山本五十六 (下)
前回に引き続き、阿川弘之氏の「山本五十六」を紹介します。
文庫本にして900ページにも及ぶ長編ですが、上巻では山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して日米開戦の可能性が濃厚になる時期まで、そして下巻では日米開戦直前(昭和16年初頭)からソロモン諸島で戦死するまでを扱っています。
時間軸でいえば下巻で描かれている山本五十六の生涯は2年少々であり、密度の濃い内容になっています。
周知の通り山本は、米内光政、井上成美らとともに日米開戦に反対の立場をとり続け、日独伊の三国同盟へ対しても強固な反対を唱え続け、右翼から「天ニ代リテ山本五十六ヲ誅スル」といった調子で命を狙われ続けました。
一方で暗殺の危険性が迫っても本人は気にする素振りも見せず、部下に行き先も告げずに外出するといった有様で、さらに右翼指導者の中にも山本を尊敬する人がいたというのは彼らしいエピソードです。
また開戦前に近衛首相から見通しを問われた際の有名なエピソードに次のようなものがあります。
「それは是非にもやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧に入れます。しかしそれから先のことは全く保証出来ません」
これを戦略家として日米開戦の結末を冷静に分析し、いざ開戦となれば渾身一滴の博打めいた真珠湾攻撃を成功させた優秀な提督として積極的な評価をすることが出来ます。
一方で連合艦隊司令長官という立場で反対し続けた日米開戦を承知し、ミッドウェー海戦においてすべての空母と多くの戦闘機を失い敗れたという消極的な評価の二通りがあります。
しかし所詮は誰を偉人や英雄として評価するかは主観的な見方に過ぎず、本作品などを通じて1人1人が判断すべきものです。
私自身の評価は、山本五十六は日露戦争にも参加した根っからの優秀な軍人であったということです。
またその出発点は彼の出生に遡ることが出来ます。
彼の郷里・長岡悠久山堅正寺の橋本禅師は山本の師匠でもありますが、彼のことを次のように評しています。
「机をはさんで対座していると、机の上に五臓六腑ずんとさらけ出して、要るなら持っていけというような感じがあった」
と言い、
「しかし、ある意味では、正体のつかめない人間、ふざける時にはいくらでもふざけるし、一方質実剛健、愛想無しで、底の知れないという、長岡人の典型のような男で、突然ひょいとあんな人物は出て来るものではない。長岡藩が、三百年かかって最後に作り出した人間であろう」
戊辰戦争において長岡藩は朝敵として薩長藩に敗れ、養祖父、祖父はその時に殺され、父、長兄、次兄は負傷します。
その時味わった苦労を山本五十六自身も背負い続け、海軍を志した後も軍人として活躍することで郷里の人々の無念を晴らそうという気概があったはずです。
現に山本は朝敵として討伐された長岡藩の家老・河井継之助を尊敬していました。
また彼自身はひょうきんな一面を持っていたものの、基本的には寡黙な性格で自らを軍人として定義付け、政治家を志そうとは1度も思いませんでした。
よっていったん聖断(つまり陸海軍を統帥する天皇の判断)が下れば、内心はどうあれ批判を口に出すことは避け、軍人として最善を尽くしたのです。
本作品は色々な側面から山本五十六を眺め、そこから等身大の山本五十六を浮かび上がらせた上質な伝記なのです。