本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

終わらざる夏 (上)

終わらざる夏 上 (集英社文庫 あ 36-18)

本作は2010年に発表された浅田次郎氏の作品です。

集英社が実施している夏の文庫本フェア(ナツイチ)で本屋に積まれていたのが目に止まって思わず手にとってしまいました。

このフェアの中でAKB48のメンバーが読書感想文を書くという企画が実施されていますが、若者の活字離れが進む中で、新しい読者層を増やそうという出版社の試みには興味を持ちました。

浅田次郎といえば短篇小説の方が好きなのですが、本作品は太平洋戦争末期を舞台にした長編小説です。

夏といえば終戦記念日(8月15日)が含まれており、この時期に戦争を題材にした作品を読むことを是非お薦めしたいところです(皮肉にもこういう視点からフェアを開催する出版社は無いようですが。。。)。

終戦は1945年に訪れますが、この年の第二次世界大戦の戦況を客観的に見ると、日本は一方的に防衛ラインを縮小し続ける絶望的な状況であり、兵力も物資も不足する中で大本営はまとまな作戦を立案できる状態ではなく、半ばやけくそともいえるような消耗を続けてゆきます。

仮に"あと10ヶ月早く降伏"という決断が取られたなら、比島(フィリピン)攻防硫黄島の玉砕といった徴兵された軍人のみならず、沖縄の本土決戦空襲や原爆による多数の民間人の死者を大幅に減らすことができました。

結果はご存知の通り、近代史の特徴である総力戦という例に漏れず、悲しいことに国家が徹底的に疲弊するまで戦争が遂行されることになります。

その中で終戦のわずか1週間前に行われた、ソ連の対日宣戦布告、そしてその結果として行われた満州国樺太へ対する侵攻(そして終戦後の抑留)も戦争の傷口を広げた代表的な例であるといえます。

本ブログでもシベリア抑留と比べて、あまり知られていないカムチャッカ抑留を題材とした本を紹介していますが、本書は同じくソ連軍の侵攻を受けた千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を題材にした作品です。


8月15日の日本の降伏の後も戦いは続行され、その後も命を失った軍人や民間人が存在したことを忘れてはなりませんし、「終戦記念日=戦争の終結」と考えるのは間違っています。

歴史的に見れば、あくまでも8月15日は日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した日でしかありませんし、本書のタイトルもそういった意図で付けられたに違いありません。

いつものように上巻では作品内容をロクにレビューできませんでしたが、次回から少しずつ紹介してゆく予定です。

ユダの覚醒(下)

ユダの覚醒(下) (シグマフォースシリーズ)

シグマフォース・シリーズの三作目「ユダの覚醒」の下巻を引き続きレビューしてゆきます。

ある島で発生した奇病、その正体を知るためににピアース隊長たちは、マルコ・ポーロ「東方見聞録」の失われた章の断片を求めて世界中を飛び回ります。

一方である島で発生した奇病は、その病原菌を生物兵器として悪用しようとする"ギルド"の計画であり、同じくシグマフォースのモンク隊員が彼らを相手に奮戦します。

今回は謎解きと対象となるのが「東方見聞録」のみのため、失われた古代の科学技術や、巨大な組織であったナチスを題材とした前作品までと比べて、ミステリーの規模や奥行きが浅いといった感想を持ちました。

もっともシリーズを3作連続で読んでしまったことにより、慣れてしまった感も否めません。

しかし上巻ではじっくりと謎解きに時間かけて進んでいたストーリーですが、下巻では怒涛のように展開してゆき、テンポのよいスパイ小説のように一気に読むことが出来ました。

次作へ続くとおもわれる伏線も残されており、シリーズのファンを意識した終わり方になっています。

今アメリカでもっとも勢いのあるシリーズ作品の1つであり、またそれに相応しいエンターテイメント性を持った作品であることは間違いありません。

そして1作目のレビュー時に感じた、アメリカ人作家にしか書けない作品であるという印象は、3シリーズ目を読み終えた今でも変わっていません。

著者であるジェームズ・ロリンズの公式ページを見てみましたが、現時点でシグマフォース・シリーズは11作目まで発表されているようです。

2004年に1作目が発表されたことや、1作あたりの長さを考えると、かなりのペースで書かれています。

また翻訳出版している竹書房のホームページでは4作品目まで発売されており、8作品目までが翻訳&発売予定であると書かれています。

既にファンである読者、これから読んでみようと思っている読者にとって充実したラインナップであることも魅力の1つであるといえます。

私も時間を置いて、4作品目以降も読んでみようと思います。

ユダの覚醒(上)

