ひとりを愛し続ける本
軽快なユーモアでエッセイを綴ってゆく狐狸庵山人としてではなく、遠藤周作名義で書かれたエッセイ集です。
遠藤周作氏の晩年のエッセイは自らの境遇に重ね合わせた"老い"や"死"、"医療問題"など重いテーマを扱ったものが多いですが、本書は著者が還暦あたりに執筆した1冊であり、一言でそのテーマを表せば"愛"ということになります。
たとえば本書では離婚を取り扱っていますが、夫婦間の愛情だけを問題にするよりも、離婚によって心が傷付いてしまう子どもの心情も考えて欲しいと提言しています。
ほかにもエッセイの中では以下のような話題を取り上げています。
- 男と女の嫉妬心の原因とその対策
- 女の怖ろしさ、そして人間誰もが心の奥底に持つ残忍さについての考察
- 不倫を含めた恋愛と結婚の違いについての考察
- 男と女の道徳観の違い
- 著者が尊敬する女友だちのこと
続いて本書の後半に入ってゆくと、自らの半生を振り返るようなエッセイへと変わってゆきます。
軽井沢にある別荘で1人庭をじっっと見つめていると、多くの友人が集まって楽しい夜を過ごした思い出、子どもたと花火をしたりお化けごっこをして走り回った姿などが眼に浮かんでくる一方で、自分が老境へと差し掛かり、長かった今日までの過去にどういった意味があったのかを噛みしめるといいます。
そして人生の本当の意味を若い時から分かっていたとしたら、人生は生きていてもつまらないものになるとも語っています。
つまり人生の意味というもは、定年を迎えて仕事を引退し、子どもが無事に独立して家から巣立っていったときに始めて分かり始めてくるものなのかも知れません。
ただ本作品が発表されてから約40年が経過し、現在は定年が延長されたこともあり生涯現役を目指す人が増えてきたこと、晩婚や独身が珍しくないことを考えると、人生を振り返るタイミングは人によって違ってくる時代であるともいえます。
私自身も今のところ定年を迎えてから悠々自適の隠居生活を送れるようなイメージはまったく沸いてこないのが正直なところです。
もし遠藤周作氏が現在を生きていたら、ここに書かれたエッセイがどのような内容へと変わったのかは気になります。
いずれにしても、その目線はやさしいものであり、不安を抱えて生きる現代人たちへエールを送ってくれる内容であることは間違いないと思います。
新・空き家問題
著者の牧野知弘氏は長年にわたり不動産業界に携わり、現在は不動産事業プロデュースを手がけるオラガ総研の代表を務めています。
私が現在住む街は首都圏に位置することもあり、それほど空き家は見かけません。
一方で車で地方へ出かけたとき、とくに中山間地域では空き家を見かける機会がかなり増えました。
たまたま訪れた私でも空き家だと判断できるのは、家屋がかなり傷んでいる状態であったり、庭が荒れ放題になったりしている場合であり、手入れされている場合は空き家であると判断できません。
一方で都心へ目を向けると、1部屋1億円超えのタワーマンションが飛ぶように売れていると聞き、全国的に空き家問題が報じられる中で不動産投資が加熱しているという不思議な現象が起きています。
本書では空き家問題の基本的な知識、そして空き家が引き起こす問題、さらには空き家を生み出さないためのアドバイス、視点を広げて国や自治体の空き家問題への取り組みやその評価を幅広く行っています。
まず2024年時点で日本全国に空き家は900万戸あるといわれています。
とてつもない数字ですが、この数字には賃貸物件の空室、別荘なども含まれているため、実際には全体の約40%である385万戸が放置状態にある個人住宅空き家だそうです。
それでも大きな数字には違いなく、たとえば東京では"空き家率"は低いものの、母数となる住宅の数が大きいため"空き家数"で見ると圧倒的に全国ワースト1位になります。
23区内の世田谷区では2万3千戸もの個人住宅空き家が存在するという数字には驚きを感じました。
また空き家の半分以上はマンション空き住戸であり、外見からはまったく分からない場所にも空き家が多く存在することが分かります。
