何でもない話
遠藤周作氏による短編集です。
はじめに本書に収められている作品を紹介します。
- 何でもない話
- 姉の秘密
- 動物たち
- 爪のない男
- 恐怖の窓
- 猫
- 気の弱い男
- 尺八の音
- 知らぬが仏
- お母さん
200ページほどの文庫本に10本もの作品が収められていることを考えると、それぞれの作品はショートショートに近い文量です。
また全体的に地味なタイトルが多く、意識して読者の目を引き付けるような試みも見られません。
加えて遠藤氏の代表的な作品には長編小説やエッセーが多く、本書のような短編小説はそれほど多くはありません。
つまり遠藤周作氏の作品が好きな私もそれほど期待せずに本書を手に取りましたが、その予想は早くも最初の作品から良い意味で裏切られます。
むしろ近年読んだ短編集の中でも指折りの傑作と断言してもよい1冊です。
遠藤氏の代表的な長編小説では「罪」、「命の尊さ」といったテーマを独自のキリスト教的な視点で描いた重厚な作品が多いのですが、本書では同じテーマへ対して、短編ならではの軽快なフットワークで挑んでいます。
それでいて読書後の何とも言えない余韻は、長編の時と同じように残ります。
その他にも怪奇現象、動物、また医療を題材にした作品など、ファンであればいずれも遠藤氏がエッセーなどで話題にするテーマであることに気付くでしょう。
限られた紙面ということもあり、歴史上の偉人や、数奇な運命を辿った架空の主人公といった大掛かりな設定は一切使用せず、ありふれた日常の風景をディティールにこだわり鋭く切り取ったかのような作品は、まさしく正統な短編小説であると感じます。
オールド・ルーキー
メジャーリーグ史上最年長の35歳でデビューしたジム・モリスの実話を基にした同タイトルの映画を知っている人も多いと思いますが、本書はそのジム・モリス本人が執筆した自伝です。
ジム・モリスは自身のことを無口な性格であり、自分から会話を始めることが少ないと紹介しています。
彼の生まれたのは西テキサスのブラウンウッドという小さな町であり、何百キロも離れた小さな町々との間は灌木の茂みしかない荒野の広がるアメリカの典型的な田舎で生まれました。
試しにGoogleマップで西テキサス郊外の風景を確認すると、殺風景な土地と空の境目にある地平線に向かって延々と道路が伸びてゆく様子を見ることができます。
母は若くして結婚してジムを出産しましたが、父が海兵隊であるため家に不在にすることが多く、勤務先(基地)が転勤となる機会も多かったため、学校に入学してからも転校を繰り返す少年期を過ごしました。
そのため仲の良い親友を作る機会に恵まれず、自分にとっての一番の親友はスポーツだったと振り返っています。
運動神経抜群の少年が、転校先ですぐにスポーツを通じて受け入れられるのはアメリカでも共通であり、野球やフットボール、バスケットボール何をやらせても上手だったことが、口数の少ない少年にとって強力な処世術となりました。
それでもジムにとって最も好きだったのは野球でしたが、彼がハイスクール時代を過ごしたテキサス州ブラウンウッドではフットボールが盛んな地域ということもあり、野球シーズンは年間で十数試合しか開催されず、ジム自身も主にフットボール選手として活躍することになります。
それでも野球のサマーリーグで活躍した姿をブルワーズのスカウトに見出され、ドラフト指名されるという運命に巡り会います。
ジムはその話に飛びつきますが、後になって振り返ってみれば、それは必ずしも彼にとって幸運な出来事とは言えないものでした。
野球選手として経験の少ないジムは、経験豊かなコーチに指導された経験が少なく、また社会人としても未熟でした。
いきなり苛烈な競争が繰り広げられる教育リーグに放り込まれ、精神的な未熟さからストレスに晒され、また肘を故障するという不運に見舞われます。
結局ジムはメージャーはおろか、3A、2Aにさえ1度も昇格するなく、結婚し子どもが生まれ家計を安定させる必要性からも24歳で野球を諦めざるをえなかったのです。
メジャーリーガーは日本のプロ野球選手の何倍もの報酬を手にすることができますが、それは一般的に7つと言われるピラミッド階層の頂点に立つ一握りのメジャーリガーのみに許された特権であり、日本プロ野球とは比べ物にならない"狭き門"であることも現実なのです。
華麗に活躍するメジャーリーガーたちの裏では、その何倍もの野球選手が脱落する厳しい世界であり、若き日のジムもその1人に過ぎなかったのです。
ジムは職を転々としながら大学で学位を得て、やがて高校の教師とスポーツコーチとしての職業を得ることになります。