ユダの覚醒(上) (シグマフォースシリーズ)

シグマフォースシリーズの3作目になります。

さすがに立て続けに3作品めに突入すると、ストーリーの展開がだいたい分かってきます。

  • 最初に大きな謎が読者に提示される
  • その謎を解き明かすため、巨大な陰謀(平たくいえば悪事)の実行が計画される
  • ピアース隊長率いるシグマフォースが出動する
  • 本格的なストーリー(謎解き)に突入する

だいたいこのような流れですが、良い意味でも悪い意味でも"シグマフォースシリーズの安定感"、つまり読者の期待を裏切らない謎解きが展開されてゆく一方で、どこかマンネリ化を思わせます。

ただしシリーズの作品の質は高いレベルで維持を続けており、ピアース隊長やクロウ司令官といったレギュラー陣のほかに、1作目で活躍したモンク隊員や、ヴァチカン機密公文書館のヴェローナ館長、ギルドの謎の工作員・セイチャンといったキャラクターが再登場します。

1作目からの読者にとっては嬉しいサプライズである一方で、1タイトルでストーリーが完結するスタイルであるものの、いきなり本作品からシグマフォース・シリーズを読み始めるのはお薦め出来ません。

今回は「東方見聞録」で有名なマルコ・ポーロを題材にしていますが、作品の導入部を少し引用します。
自分の旅路に関して、マルコ・ポーロが決して語ろうとしなかった話がひとつだけある。
そのことについては、本の中でも遠回しにしか触れられていない。
マルコ・ポーロが帰国する際、フビライ・ハンは一行に十四隻の巨大は船と六百人の随行者を提供した。
しかし、二年間の航海の後にヴェネツィアに帰国した時には、二隻の船と十八人の随行者しか残っていなかった。
ほかの船と人々の運命については、今日に至るまで謎のままである。
難破したのか、嵐に遭ったのか、それとも海賊に襲われたのか?
マルコ・ポーロは決して語ろうとしなかった。
死期が迫り、もう一度だけ旅行の話をしてほしいとせがまれると、マルコ・ポーロは次のような謎めいた言葉を発したと伝えられる。
「私は自分が目にしたことの半分しか話していない」
マルコ・ポーロが多くの随行員を失い帰国したのは事実であり、この逸話も現代に伝えられているもののようです。

果たして語られることなかったマルコ・ポーロが経験したものとは・・?

ナチの亡霊(下)

ナチの亡霊(下) (竹書房文庫)

前回に引き続きジェームズ・ロリンズ氏の「ナチの亡霊」の下巻を紹介します。

前回紹介した通りナチス生き残りの科学者が戦後も量子論研究を続け、やがて現代の人類にとって脅威となるべき兵器を開発する。

本作ではその量子論を巧みに、ゲルマン的な民族主義(=アーリア人を優秀な民族とする考え)、そしてその延長線上にある超人思想(やがてアーリア人の子孫の中から新人類が誕生するという考え方)と結びつけてゆきます。

こうした民族主義的な思想に重要なのが「純血さ」や「遺伝」であり、それを再び最先端の遺伝子工学に結びつけるという著者の着眼点には脱帽させられます。

科学と歴史を融合する巧みなセンスに読者をどんどん惹きつけられてゆきます。

もちろんナチスが掲げた思想のオカルト的な部分や、量子論の考えを一般人がきちんと理解するのは到底無理ですが、ピアース隊長たちが謎を解き明かす場面に読者として立ち会うことで、その内容を分り易く伝えてくれます。

大人の教養」といってしまうと大袈裟ですが、読者の知的好奇心を満たしてくれるかのようなストーリー展開は従来のスパイ小説には少なかった要素であり、むしろ本シリーズの本質はスパイ小説ではなく、SFや歴史ミステリーであるといえます。