何かと問題になる空き家ですが、人口減が始まっている日本では空き家を賃貸にしたり、そもそも売却することが困難(老朽化した家屋の解体費が土地代を上回る)であることが多いようです。
著者は1つの選択肢として相続土地国庫帰属制度を利用するアドバイスもしています。
たしかに活用する予定もなく、売ることもできない土地の税金を払い続けるよりは、現実的な選択肢であるといえます。
ただしこうした対処ができるのは、相続人が存在する場合であり、そもそもおひとりさま世帯で相続人がいない場合は問題はもっと深刻になります。
これに対しても著者は遺贈をおすすめしています。
生前のうちからお世話になった人や団体や学校など有効利用してくれそうな相手へ遺贈する旨を遺言状へ記載しておくというもので、法定相続人がいない場合は(分与で揉めないため)かえってスムーズに進むとアドバイスしています。
また著者は2030年以降に空き家が加速度的に増えてくると警告しています。
統計的に(すでに配偶者を亡くした)高齢者単独世帯主が寿命を迎え、都心であっても次々と空き家が生み出される状況になるというものです。
しかも相続人が1人息子(娘)であった場合、都心であればあるほど高い相続税の支払いが出来ないため、それらが中古住宅として市場に出回るというもので、かなり説得力があります。
著者はこうした現象がタワーマンションを中心とした不動産投資ブームを終わらせると予測しています。
つまり大量の不動産が市場に出回り始めることで、価格が手頃になり、住宅の購入が35年ローンによる一世一代の買い物ではない時代が来るといいます。
本書の副題に"2030年に向けての大変化"とあり、著者が本書でもっとも伝えたかったことはまさしくここにあると思います。
私自身は分譲マンションに住んでいますが、これから住人の高齢化や修繕費の値上がりがあることは確実であり、将来この住まいが空き家にならないよう色々考えさせてくれる1冊になりました。
「最期は自宅で」30の逝き方
若い頃は「死」というものを概念的に想像することはあっても、自分自身の死について具体的に考えたことがある人は少ないのではないでしょうか。
やがて中年に差しかかり、家庭を持つ人が出てきて子どもが成長し、両親が高齢になってくると「死」を具体的に考える機会が増えてくるはずです。
自分が何らかの病気で人生の最期を迎えるとき、無機質な病院の一室で点滴や人工呼吸器、心電図モニターに繋がれたまま1人で死んでゆくのを望む人はいないと思います。
出来ることなら自宅で家族に見守られながら最期を迎えることを望み、たとえ独り身であったとしても病院よりも自宅で最期を迎えたいと考える人は多いはずです。
現時点では健康体ではあるものの、こうしたことは元気なうちに考えておいた方が良いため、本書のタイトルだけを見て手にとってみることにしました。
本書の著者である高橋浩一氏は広島市の開業医であり、在宅緩和ケアを積極的に展開しています。
"在宅緩和ケア"とは病院ではなく、住み慣れた自宅で病気による身体や心の苦痛を和らげるケアを行いながら、自分らしい生活を送れるよう支援する医療サービスのことです。
実際には末期がんや老衰の患者が利用する場合が多く、本書はタイトルにある通り、著者が実際に在宅緩和ケアで担当した30例の最期を紹介したものとなります。
事例を見てゆくと80代、90代の事例が多いですが、中には60代の事例もあったりします。
ピンピンコロリ(最後は寝込まずにコロリと死ぬこと)を望む人は多いと思いますが、皮肉なことに医療の進歩によってネンネンコロリ(寝たきりの要介護状態を経たのちに死ぬこと)が増えているのが実情です。
この辺りは自分で決めるこは出来ませんが、本書では1年以上も在宅緩和ケアを続けた上で静かに最期を迎えた例も多く、必ずしも悲観する必要はありません。
大切なのは、早い段階で周りの家族を含めて在宅緩和ケアを望むことをはっきり意思表示しておくことです。