やがてハイスクールで野球チームを率いるようになったジムは、子どもたちのやる気を鼓舞するために、プレイオフに進出したらメジャーリーグのトライアウトを受けるという、成功の可能性が限りなくゼロに近い約束を取り交わした頃には、30代半ばになっていたのです。
そこから先は本書を読んでのお楽しみですが、彼がメジャーリーガーとして成功するまでの人生を振り返る時、その道は決して平坦ではなく、むしろ厳しいイバラの道であったことが分かります。
人は誰でも「夢」を見ますが、それを現実にかなえることのできる人はごく少数です。
傷つき多くのものを犠牲にし、それでも夢を追い続けることを強制することは誰にも出来ませんが、夢を諦めないジム・モリスの姿が多くの人たちへ希望を与え、自分がその象徴的な存在であることを誰よりも自覚しているからこそ、本書を執筆したのです。
彼の物語は、厳しい競争が繰り広げられるスポーツの世界で起きた奇跡として、これからも語り継がれてゆくでしょう。
アキハバラ@DEEP
TVドラマ、映画、マンガと各メディアに展開された石田衣良氏の代表的な長編小説です。
私はそのいずれも目を通していないため、今回読む原作が本作品に触れるはじめての機会になります。
連載された時期が2002~2004年ということもあり、当時のアキハバラ(秋葉原)の雰囲気が作品全体から伝わってきます。
その頃は私もPCを自作していたこともあり、秋葉原で掘り出し物を探すためにパーツショップを回った経験があります。
今や当時の店の多くが閉店してしまい、また大規模な再開発によって次々と老朽化したビルが近代的なビルに生まれ変わりつつあり、雑多でアングラな雰囲気が失われつつあることは個人的に残念です。
それでも秋葉原が"オタクの聖地"として賑わい続けていることに変わりありません。
話が少し脱線しましたが、ストーリーはページ、ボックス、タイコをはじめとした6人の若者たちが集まって会社を設立するところから始まります。
彼らはそれぞれの分野で優れたスキルを持っていますが、一方で外見または内面的なコンプレックスを抱えており、そのため社会に順応できない日々を過ごしていましたが、偶然あるサイトで出会うことによって結束力の固いチームの一員として再出発することになります。
ある意味で彼らは"オタク"の典型であり、一般的なコミュニケーションが苦手な若者だったのです。
やがて彼らは苦心の末に画期的な検索エンジン「クリーク」を開発しますが、その可能性に目をつけた巨大IT企業デジタルキャピタル率いる中込威の魔の手が迫ってきます。。
若者たちの葛藤を描く青春小説としての手法、ストーリーに起伏を持たせテンポよく進めてゆく石田氏の実力は本作品でも充分に発揮されており、あっという間に読めてしまう長編小説に仕上がっています。
また本作品を執筆するにあたって"秋葉原"、"インターネット"、"コンピュータ"、"オタク"といったキーワードへ対し充分に下調べをしてきた作家としての真摯な姿勢も垣間見られます。
ただ少し気になった部分として、はじめからドラマや映画化を意識して創作されたせいか、物語のクライマックス、そして大団円に向かって一直線に物語が進行し過ぎている傾向があります。
つまりもう少し本筋とは関係ないサイドストーリーを掘り下げてゆけば、奥行きのあるより良い小説になったと思いますが、このままでもエンターテイメント作品としては充分に楽しめるでしょう。
勇気ある言葉
遠藤周作こと狐狸庵山人が、古今東西のことわざ、名言、格言を自由(自分勝手?)な解釈でエッセーに仕立てた1冊です。
たとえば著者自身はカトリック教徒であるにも関わらず、こんな珍解釈を持ち出してきます。
右の頬を打たれたならば左の頬をさしだせ(聖書)
聖書の言葉は、右の頬を打たれれば、我慢しろ。相手がそれは衝動的にやったからである。しかし左の頬を差し出して相手のドギモをぬくか、正々堂々の喧嘩を挑めと言っているのではないだろうか。もちろん、聖書には相手を撲りとばせとまでは書いてないが、撲りとばすなとも書いていないところがまた面白い。
とにかく、右の頬を打たれた時、左の頬をさしだすのはイヤ味にして偽善的な行為である。聖書がかかるアーメン、ソーメン的イヤ味をすすめるはずはない。
もちろん冗談ではあっても、一面では無礼な相手に不当な侮辱を受ければ怒るのは当たり前であるという真実をも明らかにしているわけです。
その他にも「便秘は女の敵」、「ヘンな外人」といった名言でも格言でもないものまで解説しているところも狐狸庵山人の愛嬌といえます。
こうした冗談混じりのエッセーだけでなく、時には死刑制度、そして著者自身がのちに一貫して主張することになる医療問題に対してもテーマに取り上げています。
