名人
本書は囲碁の名人である本因坊秀哉(ほんいんぼう しゅうさい)と木谷實(きたに みのる:小説では大竹七段)七段との対戦を描いた小説です。
作者の川端康成は秀哉名人とかねてより交流があり、この観戦記を新聞へ連載していた経緯、名人が熱海の旅館で急死した際にもたまたま同じ熱海に滞在しており、結果的に名人と将棋を指した最後の相手となった縁、そしてその死顔を写真に収めたという深い関係が2人の間にありました。
私自身"将棋"は分かりますが、"囲碁"に関してはルールを含めて殆ど知識はありません。
将棋に関してのノンフィクションやインタビュー作品は何冊か読んだ経験があり、囲碁のプロも将棋と同じく"棋士"と呼ばれるからには、やはり同じように厳しい勝負の世界を生き抜く人たちであることは想像できます。
川端康成は将棋や囲碁を好みましたが、あくまでも愛好家止まりであり専門家ではなかったようです。
そのため本書に書かれている観戦記は譜面の解説を最小限度に抑えており、秀哉名人を中心とした大竹七段の挙措や印象、対戦会場の張り詰めた雰囲気の描写が中心になっているノンフィクションに近い作品という印象を受けます。
名人との関係を考えると本作品を執筆するのに川端康成以外の適任者は他にいなかったでしょうし、川端にとっては義務感に近い心境で筆をとったのではないでしょうか。
この対戦は高齢となり体調が優れない秀哉名人にとっての引退碁であり、さらに"本因坊"という名跡は戦国時代から脈々と受け継がれてきた"囲碁"の代名詞ともいえる重みのあるものだったため、この対戦は当時(昭和13年)世間の大きな注目を集めたようです。
しかも途中で秀哉名人が体調を崩し入院したことや、当時の特殊なルールなどの影響で驚くべきごとに半年に渡って対戦が続けられたのです。
順を追うと作品ではまず名人の死の場面が書かれ、それから引退碁を振り返る形になっています。
名人の引退碁からその死まではわずか2年足らずの出来事であり、本書に書かれているような苛烈な対戦が名人の死期を確実に早めたという確信を川端康成は持っているのです。
そうした意味で本書に描かれている本因坊秀哉の姿は、人生すべてを囲碁に捧げた名人の集大成の対戦であり、それ故に確実に死へ向かってゆく孤独と悲哀が漂ってくるのです。