2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?
2007年に出版された"2ちゃんねる"の管理人ひろゆき(西村博之)氏の著書です。
インターネット業界は他業種より技術やサービスの変革が激しく、かつてドッグイヤーと評されることがありましたが、その変化の早さは今も変わりません。
だからインターネットに関する約10年前の本を読むことに意味が無いのではないかと問われれば、明らかに答えは"ノー"です。
本書のタイトルにもなっている"2ちゃんねる"は10年前も今も、国内最大の掲示板サイトであり続け、未だにその影響力も大きいのが現実です。
本書に限らずひろゆき氏の発言を拝見する限り、簡単に世論や昔からの慣習といったものに迎合せず、つねにロジカルに考えて物事の本質を突くことがあり、その点ではホリエモンこと堀江貴文氏と共通するものがあります。
"2ちゃんねる"の特徴はSNSと違って匿名という点であり、それだけに過激な発言が書き込まれることがあります。
それだけに誹謗中傷、名誉毀損、差別発言の撤回を求めて裁判が行われることもしばしばです。
また発信元が特定されていないという点で情報の真偽も玉石混交ですが、何と言っても他に類を見ないユーザと書き込み数を誇る"2ちゃんねる"は10年前も今も変わらず需要があり続け、イコール欠かせないサービスであり続けるのです。
仮に法的な強制力などで"2ちゃんねる"が潰れることがあってもその需要が無くなることはなく、似たような他のサービスが生まれるだろうという著者の指摘はまったくその通りだと思います。
またCGM(ユーザがコンテンツを生成する仕組み)や、セカンドライフ(仮想空間を提供するサービス)といった既に姿を消してしまったワードが登場する点は、10年という時代の流れを感じる点です。
また著者は元々が技術者(エンジニア)であるため、CPUをはじめとしたハードウェアの進化にも言及していますが、現在はハードウェア本体を用意することなくサーバを利用できるクラウド型サービスが普及し、10年前の予想とは違った方向へ進化しています。
また10年前には動画サービスがビジネス的な収益を上げることが難しいと考えられていましたが、ここ2年くらいで一気に伸び始めた有望な分野になっています。
本書の中で10年後の現在を適切に言い当てられているのは正直半分くらいだと思いますが、これはあくまでも表面的な出来事にしか過ぎません。
インターネットを扱う人間自体が10年程度で大きく変わることはなく、本書に収められている小飼弾氏との対談にあるように、彼らにとって一般的な日本人は思考停止しているように見えてしまい、「思考停止のやり方が分からない」というひろゆき氏の考える新しいインターネットの未来像は、今なお日々変わり続けているに違いありません。
一路(下)
突然に父親を失い、家伝の「行軍録」のみを頼りに、参勤交代の大役を果たそうとする主人公・小野寺一路。
彼は頭脳明晰、剣の腕も一流という評判ですが、いかんせん19歳という若さということもあり、実務経験のまったくない世間知らずの若者です。
しかし江戸時代では能力や経験よりも世襲、つまり筋目がもっとも重要視される社会であり、それでも一路は役目を果たさなければなりません。
これを現在に例えるなら、大学を卒業したばかりの新卒社員がいきなり部長に抜擢されるようなものです。
それでも懸命に役目を果たそうとする一路に、少し変わった仲間たちが彼を手助けをしてくれます。
それは和尚、易者、髪結、馬喰など市井の人々、さらに年下の気弱な侍、戦国時代から出てきたような猪突猛進型の侍といった、権威や貫禄は足りなくとも、いずれもひと癖あるキャラクターばかりです。
そして本書ではもう1人の主人公といえるのが、彼らの頂点に立つ殿様・蒔坂左京大夫です。
美濃田名部七千五百石の領地において権力の頂点に立つ人物であり、殆どの大名がそうであったように好き嫌いの感情を表に出すことや、身分の低い者と軽々しく口をきくことは望ましくないとされてきました。
実際、左京大夫自身が命令せずとも領地は家臣たちが滞りなく運営してくれるため、命令する必要さえ無いというのが現実でした。
中山道を上京する中で数々の困難を乗り越えるうちに、一路だけではなく、この左京大夫もともに成長してゆくという点が本書の醍醐味です。