それは認知症が進んだ状態、言葉を発することが出来ない状態に陥ってからでは伝えることが難しいからです。
著者は在宅緩和ケアの患者へ対して、お菓子やアイス、またお酒であっても好きに口にしてよいとアドバイスしているようです。
たしかに病院では食欲がない中で入院食を食べる気にはなりませんし、飲酒は禁止されています。
好きなものを食べて飲むという行為は、自分らしく生きる上でもっとも基本的な部分だと思います。
漠然としか知らなかった在宅緩和ケアの実態を手軽な形で知ることができるのは"新書"の持つメリットであり、実際に2時間もあれば読み終わる分量でもあるため、多くの人に手にとって欲しい1冊です。
古今百馬鹿
本書は、遠藤周作こと狐狸庵山人が50代前半の頃に雑誌「オール讀物」で連載していたエッセイを書籍化したものです。
まずは本書の最後に書かれた短いあとがきを引用してみます。
「古今百馬鹿」は今より10年ほど前、つれづれなるままに、日ぐらし硯に向いてチビ筆なめつつ書きつらねた世にも人にも役にたたぬ原稿である。
したがって、読書によって徳をたかめ、知識を磨きたい青年男女にはこの本は何の益もなく、役にもたたざることを、あらかじめ、お断り申しあげる次第である。おわかりか。
柿生の里に庵結べる
世捨人 狐狸庵山人
遠藤周作といえば文学の王道のような重いテーマを扱った長編小説が特徴ですが、狐狸庵山人を名乗ったときには雰囲気がガラリと変わり、ユーモア溢れる軽快なエッセイを書くことで知られています。
遠藤氏と交友の深かった作家たちのエピソードを読む限り、その素顔はかなりのイタズラ好きで、ユーモアに溢れた人柄であったことが窺い知れます。
よって狐狸庵山人と名乗っているときの方が等身大の遠藤周作に近く、本人もそのバランスを取るために雅号(ペンネーム)を用いていたと容易に想像できます。
あとがきに著者自身が何の益もない本と名言していますが。そもそも実益を求めて読書をすることを悪いとは言いませんが、それ以上に私にとって読者は娯楽であり、もっと言えば自由であるべきだと思います。
私自身もスキルや知識を得る手助けとして読書をすることがありますが、やはりこうした場合の読書は楽しさが半減してしまいます。
ともかく「実用性のない本 = 読む価値のない駄本」とみなす意見には反対なのです。
エッセイとはいえ本書ほど肩の力が抜けた作品も珍しく、まさに"つれづれなるままに"書かれています。
日々の出来事、過去の体験談、友人とのエピソードなどエッセイとしは定番のものも多いですが、ときには自分が作った曲(歌詞)や俳句を披露したり、編集者へ対しての愚痴や延々と書くネタが無いとこぼしたり、かなり自由なスタイルで書かれています。
ちなみに著者は50歳そこそこで自らを世捨人であると称しています。
令和の時代から見るとかなり老成している印象を受けますが、本書が執筆された昭和40年代は50を過ぎれば本人や周りも初老という認識を持つ人が多かった時代なのだと思います。
50歳で老け込むには早すぎると思う一方で、大正生まれの人は50歳にもなれば人格的な奥行きや味わいが出てくる人が今の時代よりは多かったとも思うのです。
今の50代には書けない脱力系のエッセイが読みたい人は是非本書を手にとってみることをお勧めします。
さかさま世界史 怪物伝
前回紹介した寺山修司氏による「さかさま世界史」の第二弾です。
サブタイトルの「英雄伝」が「怪物伝」と変わっていますが、20人以上の偉人たちを次々と批評してゆくというスタイルは前作とまったく一緒です。
本書で登場する偉人たちは以下の通りです。
- ラスプーチン
- アラン
- 写楽
- サド侯爵
- アンデルセン
- ニュートン
- 西鶴
- ポオ
- スウィフト
- 馬琴
- サン=テクジェペリ
- マキャベリ
- ヴィヨン
- モーゼ
- 魯迅
- ガンジー
- ヒットラー
- クラウゼヴィッツ
- ランボー
- グリム兄弟
- ネロ
- 空海
- ダーヴィン
寺山氏自身が歌人・作家として活躍していたこともあり、作家や詩人といったジャンルの偉人たちが比較的多く含まれている印象を受けます。