また著者は戦中派ですが、少なくとも同世代の80%は戦争はもうコリゴリだと考えているはずであるが、この反戦的な感情は悲惨な体験や感情から来る受身的なものであり、人道的な理念における反戦思想ではないと指摘しています。
極端に言えば戦争の被害感情が消えれば、その反戦主義も消えるかもしれない危ういものであると指摘しています。
普段はニコニコしている温厚な老人が、ふとした瞬間に鋭い目つきに変わり鋭い一撃を加える、まるで拳法の達人のような老師的雰囲気が狐狸庵山人にはあるのです。
イエスの生涯
カトリック教徒である遠藤周作氏は、日本人にとってのキリスト教文学を追求し続けた文学者です。
雅号として狐狸庵山人を名乗り、数々のユーモア溢れるエッセーを執筆したことでも知られていますが、やはり遠藤周作の本質はキリスト教文学にあるといってよいでしょう。
タイトルから分かる通り本書はイエス・キリストの生涯をテーマにした本ですが、遠藤氏が得意とする歴史小説ではなく、伝記形式で執筆されています。
私自身はキリスト教徒ではないこともあり、聖書をきちんと読んだ経験がありません。
そもそも聖書にはイエスの言行録としてマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人の手による福音書が収められていますが、その成立時期や内容にもばらつきがあるため、そこからイエスの生涯を体系的に知ることは困難です。
さらに聖書の中からイエスの生涯を"事実"として知ろうとすれば、創作、もしくは矛盾する記載があることは多くの聖書学者が認めているところですが、聖書はキリスト教にとってたとえ"事実"ではなくとも"真実"であるため、その内容を書き換えることは許されません。
そこで著者はイエスの人物像、歴史、時代背景から、諸説ある中から妥当と思われるものを採用し、空白の時間を推測によって埋めてゆき、何より聖書から伝わってくる人間イエスの生き生きとしたイメージを大事して執筆しています。
ガリラヤ地方ナザレで大工を生業とする、ごく普通の顔だち、服装をした、当時の多くの人間と変わらない姿をしたイエスが登場するところから伝記が始まります。
やがて無抵抗のまま十字架の上で息絶え、そして復活するまでの軌跡が本書から生き生きと伝わってきます。
本書は日本を代表する文学者によって書かれた作品に相応しく、各国でも翻訳され世界中で評価されているようです。
学・経・年・不問
城山三郎氏といえば実在した起業家、商社マン、官僚などをモデルとした経済小説家として知られていますが、本書はセールスマンを題材とした完全なフィクション作品です。
作品には高校からの同級生、伊地岡勇と野呂久作という2人のセールスマンが主人公として登場します。
伊地岡は典型的なセールスマンであり、靴底を減らして足で稼ぐエネルギッシュでせっかちな性格です。
一方の野呂は出世や営業成績といったものに頓着しない、一見すると営業マンとしての適性が疑われるような、のんびりとしたマイペース型の人物です。
この正反対の2人は、ひょんなことから前職を辞めざるを得ない状況に陥り、同じ会社でベッドのセールスマンとして再出発します。
ちなみに本作品は1960年代に発表されており、ベッドが普及し始めた時代という背景があります。
セールスマン(営業職)といえば、今でもサラリーマンの代表格であるといえます。
彼らは自社の商品やサービスを売るのが仕事であり、最前線で戦う企業戦士といったイメージがあります。
一方でセールスマンには、"営業成績(=売り上げ)"という分かりやすい評価基準がついて回り、その優劣がハッキリと分かります。
つまり営業成績さえ優秀であれば、学歴や経験、年齢すらも関係なく評価される職業なのです。
もちろんこれは本質的な話であり、現実には必ずしも当てはまらない場合もありますが、それでもセールスマンを評価する重要な指標であることには変わりありません。
そんなセールスマンの姿を、まったく正反対の性格を持つ2人のセールスマンを通じて描いた作品であり、そこには彼らの喜怒哀楽が凝縮されています。
どちらかといえばシリアスな作風を持つ城山氏にしては、珍しいほどユーモラスに作品が描かれています。
そこには一癖も二癖もある人物が次々と現れ、何よりも主人公の2人が強烈な個性を持ち、それぞれのやり方で悪戦苦闘しながら成長してゆく姿が描かれています。
"営業の極意"、"トップセールスマンの条件"のような題名のビジネス本が巷の本屋で並んでいますが、ひょっとしたら多くの経済人を丹念に取材してきた城山氏の小説から得るものの方が多いかも知れません。
そしてセールスに関わる人でなくとも、小説として純粋に楽しめることを保証します。
