ふぉん・しいほるとの娘(上)
1823年、長崎の出島にオランダ籍の帆船が到着するところから物語が始まります。
この船には名医として名高いフォン・シーボルトが乗船しており、彼が日本の地を踏んだ時から壮大な物語が始まります。
長崎の丸山遊廓には、こうしたオランダ人たちを専門で相手をする"オランダ行き"と呼ばれる遊女たちがいました。
その1人である其扇(そのおおぎ)がシーボルトに見初められ、やがて1人の女子を出産することになり、彼女がタイトルにある主人公・お稲(楠本イネ)になります。
本書の前半部分はお稲が誕生するまでのいきさつ、つまり来日したシーボルトの活動やその周辺で起きたことを中心に物語が進行します。
シーボルトが名医であるという噂はまたたく間に広がり、蘭方医たちはこぞって彼の元へ教えを請いに訪れます。
そして彼らはシーボルトの診断と治療法、そして最新の医療器具を実際に見て感嘆します。
さらにシーボルトは動物学、植物学、地理にも通じており、27歳にして多くの生徒たちを抱えることになります。
来日した翌年には当時の外国人としては前例のない、出島の外に鳴滝塾という診療所を兼ねた私塾を構えることが許されます。
シーボルトが名医として長崎で多くの弟子を育てることだけに専念していれば、日本に貢献した恩人として後世へ伝わったでしょうが、彼にはオランダ政府から日本の国情を探るという密命を受けていました。つまり現代ではスパイということになります。
もちろん当時の鎖国政策によって未知の国であった日本への学者としての好奇心もありましたが、彼は一介の医者として生涯を終えるつもりはなく、熱心に時には生徒たちを巧みに使って情報収集に励みます。
彼の膨大な収集品の中には伊能忠敬の日本地図、江戸城本丸の図面、樺太測量図といった国防上の機密情報も含まれていたのです。
家庭の中では其扇(お滝)やお稲を溺愛する優しい父親としての一面があり、この裏表の顔が悲劇を招くことになるのです。
それがシーボルト事件であり、彼の収集した地図などが幕府に露見し、多くの関係者や蘭方医たちが処罰され、シーボルト自身も国外追放となります。
母娘(お滝・お稲)から見れば突然取り残された形となりますが、シーボルトは去り際に2人へ充分な資金を渡し、弟子たちへも2人をくれぐれも頼むと言い残します。
やがてお滝は俵屋時治郎と再婚し、母娘に平穏な時が訪れます。
外国との交易が盛んだった長崎では、西洋文化への理解が深く、またオランダ人との混血児も珍しくなかったといいますが、町から1歩外に出れば奇異の目で見られる時代でもありました。
成長するに従い、お稲も周囲の目や態度に気付くようになり、さらには再婚した母親が男児を出産してからは、より一層複雑な想いを抱くようになります。
物心つく前に父親と生き別れになったお稲でしたが、成長するに従い実父の意志を受け継いで自らも学問を身に付けて医者になることを志すようになります。
当時は女性の蘭方医はおろか女医自体が皆無の時代でしたが、義父の援助と理解もありかつてシーボルト弟子であった二宮敬作の住む宇和島へとわずか13歳で赴くことになるのです。
当時、交易を許可されていた清とオランダ以外の外国船が日本へ出没するようになり、激動の幕末が始まろうとする時代の中で1人の娘がたくましく生き抜いてゆこうという姿に圧倒されます。
上下巻で1200ページにも及ぶ吉村昭氏の作品の中でも1、2を争う長編作品であり、吉川英治文学賞を受賞した代表作でもあります。
そのまま大河ドラマになるような大きなスケールを持った作品であり、じっくりと腰を据えて読むことをお勧めしたい1冊です。