彼の批評で一環しているのは、偉人・天才と呼ばれた人たちも、彼らの生涯や作品を掘り下げてゆくと、そこに見えてくるのは市井の人たちと変わらない欠陥だらけの人間であるという点です。
一方で怪僧・ラスプーチン、独裁者・ヒトラー、暴君・ネロといった異名と共に語られることが多い人物へ対しては、別の視点を提供しています。
ラスプーチンへ対しては宮廷に棲み着いた一匹の豚としてではなく、革命の水先案内人としての視点を、ヒトラーへ対しては狂信的殺人者としてではなく、歴史の歯車に軍服ごと引きずり込まれた芸術青年という視点、ネロへ対しては母親殺しの皇帝としてではなく、市民に愛されることを望んだ若すぎた青年という視点を読者へ提供しています。
もちろん歴史の専門家ではない著者によって偉人たちの評価が180℃変わることはありませんが、本書に登場する偉人たちの姿を"逆さま"、あるいは"裏側"から見てみると今までとは違った姿が見えてくるのです。
寺山氏の手掛けたドラマの演劇の脚本は、まさしくこうした視点から生まれたものであり、彼のスタイルは多くの批判を受けつつも、多くの支持者をも獲得しています。
いずれにしても従来の価値観を1つ1つ取り上げては疑ってかかり、新しいものを作り上げようとする著者のエネルギーは凄まじいものがあり、本書からその一端を垣間見ることができます。
さかさま世界史 英雄伝
寺山修司氏が世界史に登場する偉人たちを縦横無尽に批評してゆく1冊です。
本書には20人以上の偉人が登場しますが、1人につき文庫本で10ページほどでテンポよく次々と批評しています。
- コロンブス
- ベートーベン
- エジソン
- イソップ
- ガロア
- シェークスピア
- 二宮尊徳
- ゲーテ
- ダンテ
- スタンダール
- 毛沢東
- カミュ
- ニーチェ
- 聖徳太子
- カフカ
- マルクス
- 紫式部
- セルバンテス
- トロツキー
- 孟子
- キリスト
- プラトン
- リルケ
寺山修司といえば歌人や小説家としても有名ですが、何といってもラジオやTVドラマの脚本、そして演劇作家として知っている人が多いのではないでしょうか。
彼の特徴を1つ挙げるとすれば、「つねに批判的」であるという点です。
それは世の中で大多数が当たり前、もしくは良いとされている価値観へ対して、それを決して鵜呑みにはせず疑ってかかるという姿勢であり、世の中で悪いとされている物事へ対してもその姿勢は同様です。
またそれらの物事を批判するにあたり、評論家のような難解な言葉を用いず、時には土俗的で卑猥な表現を使いつつユーモアを交えつつ評論している点も寺山風といえるのではないでしょうか。
こうした姿勢は劇団・天井桟敷を主催し、アングラ演劇というジャンルを開拓してゆく実行力とも密接に関係してゆきます。
ここまで書けば分かると思いますが、本書に登場する誰もが知っているような偉人たちは、寺山氏の前で同様に料理されてゆくことになるのです。
ドイツの文豪ゲーテの作品に登場する恋愛に悩む主人公へ対して精神主義型自家発電と表現したり、聖徳太子を国家権力の元凶であり、今も高額紙幣として幅を利かせ続けていると断じてみたり、プラトンに至っては毛深いただの中年男であるソクラテスへラブレターを書き続けた男だと書かれています。
本書は偉人たちの伝記はないという点は注意であり、世間一般の評価から偉人たちを"さかさま"に見ることで寺山ワールドを楽しめる1冊なのです。
最高の体調
若い頃は仕事で徹夜をしたり、前日にハードな運動をしたり、または夜遅くまでお酒を飲んでいても1日しっかりと休めば体力が回復していた記憶があります。
一方で40歳を超えたあたりから徹夜をすると場合によっては1週間くらい体調や生活リズムが戻らないという経験が増えるようになりました。
これは極端な例ですが、日々の仕事の中でなんとなく体調が万全ではないと感じることがある人は多いのではないでしょうか。
