本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

「筋肉」よりも「骨」を使え!


本書は武術研究家の甲野善紀氏、そして「骨ストレッチ」をはじめとした整体術、そしてアスリートのトレーナーとして活躍する松村卓氏の対談という形で進んでゆきます。

スポーツ選手がトレーニングを通じて筋肉量を増やしパフォーマンスを向上させるというのは、ほとんど疑う余地のない常識のように思えますが、この2人はそれを根底から否定し、科学的に競技を追求してゆく今の風潮に疑問を呈しています。

たしかに剣豪と言われた昔の武術家たちは筋トレをしてタンパク質を多く摂取するという概念すら無かったはずであり、それにも関わらず超人的なパフォーマンスを発揮できたのは、体を自由に動かすための概念が現代とは違っていたというのが甲野氏の考えです。

またこうした考えに近づくためには、筋肉ではなく骨にアプローチすべきという点で2人の考えは一致しています。

私たちは科学的、医学的なエビデンスがないものをなかなか信用できませんが、2人は多くのケースで現時点で科学的な立証は不可能ではあるものの、結果として大きくパフォーマンスが向上した経験をしてきました。

正直、理論的な説明が難しいために読者には伝わりにくい箇所がいくつか出てきます。

それでも体格的に欧米人などに劣る日本人アスリートが筋肉を中心としたアプローチを続ける限り、それを追い越すことは至難の業であり、潜在的な能力を引き出すための1つの可能性として2人の考えは魅力的に聞こえます。

科学が発展しても人体、もっと大きな視点でいえば生命や宇宙の真理は深まるばかりであり、理論や言語を越えたところにある感覚を大事にする部分はこれからも必要になってくるのではないでしょうか。

正直、ストレッチ方法など本書に書かれている内容を実践するかどうかは別として、1つの流儀として知っておいても損はないと思います。

修羅場の経営責任


タイトルからは本の内容が伝わりにくいのですが、カバー内側にある簡潔な説明文を読めばその内容は明瞭であり、これに目を通して本書を購入することを決めました。

山一證券の破綻では「社内調査委員会」に入り経営責任を追求し、長銀事件では経営陣を守り国策捜査と戦う。歴史的金融破綻に立ち会った危機管理弁護士が問う、真の経営責任とは。

本ブログでも紹介した高杉良氏の「会社蘇生」は弁護士が保全管理人となり、倒産の危機に瀕した企業を立て直した物語でしたが、それが印象に残っていたことも本書を手にとった理由の1つです。

ただしこれは小説ではなく、弁護士である国広正氏が自らの経験を綴ったノンフィクションです。

バブル崩壊では多くの企業が倒産しましたが、本書に登場する山一證券日本長期信用銀行の経営破綻はそれを象徴する出来事であり、その2つに同一の弁護士が深く関わっていたことは驚きです。

いかに大企業であっても業績不振によって倒産危機となる可能性がありますが、それ自体は市場の原理を考えると自然淘汰の意味もあり決して"悪"とは言い切れません。
ただしそれが不祥事や放漫経営、さらには違法行為であった場合には経営手腕以前に危機管理能力が問われます。

その最前線を終始経験してきた著者は、いきなり本書の冒頭で危機管理の要点を述べています。

危機管理で最も大切なことは何か。
それは、マスコミ対応の謝罪テクニックでもなければ、言葉尻をとらえられないための言い回しの技術でもない。最も大切なことは、不祥事という危機に正面から立ち向かう姿勢である。
危機管理の現場は修羅場である。知識や小手先の技術論は通用しない。成否を分けるのは、経営者の「危機に立ち向かう覚悟」である。これなしに危機を克服することは決してできない。

本書の構成はわかり易く、前半で山一證券を、後半で長銀のエピソードを振り返っています。

法的追求を逃れようとする旧経営陣、そして刑事責任ありきの国策捜査に著者はどのようにして立ち向かっていったのか?

詳しい内容は本書を読んでのお楽しみとしますが、バブル時代、そしてバブルが崩壊してから20年以上が経過している中で資本主義、そして経済的自由主義の時代がこれからも続いていくことを前提とするならば、本書の示唆するところは多いような気がします。

生き上手死に上手


1991年頃に発表された遠藤周作氏のエッセー集です。
発表された時期から推測して、実際にエッセーが書かれたのは1980年代後半だと思われますが、著者が60代中盤だった時期と重なります。

現在の60代というとまだまだ精力的に活動している人も多く、"老人"や"晩年"というイメージが薄らいでいるように思えます。

一方で本書のタイトルからは、遠藤氏が自らの人生を総括し始めていることを感じさせます。

そして戦争、海外留学、大病、そして長きにわたる作家活動を通じて、自らが人生で得たものを後世の人びと(つまり読者たち)に伝えようという意志が本書の至るところから伝わってくるのです。

たとえば、"マイナスのなかにプラスの可能性がある"という著者の言葉は、明日をも知れぬ大病を患い50歳にして実感できたことだと述べています。

マイナスを逆利用する、または悪もまた善となりうるという言葉は、著者の経験から得た教訓、そして先人たちの教えから自然に導かれた答えであり、自己啓発本にありがちなポジティブ思考とは違った、肩の力を抜いた自然さがあります。

日本のキリスト教文学を牽引してきた著者であれば聖書から引用してきそうなものですが、実際に引用されるのは良寛小林一茶与謝蕪村だったりするところからもそれを感じられます。