一方でハードボイルド度はかなり低めで、よりエンターテイメントを意識したシリーズに仕上がっているのではないでしょうか。

ナチの亡霊(上)

ナチの亡霊(上) (竹書房文庫)

シグマフォース・シリーズの1作目「マギの聖骨」に引き続き、2作目「ナチの亡霊」を続けて読みましたのでレビューします。

タイトルから分かる通り、今回は"ナチス"を題材にしています。

ナチス党首のアドルフ・ヒトラーは、歴史・科学へ強い興味を持っていましたが、その中にはいわゆる"オカルト的"なものも含まれていました。

さらにナチス親衛隊(SS)の隊長であり、ユダヤ人の大虐殺を主導したヒトラーの右腕ともいうべき存在ハインリヒ・ヒムラーに至っては、その傾向がより一層強かった人物だといわれています。

そのヒムラー指揮の元で行われていた大規模な秘密研究のテーマに量子論があり、ヒムラー亡き後も密かに続けられていた量子論研究の結果、現代に強力な兵器が生み出されるという設定で物語が始まります。

実際に20世紀初頭には、有名なアインシュタインに代表される相対性理論と双璧をなす最先端の科学理論であり、量子論はドイツの科学者が発表したものであり、研究の最先端国でもあったようです。

そして人類の重大な脅威となる兵器の開発と使用を阻止すべく、再びグレイソン・ピアース隊長が活躍します。

しかも今回はピアース隊長の上司であり、シグマの司令官でもあるペインター・クロウ長官も最前線で活躍します。

若くてピンチを瞬発力で切り抜けるピアース隊長と、豊かな経験と忍耐力でピンチを切り抜けるクロウ長官の対比は、ともすると単調になりがちな長編スパイ小説の場面描写にメリハリを与えてくれ、著者のジェームズ・ロリンズ氏の綿密な小説技法が感じられます。

また前作と同様に絶妙なブレンドで織り込まれた最新の科学技術と歴史的な事実は今回も健在です。

シリーズ2作目に突入しても読者を惹きつける魅力がある作品です。

マギの聖骨(下)

マギの聖骨 下 (シグマフォース シリーズ)

私自身はキリスト教徒ではありませんが、"聖遺物"という言葉の響きには神秘的な印象を抱きます。


本書はドイツのケルン大聖堂で聖遺物として保管されている"マギの聖骨"がテロリスト集団によって盗まれ、そして大量の殺人が行われるところからはじまります。

マギとは"東方の三博士(三賢者)"ともいわれる新約聖書に登場するキリストの誕生を祝福したといわれる伝説の人物たちです。

そしてテロリストたちが聖遺物であるマギの遺骨を強奪したのは、金のためでもなく、まして宗教的な理由からでもありませんでした。

そこには過去の人類が発見し、そして失われてしまった現代の科学でも解明することのできない脅威のテクノロジーの鍵となり得るものが隠されていたのです。。。

本書はミステリー小説でもあるため、ここで謎の正体を書くのは控えますが、登場する人物たちも魅力的です。

グレイソン・ピアース隊長
率いるシグマフォースですが、同僚のモンク、そして女性隊員・キャットといったメンバーに加えて、ヴィゴーレイチェルといったイタリアやヴァチカン市国の美術遺産の保護部隊とタッグを組んで危機を乗り切り、そして大いなる謎を1つ1つ明かしてゆく過程には目を離せません。

本書を読んで感じたのは、この作品はアメリカ人作家でなければ書けない気がします。

言い方を変えれば、"ハリウッド"という存在を抱えた国の作家でなければ書けない作品であるともいえます。

アメリカならではのエンターテイメント要素が贅沢に取り入れられており、私がすぐに思いつくだけでも、本書には下記の要素がすべて含まれています。

  • TVドラマ「24」に代表される、時間と場所に制約を加えたスリリングな展開
  • TVドラマ「Xファイル」を彷彿とさせる超常現象へ対する科学的考察という切り口
  • 映画「ダ・ヴィンチ・コード」のように宗教の定説へ対する神秘的な異説の投げかけ
  • 映画「インディ・ジョーンズ」に代表される冒険アドベンチャー
  • 007」シリーズに代表される伝統的なスパイ小説の要素