また体調だけではなく、仕事や趣味へのモチベーションが下がるといった心理的な不調を感じることがあるかもしれません。
私も自分なりに疲れが溜まっていると感じたときは食事に気をつけたり睡眠時間を長めにとったり、また気分転換をしたりといった方法を取っていますが、本書はそんな症状へ対して最新の科学・医学研究の成果を元に統合的なアプローチを解説した本になります。
人類が二足歩行をはじめて600万年が経過していると言われています。
一方で人類が農耕を始め文明を形成し始めたのが約1万年前です。
つまり人類の進化は急激に変化した生活様式に対応できていない、言い換えれば現代人の心と体の不調の原因は「文明病」であると結論付けています。
これを本書では分かりやすく整理するため、古代より多すぎるもの、少なすぎるもの、存在しなかった新しいものという3つに分類しています。
多すぎる
- 摂取カロリー
- 精製穀物
- アルコール
- オメガ6脂肪酸
- 塩分
- 乳製品
- 飽和脂肪酸
- 満腹感
- 食事のバリエーション
- 人口密度
- 衛生設備
- 人生の価値観
少なすぎる
- 有酸素運動
- 筋肉を使う運動
- 睡眠
- 空腹感
- ビタミン
- ミネラル
- 食物繊維
- タンパク質
- オメガ3脂肪酸
- 自然との触れ合い
- 有益なバクテリアとの接触
- 太陽光の摂取量
- 深い対人コミュニケーション
- 他人への貢献
新しすぎる
- 加工食品
- トランス脂肪酸
- 果糖ブドウ糖液糖
- 公害
- 人工照明
- デジタルデバイス
- インターネット
- 慢性的なストレス
- 化学物質
- 重金属
- 処方箋
- 孤独
- 仕事のプレッシャー
本書によれば私たちの生活様式を狩猟採集社会に戻すことができれば、現代人の抱える体や心の不調をすべて解決できるということになります。
しかし人類は1度享受した便利さを決して手放すことはなく、現実的な解決策とはいえません。
そこで冒頭にある通り、最新の科学・医学研究の成果を元に現実的な解決方法を提示しています。
たとえば食事や衛生面から体調を万全にするための実践ガイドは以下のようになります。
- 抗生物質を無闇に使わない
- 抗菌グッズや殺菌グッズの排除
- 空気をきれいに保つ
- 発酵食品を摂取する
- 食物繊維を摂取する
本書の中では上記のような内容だけでなく、その理由と根拠、また具体的にどのような食品やサプリメントを摂取すべきかが細かく解説されています。
後半ではストレスへの対処方法、人生の満足度(幸福感)を高める方法など、精神面におけるコンディショニングを解説しています。
本書で言及されているのは広範囲に及ぶため、著者は自分が不調を感じている部分、または実践しやすい項目から始めてみることを勧めています。
もちろん人間は健康になるために生きているわけではありませんが、健康だからこそ人生の目的へ向かって進むことができるのも事実です。
コンディションを整えることを解説しているだけに広範囲な読書へ対して当てはまる1冊であり、興味が湧けばぜひ手にとって見てみることをお勧めします。
南蛮阿房列車
作家・内田百閒氏は熱心な鉄道ファン(乗り鉄)として知られていて、かつて「阿房列車」という鉄道旅行の紀行文シリーズで人気を博しました。
タイトルにある"阿房"とは始皇帝が建立した宮殿「阿房宮」が由来らしく、彼が鉄道旅行の際には金を惜しまずつねに1等車に乗るモットーであることから名付けられたようです。
それから四世紀半が経過し、内田氏も亡くなった頃に作家・阿川弘之氏が阿保列車シリーズの続編を執筆する決意をします。
それは阿部氏が自他ともに認める鉄道ファン(しかも内田氏と同じ乗り鉄)であり、本書のタイトルにある"南蛮"は日本を飛び出して世界を舞台にした鉄道旅であることから名付けたものです。
私自身が鉄道ファンというわけではありませんが、紀行文を読むのは好きなこともあり本書を手にとってみました。
本書で紹介される鉄道旅は"南蛮"と冠するに相応しく、イギリス&スコットランド、マダガスカル、タンザニア、アメリカ、カナダ、欧州各国、モロッコ、台湾と多岐に及びます。