そもそも著者にとって本当の信仰とは合理主義や理屈を越えたものであり、言葉や思考では表せないものだという姿勢は、その作品からも伝わってくるテーマです。

ただし小説ならともかく、真面目一辺倒では遠藤周作、もといエッセイストとしての顔・狐狸庵山人には相応しくありません。

著者自身があとがきに、「読者も寝っころがって、気楽な気持でよんでください」と書いているように、ポツリポツリと語られる無駄話も充分に収録されています。


全編から伝わるのは堅苦しい老人の言葉ではなく、遠藤氏のやさしい視線とユーモア溢れる語り口であり、読者もリラックスして読むことができます。

やはりここは著者の言葉に甘えて横に寝っころがりながら読むことをお薦めします。

磔(はりつけ)


解説には、「昭和44年~54年までの約10年間に書かれた吉村昭の短・中篇歴史小説五篇が集められている」とあります。

吉村昭といえば、当事者たちへのインタビューや当時の資料を元にしたして書かれた戦史小説、または記録小説という印象が強いのですが、かなりの数の長編歴史小説も発表しています。

そうした中で吉村氏の短編歴史小説を読むのは今回が初めてであり、新鮮な印象を受けます。

まず本のタイトルにもなっている「」では秀吉政権下で弾圧され、大阪から長崎へ連行され処刑されるキリシタンたちを扱っています。

頑なに棄教を拒み、苛酷な扱いを受けながらも神を信じ続ける彼らの姿を淡々と描いてゆく過程は、遠藤周作氏のキリスト教文学と驚くほど作風が似ています。

どちも作者が冷静な観察者に徹していますが、吉村氏がその後も同じ観察者、または記録者のような視点で幅広い題材を扱ってゆくことを考えると、この時期にスタイルが確立しつつあることを思わせます。

また同じく本書に収められている「動く牙」では、幕末において武田耕雲斎を首領とする水戸天狗党が上洛する途中で幕府に投降し、武士としての名誉ある切腹ではなく、まるで流れ作業のように次々と無残に斬首されてしまう出来事を扱っています。

時代や宗教・思想的な背景は異なりますが、いずれも時代の権力者によって抹殺された人びとを扱った点が興味深い作品です。


続いて「コロリ」では、明治初頭に安房で活動していた沼野玄昌という医師を主人公にしています。

まだ東洋医学が主流である時代にあって人体解剖を行い、積極的に西洋医学を取り入れた沼野は村で流行ったコロリ(コレラ)治療に奔走しますが、漁民たちの誤解によって殺害されるといった痛ましい事件を取り扱っています。

もし玄昌が東京で活動していれば名医として人生を全うできたかも知れないことを考えると、何か言いようのない虚しさが漂う作品です。

解体新書を完成させる過程を描いた前野良沢を主人公とした彼の代表作「冬の鷹」がほぼ同時期に発表されていることを考えると、双方の作品がそれぞれに及ぼした影響があるに違いありません。


残り2篇の「三色旗」、「洋船建造」では、江戸時代に日本を訪れた外国人を主人公にしています。

とくに「洋船建造」ではロシアのプチャーチンを扱っており、20年のちに彼とタフな折衝をくり返した川路聖謨を主人にした歴史長編小説「落日の宴」としてフルリニューアルされることを考えると感慨深い作品でもあります。


ともかく作家として歴史を扱うのであれば有名な人物や大きな事件を取り扱った方が商業的な成功を収めやすい中で、独自の視点でテーマを探し続けた吉村氏のスタイルが好みな私にとっては文句なしの1冊です。

幕末奇談


明治生まれの歴史小説家といえば吉川英治が国民的な人気作家であり、現代でもその知名度は抜群です。

一方で吉川英治とまったくの同年(明治25年)に生まれ、同じ歴史小説家として活躍した子母澤寛は現代においてそれほど知れられていないように思えます。

しかし例えば彼の代表作・新選組三部作を読めば、司馬遼太郎氏をはじめとしたのちに活躍した作家へ与えた影響がいかに大きかったかが分かります。

本書は大きく2つのエッセーの固まりで構成されており、前半が講演調(実際の講演内容を収録したのかも知れませんが)で書かれている幕末研究と題されているものです。

彼の史観は、幕末を官軍・賊軍と区別する無意味さを説き、政治上の意見を異にした者同士が確固たる信条と、そこへ多少の感情が交じりながらも遂に砲火をもって解決しただけの話だと主張し、さらに新撰組へ抱く暴力団のようなイメージも間違いだと指摘し、彼らは統制のとれた優秀な警察隊であったとします。

明治生まれの著者は、明治政府の母体となった官軍が礼賛される中で育ってきた世代であり、本書が執筆された昭和8年当時であってもそうした幕末史が主流であった中で、著者の考えがいかに先進的だったかは、逆に現代の読者である私たちが違和感なくそれを受け入れられることが証明しています。

著者は歴史家ではなく、あくまで作家として活動していましたが、実際に新撰組と身近に接していた人びとや元新撰組員の古老たちへ丁寧な取材を行い作品を書き上げてきました。

こればかりは後世の作家には真似の出来ない、著者の生まれた時代だからこそ与えられた特権であり、そうした経験の中で自らの歴史観をしっかりと形成してきたに違いありません。

そして後半には露宿洞雑筆という表題で、比較的自由なテーマの歴史エッセーが掲載されています。

たとえば渡世人の風俗や逸話といった話題を取り上げている箇所では、小金井小次郎国定忠治をはじめとした多くの侠客たちの逸話が収めされており、民俗学的な価値さえ感じられる内容になっています。

また時には当時流行った江戸怪談にも触れており、皿屋敷(更屋敷)四谷怪談にまつわる逸話や派生話を話題にしています。

さらには幕末のマニアックな剣豪談なども取り上げており、所々に著者が当時を知る古老から直接聞いた話が掲載されている点などは歴史ファンにとってたまらないのではないでしょうか。

クオリティ、そして本書に収めされているエピソードの希少価値ともに文句のない時代を超えた名作といえる1冊であり、歴史ファンであれば必読の1冊といえるでしょう。