アンダースロー論
著者の渡辺俊介氏は、2001年から2013年まで千葉ロッテマリーンズに所属していたアンダースロー投手です。
ピッチャーといえば日本ハムファイターズの大谷投手のように、160キロを越えるような豪速球が話題になりがちですが、渡辺投手が現役時代に投げていた球速は最速でも130キロそこそこであり、緩急をつけることで時には95キロという小学生ピッチャー並みのボールを投げることもあります。
それでも日本プロ野球ではエースと呼ぶに相応しい15勝を挙げた年もあり、通算87勝を記録しています。
渡辺氏はスピード、パワー、つまり身体能力は平凡であり、練習熱心ではあったものの中学、高校、大学においても常に2番手ピッチャーという評価でした。
そんな著者がアンダースローに転向したきっかけは、中学生の頃に野球コーチでもあった父親のひと言です。
「もし高校、大学と野球を続けたいのならば、このままやっていても厳しいから、アンダースローにしてみないか」
息子の能力の限界を冷静に判断した父親の助言ですが、この言葉が大学や社会人はおろかプロ野球選手として活躍するきっかけとなるのは誰も予想していませんでした。
本書は著者がもっとも投手として充実していた2005年に刊行されており、ボールの握り方や投球フォームなどに対して新書としてはかなり専門的に言及しています。
また技術のみならず日常におけるコンディショニングやマウンドで意識していることなど、第一線の現役選手がここまで明らかにする例は多くありません。
そこにはアンダースロー投手が「絶滅危惧種」と言われるくらい希少な存在である現状の中で、著者がプロ野球の世界でもっと多くのアンダースロー投手に活躍して欲しいという願いが込められています。
ちなみに去年(2015年)のシーズンで活躍したアンダースロー投手は、西武の牧田投手とヤクルトの山中投手の2人しかおらず、その希少価値は今でも変わりません。
私自身が西武ライオンズファンということもあり牧田選手の投球を間近で見たことがありますが、両腕を翼のように広げ、ヒザに土が付くほど折り曲げ、地面すれすれに伸びてゆく手からボールが放たれる投球フォームは、なんとも言えない美しさがあります。
またオーソドックスなオーバスロー投手ではあり得ない下から上に浮き上がる軌道やボールの出どころが見づらい独自のフォームで強打者を抑えるシーンは、球速ではなく技術で相手を打ち取る"職人"のようなカッコ良さを感じます。
このアンダースロー投手はMLBでは更に希少価値が上がり、メジャーリーガーに耐性がほとんど無いことからWBCといった世界大会でも重宝され、著者の渡辺投手、牧田投手はともに日本代表としても活躍した経験を持ちます。
スピードとパワーを兼ね備えた投手が豪傑タイプであるならば、技術と知恵で厳しいプロ野球の世界を生き延びるアンダースロー投手は智将タイプであり、そこには野球選手のみならず、社会を生き抜くヒントが隠されているように思えるのは私だけでしょうか。
アイム・ファイン!
日本を代表する作家浅田次郎氏のエッセーです。
本書はJAL機内誌「SKYWARD」で連載されているエッセーを文庫本として刊行したものです。
読者の多くが旅行者であることも関係して、その内容は著者自身の海外体験記が比較的多いようです。
著者は大人気作家だけあって何本もの連載を掛け持ちし、その必然の結果として締め切りに追われる忙しい日常を過ごしているようです。
それでも根っからの旅行好きであり、締め切りの合間を縫うようにして取材旅行、時には趣味のための旅行へ出かけてゆきます。
趣味はもっぱらギャンブルであり、ラスベガスでは常連かつVIP待遇という身分であり、国内旅行でも行く先は競馬場が多いようです。
またファンたちを集った中国の旅行ツアーでは自らガイドを務めるなど、その旅行のほとんどは休養目的ではなく精力的な活動のために費やされています。
旅先で見かけた変わったアメリカ人や中国人を観察する著者の視点はあくまでもユーモラスであり、その中にさり気なく文化論を展開するところなどは、単純なおもしろエッセーとはひと味違うところです。
一方で自らのハゲ頭や増加してゆく一方の体重など、自虐的なネタもエッセーにしています。
自分のハゲ頭やデブといった何でもない話題で読者を喜ばせると同時に、これを読んだ中高年たちがいつの間にか励まされるような文章は浅田氏ならではです。
機内誌で連載されたエッセーということもあり、旅行のお供に携帯してリラックスしながら読むことをお薦めします。
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