旅の同行者として狐狸庵(遠藤周作氏)、マンボウ(北杜夫氏)といった人たちが登場し、ファンにはお馴染みの愉快なメンバーで鉄道旅を楽しんでゆきます。
しかし本当の意味でこの旅を楽しんでいるのは、阿部氏だけかも知れません。
何故なら同行者は途中までは付き合うのですが、一昼夜にわたり鉄道に乗った挙げ句、飛行機に35分乗って出発地に戻ってくるなど、まさに鉄道に乗ることが手段ではなく目的となっている著者に途中から付き合いきれなくなるからです。
著者は列車に乗って居眠りばかりしている同行者たちをユーモアたっぷりに軽蔑していますが、さすがに私に読みながら同行者の方を同情してしまうほどです。
それでも車内の様子や車窓から見える景色、さらには列車やレール、駅などの描写を見ていると、本当に著者が鉄道好きなことが伝わってきて、読む分には不愉快さは微塵もなく、むしろ微笑ましさを感じます。
また旅の中で同行者や現地の人たちとのやり取りも面白く読むことができ、私の中では硬派な作家である阿部浩之氏の意外な一面を見た気がします。
とても著者のような旅を真似する気は起きませんが、旅を疑似体験で楽しむことができる紀行文の魅力を充分に備えている1冊であることは間違いありません。
本作品は続編も刊行されているようであり、本家(元祖)である内田百閒氏の「阿房列車」も併せていつか読んでみようと思います。
家康と権之丞
火坂雅志氏の歴史小説です。
タイトルを見たとき、家康は分かりますが"権之丞"は誰だろうと思いました。
家康には11人とも13人とも言われる息子たちがいました。
武田家に内通した疑いを持たれて切腹した長男・信康、2代将軍となる三男・秀忠、九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房はそれぞれ徳川御三家(尾張、紀伊、水戸)の家祖となったことで有名です。
本書の主人公・権之丞は家康の七男として生まれ、旗本である小笠原広朝の養子として育てられたという説がある人物で歴史上では殆ど知られていない人物です。
権之丞は天主教(キリスト教)を信仰していましたが、よく知られている通り家康はキリスト教禁止令を命令します。
しかし権之丞は父・家康への反抗心もあり、改宗を拒んだために改易(領地没収)されることになります。
ところで権之丞の叔父である小笠原貞頼は、小笠原諸島の発見者と伝えられ現在使われている島名の由来にもなっています。
そこで権之丞はこの小笠原諸島に迫害されたキリシタンを移住させ、ノビスパニア(メキシコ)との交易で成り立つ独立国家を樹立するという目的に向かって動き始めます。
当然というべきか権之丞の言動は殆ど残されていませんが、そこを逆手にとって著者が自由な発想で物語を展開してゆくという点がこの作品の面白さでもあります。
養子として育った権之丞に実父・家康への愛情はまったくありませんが、一方でつねに家康を意識してしまうという葛藤、そしてその束縛か逃れるために自分なりの生き方を見つけて貫こうとする姿が描かれています。
ネタバレしないためにこれ以上あらすじには触れませんが、日本が戦乱に揺れる中、その日本を離れて新天地を切り開こうとする冒険的な試みは読者を引き込まずにはいません。
人間誰しも生まれ育つ環境を自分で選ぶことはできませんが、自らの意志、そしてそれに賛同する同士たちと力を合わせて運命を切り開こうとする主人公は魅力的です。
本書は600ページにも及ぶ長編小説ですが、作品中で描かれている時代はおもに1609~1614年という短い期間であり、それだけ密度の濃いストーリーが展開されます。
一方で歴史に精通している著者だけに、幕を閉じようとしている戦国時代の情勢やそこに登場する武将たちの心理もよく描かれており、それだけに時代の流れに抗おうとする権之丞の姿が鮮やかに浮かび上がってくるのです。
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