箱根の坂(下)
北条早雲の生涯を描いた歴史小説「箱根の坂」もいよいよ最終巻です。
早雲は当時としては驚異的な90歳近くの長命を得ましたが、彼の足跡を辿ってみると、まるで自らの寿命を知っていたかのように物事を成し遂げてゆきます。
歴史上に登場した時から彼の足跡を年齢と共にざっくりとまとめてみると以下のようになります。
- 義妹である北川殿の要請で駿河へ下向する(45歳)
- 今川範満を倒し、氏親を今川家当主に就けることに成功する(55歳)
- 伊豆討ち入りを決行し、伊豆を所領に加える(61歳)
- 小田原城を奪取する(63歳)
- 立河原の戦いで山内上杉家を破り相模の地盤を確かなものとする(72歳)
- 三崎城に篭もる三浦氏を滅ぼし相模一国を平定する(85歳)
これだけ見ても早雲は、たとえば織田信長や武田信玄のように武力を頻繁に用いて勢力を拡大するようなことはせず、慎重に時が熟するを待ち、強引に事を進めることを嫌った性格であったことが推測できます。
仮に早雲の寿命が織田信長と同じ49歳だったとしたら、彼は名は歴史の中に埋もれてしまったに違いありません。
さらに早雲は、その優れた内政手腕でも知られています。
四公六民という他国よりも2割~3割も安い税率で農民たちの生活を安定させ、一致団結した家臣団を築き上げた早雲の実績は、むしろ軍事的な才能よりも評価されてもよいかも知れません。
それを著者の司馬遼太郎氏は、あとがきで次のように言及しています。
早雲の小田原体制では、それまでの無為徒食の地頭的存在をゆるさぬもので、自営農民出身の武士も、行政職も、町民も耕作者も、みなこまごまと働いていたし、その働きが、領内の規模のなかで有機的に関連しあっていた。早雲自身、教師のようであった。
士農へ対し日常の規範を訓育しつづけていた。このことは、それまでの地頭体制下の農民にほとんど日常の規範らしいものがなかったことを私どもに想像させる。早雲的な領国体制は、十七世紀に江戸幕府体制が崩壊するまでつづくが、江戸期に善政をしたといわれる大名でも、小田原における北条氏にはおよばないという評価がある。
源平時代の源義経、明治維新で活躍した坂本龍馬はともに31歳で人生を終えていますが、彼らのように若さから来る情熱や勢いで物事を成し遂げることも大切ですが、早雲のように腰をじっくりと据え一生を使って何事かを成し遂げる姿勢は、現代人にも共感できると思います。
早雲はたとえ平凡な人生を歩んできても意志さえあるのなら、「未来は何歳になってからも変えられる」ことを証明した人物でもあるのです。