本作品がアメリカでベストセラーになったのもうなずける内容であり、近い将来にハリウッドで映画化される可能性も高いのではないでしょうか。

マギの聖骨(上)

マギの聖骨 上 (シグマフォース シリーズ1)

今まで読んだことのない作家のスパイ小説を読んでみようと思い、本書を手にとってみました。

本書「マギの聖骨」は上・下巻に分かれていますが、2冊合わせてシグマフォース・シリーズ①という位置付けであり、本シリーズは4作品目までが日本語訳されて発売されているようです(各シリーズとも上下巻セットです)。

上下巻で完結するタイトルだと勘違いして購入してしまいましたが、せっかくなので3シリーズ分(合計6冊)を続けて読んでみる予定です。

作者はアメリカで1990年代後半から活躍しているジェームズ・ロリンズという新鋭の作家です。

巻頭には次のように書かれています。
小説の持つ信憑性は、話の中で提示された事実を反映するものである。「事実は小説よりも奇なり」という言葉はあるが、たとえフィクションであっても、事実を見据えた上で書かれる必要がある。本性に登場する美術品、遺跡、カタコンベ、財宝などは、すべて実在する。本性で紹介した歴史的事実も、すべて事実である。本書の中心となる科学技術も、すべて最新の研究と発見に基づいている。
どうでしょう?
とても挑発的な言葉であるとともに、著者の自信が伝わってきます。

シリーズ名にもなっているシグマフォースとは、特殊部隊の経験と技能、そして科学者の頭脳を併せ持ったメンバーからなるアメリカの極秘部隊という設定です。

いわば"銃を持った科学者"であり、主人公は最前線で部隊の指揮をとるグレイソン・ピアース隊長です。

非常に刺激的な設定ですが、とりあえず今回はシリーズ全体の紹介を行う程度に留めておき、下巻のレビューで具体的に作品の話に触れてゆこうと思います。

楡家の人びと 第1部

楡家の人びと 第1部 (新潮文庫 き 4-57)

有名な北杜夫氏の代表作。

本作品は3部作からなり、北氏自身が生まれ育った生家をモチーフにした楡家(にれけ)の壮大な年代記を描いた作品です。

舞台は明治の終わりの東京の青山脳病院(今でいう精神病院)から始まります。

青山脳病院は100人近い医師とその家族、そして300人以上の患者が入院している大きな私立病院です。

第一部はその病院を一代で築き上げ、そして北氏の祖父がモデルである楡基一郎(にれ・きいちろう)を中心に展開してゆきます。

基一郎、そして彼の3人の娘やその娘婿など、タイトル通り様々な楡家の人びとの視点を通じてストーリーが進んでゆきます。

分り易く例えるなら、アニメのサザエさんのように場面や1話ごとに主人公が交代してゆくかのような、家族ドラマのような展開と言ってもいいかもしれません。

そしてそこにはもう1つの冷静な視点、つまり著者である北氏自身の目線が加わることで、彼ら(彼女ら)の日常を鮮やかに描いています。

大病院の世帯だけあって、物語には多様で複雑な人間同士の関係が存在します。

誰もが皆、その一員として(良くも悪くも)精一杯生きてゆく姿は真剣そのものですが、そのコミュニティの中で権力者側として君臨する立場、そしてその権力に反発する者や追従する者といった、人間の悲しい性を浮き彫りにしてゆきます。

しかしながらそれは決して読者を不快にさせたりするものではなく、著者を通じて描かれる物語はユーモラスに富んだ内容であり、そうしたコミュニティの中で暮らしてゆく人びとの滑稽さを同時に描いているといえます。

かの有名な喜劇王・チャップリンが「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」という言葉を残したそうですが、この作品にもそうした雰囲気が色濃く漂っています。

また北氏が自らの生家を舞台にしただけあって完全なノンフィクションではないにしろ、完全に小説とはいえない妙なリアリティ感があります。

昭和を代表する小説の1つであり、機会があれば是非読んでほしい作品です。