんでもなくマッチョでタフなアメリカ人です。

デイビッド氏はこうした経歴を才能ではなく、努力によって成し遂げたと述べており、本書は自伝であると同時にその考え方や取り組み方を同時に伝えてくれます。

昨年から定期的に読んでいるビジネス書が似たような内容であると感じ始めたこともあり、すこし毛色の違ったものを読んでみようと本書を手にとってみました。

そしてその期待は見事に的中し、著者は「タイパだのコスパだの、手抜きや効率なんてクソ食らえ」という考えで、自身を限界までハードに追い込み、周りからクソヤバいやつだと思われるくらい努力を続けることが重要だと主張しています。

なぜなら人間は本当の力の40%しか出していないはずであり、限界を超えた努力を続けることでその上限を突き破って不可能に思えることを次々とやり遂げ、自分を変えることが可能になるということです。

著者は暴力と貧困に怯える少年時代を過ごし、黒人であることから多くの差別を体験してきました。

これを現代風にいえば"人生ガチャに外れた"という表現になりますが、著者はそれを"甘え"であると一蹴し、すべては自分次第、つまり自分の人生は自分で何とかするしかないと主張しています。

とはいえ著者は最初から「鎧の心」を身に付けていたわけではなく、何度も挫折、失敗を繰り返しながら、試行錯誤の末に辿り着いた答えであり、本書にはその過程が細かく書かれています。

これをビジネスに応用するならば、昨今話題になっている働き方や生活スタイルを見直すワークライフバランスとはまったく真逆の考え方で、自分の心に打ち勝つには「とりつかれたかのような努力」、「とりつかれたかのようなハードワーク」が絶対に欠かせない要素であり、睡眠時間を3時間に削ってでも働き続ける姿勢が必要だということになります。

つまり昭和サラリーマンの「24時間戦えますか」のような世界観であり、TVで本書に書かれているような発言をすると大問題になりかねない時代ですが、本書は全米で500万部を記録した凄まじいベストセラー作品であり、日本以上に生産性や効率性にうるさく、AIの分野で世界を牽引するアメリカでこうした作品に多くの共感が寄せられていることを考えると、その懐の深さを改めて実感します。

ただし本書は単なる過激で直球な言葉の並ぶ自己啓発本ではなく、全体を通して著者が読者を叱咤激励してくれるような体温を感じることも事実です。

ありふれた世間並みの成功ではなく、周りから不可能だと言われるような目標へ向かって挑戦を続ける人にとって著者の言葉は勇気づけられるものであり、自分を変えたいと思っている人にとってもヒントを与えてくれる1冊です。

春の城


本作「春の城」は1952年(昭和27年)に発表されて読売文学賞を受賞し、著者の阿川弘之氏にとって出世作となった作品です。

阿川氏は帝国海軍を扱った作品を多く発表していますが、それは自身が大学生時代に学徒出陣により海軍予備員となった経歴が大きく影響しています。

本書はそんな自身の体験を元にした作品であり、作品が発表された時期は戦後6年が経過し、ようやく戦後の混乱期から脱出しつつあるものの、まだまだ戦争の傷跡が日本各地に残っている時代でもありました。

またもう1つ忘れてはならないのが、著者が広島市出身であり、両親は無事だったものの原爆により多くの知人を失った経験を持っているという点です。

著者の世代は青春時代の多感な時期に戦争を経験しており、それだけに本作品は戦争小説であると同時に青春小説でもあるという特徴を持っています。

主人公は東京帝国大学(現在の東大)文学部で日本文学を専攻し、学生時代を満喫しつつも勉学には打ち込めない、いわゆるモラトリアムな期間を過ごしていました。

将来は小説家を目指していましたが、日本がアメリカへ対して開戦し戦争が本格的になるにつれ、学徒動員の足音が聞こえてきます。

これは当時の若者でなければ本当に理解できない心境だと思いますが、将来の夢を抱きつつも、いずれ死ぬかも知れない戦地へと赴かなければならないという状況、つまり戦争という大きな時代の流れの中で自分の意思とは関係なく、未来そのものが不確かなものに思えてくるという不安定な心理がよく描かれていると思います。

心の底で好意を持っている女性との縁談の話も持ち上がりますが、そうした状況の中で主人公の気持ちはつねに不安定な状態です。

一方で学徒出陣により海軍予備員となると、戦争のために少しでも自分の力が役に立てばという気持ちも湧いてきます。

しかし軍では当然のように今まで経験したことのない厳しい上下関係やルールに馴染めない自分がいて、そこでも主人公の気持ちは複雑に揺れ動いてゆきます。

やがて戦況は悪化の一途を辿り、それは海軍に籍を置く主人公も実感するところであり、故郷の友人や同級生たちの中には戦死する者も出てきます。

やがて中国へ派遣される主人公は、そこでアメリカ軍によって故郷に原子爆弾が落とされたことを知るのです。。

とくに原爆のシーンでは、井伏鱒二氏の「黒い雨」の中にも見られる悲惨なリアリティのある描写に圧倒されます。

戦争小説の持つ暗いイメージと青春小説にある甘酸っぱいイメージが渾然一体となったような作品であり、自身の体験を元にしているだけにフィクション小説では決して到達できない、まさしく著者でなければ生み出せなかった作品であるといえます。

時代を超えて読み継いでほしい名作の1つであり、万人へお勧めできる1冊です。