壁
安部公房氏が27歳のときに発表して芥川賞を受賞し、その名前が世に知られ日本を代表する作家へと駆け上るきっかけとなった作品です。
いわゆるオムニバス形式であり、最初の2つは中編小説、残りの4作品は短編小説になっています。
- S・カルマ氏の犯罪
- バベルの塔の狸
- 赤い繭
- 洪水
- 魔法のチョーク
- 事業
著者がまだ若いということもあり、のちに発表される「失踪三部作」(砂の女、他人の顔、燃え尽きた地図)とは明らかに作風が異なります。
全盛期の作品は重厚なミステリー小説のような雰囲気がありますが、本作品は荒唐無稽なSF小説といった印象を受けました。
その一方で作品で扱っているテーマには後の作品と共通したものがあり、それは現代の人間や集団(社会)が持つ潜在意識を深く観察して、それを象徴的にストーリー化している点です。
本書の中でもっとも長い作品である「S・カルマ氏の犯罪」では理由や原因は不明ながらも、とにかく自分の名前を忘れた(失った)男が主人公です。
名前以外の記憶はあるのに、名前だけを思い出せない主人公は、やがて犯罪者として理不尽な裁判にかけられることになりますが、その裁判の内容も支離滅裂なものであり、あらすじを紹介すること自体にはあまり意味がありません。
とにかく突然訪れる理不尽さと意味不明さは、まるで寝ている間に見る夢を鮮明に描いたような作品であり、妙な説得力を感じさせる作品です。
次に「バベルの塔の狸」では、売れない詩人が持つ妄想が1匹の狸のような動物となって主人公から分離し、行動を共にするというストーリーです。
こちらも前作に劣らず荒唐無稽なものですが、そもそも人間の脳内において現実と妄想を区別する境界線(壁)は曖昧なものであり、とくにストレスが多い現代社会では妄想が現実を支配することもあり得るという意味においては、こちらも妙な説得力を感じさせるのです。
本作品は1951年(昭和26年)に発表されており、令和の時代に読んでも驚くほど古典的な作品といった印象はまったく受けません。
純文学とはかなり距離を離れた作品ですが、その代表者である川端康成氏が本作を高く評価したというのは面白い点であり、こうした作品が新しい時代を切り開くことを当時から予感していた点にも驚かされます。