さらにストーリーが後半に入るに従い、事故無く普通に参勤交代を果たすだけでなく、一部の家臣たちが密かに企てている陰謀を食い止めるために、意識せずこの2人がタッグを組み、また彼らの仲間たちも獅子奮迅の働きをします。
小さいとはいえ一国を揺るがしかねない危機であり、普通に考えればシリアスな雰囲気にならざるをえないのですが、浅田次郎氏はこれをエンターテイメント型の時代小説として書き上げています。
もちろん登場人物それぞれの立場から描かれる浅田氏ならでは人情物語も健在です。
一路(上)
江戸時代という250年に及ぶ天下泰平の時代が続きますが、その平和を支えてきた重要な要素が完成度の高い封建制度です。
その封建制度の中核が将軍を頂点とした上下関係であり、とくに武士の階級においては絶対的な力を持ちました。
中でも参勤交代は、全国の大名が江戸の将軍へ対して忠誠を示すための重大な義務でした。
本書はその参勤交代を題材にした浅田次郎氏による軽快な時代小説です。
封建制度の要である身分制度は、単に上下関係を決めて法律化するだけでは足りず、上に立つもの(将軍や殿様)を権威付ける細やかな儀式や慣例が欠かせないのは、世界の東西に関わらず共通のものです。
たとえば殿様が身軽な服装で1人で上京したのでは何の権威も生まれず、参勤交代の効力は発揮できません。
つまり"大名行列"という大勢のお供を引き連れた盛大な演出が欠かせないのです。
本書の主人公は、美濃国田名部藩7千5百石の旗本である蒔坂左京大夫の元で参勤交代の責任者(御供頭)を代々勤める小野寺一路です。
この一路は一度も領地を訪れた事のない江戸住みの若干19歳の身であり、父の弥九郎が屋敷の失火で亡くなったために突如、その重責を担うことになります。
身分制度を円滑に維持する上で能力ではなく、世襲によって役職を継ぐという点も封建制度の特徴であるといえます。
ただし一路は若いこともあり、父親から肝心の御供頭としての心得や引き継ぎをまったく受けておらず、奇跡的に焼け跡から発見された2百年以上も前に先祖が書き遺した家伝の「行軍録」のみが唯一の手がかりという状態です。
参勤交代の旅程において不手際があれば、小野寺家の家名断絶を免れません。
果たして一路は、この窮地を乗り越えられるのか?
封建制度という細かい制度が幅を利かす江戸時代は、歴史に精通した著者にとって格好の舞台装置であり、痛快な物語が幕を開けます。
あんぽん 孫正義伝
少なくともここ半世紀において、孫正義ほど日本で成功した起業家はいません。
10兆円に迫る売上高を誇るソフトバンクグループを率いる孫正義の軌跡や経営哲学をテーマにした本は数多く出版されていますが、今まで彼に関する本を手に取った機会がありませんでした。
本書は作家である佐野眞一氏が、孫正義のルーツに迫ったノンフィクション本です。
この400ページにもなる分厚い本を開く前には、孫正義のルーツに迫りつつも、起業に至るまでの過程、米ヤフーと合弁でヤフー株式会社を設立し日本の黎明期のインターネットを牽引し、J-PHONEや球団の買収などなど、数々のエピソードが満載されている本といった勝手な想像をしていました。
しかし実際に読み進んでゆくと、佐野氏は"経営者としての孫正義"ではなく、どこまでも"個人としての孫正義"に迫ってゆく方針であることが分かってきます。
そもそもプロローグで著者は次のように言い切っています。
私が孫正義という男について書こうと思ったのは、彼のデジタル革命論に興味を持ったからでもなければ、彼のコンピュータ文化論に共鳴したからでもない。そんなことは、新しいもの好きのIT評論家にまかせておけばいい。
孫正義のルーツに迫ってゆこうとすれば必然的に彼が在日三世であることに言及する必要があり、そこにこそソフトバンクグループを築き上げた源泉、そして今もトップとして君臨する彼の経営方針や発言のバックボーンが見えてくるといったアプローチをとっている点がポイントです。
孫は佐賀県鳥栖市の無番地、すなわち朝鮮部落のバラックで生まれました。
当時、密集したバラックに住む朝鮮人たちは、おもに養豚と密造酒で生計を立てていました。
住居と豚小屋が続いてる構造のため部落全体からは異臭が立ち込め、その脇を流れるドブ川は大雨が降ると溢れ出し、バラックを水没させてしまうような劣悪な環境でした。
そこから孫の父・三憲は、密造酒で稼いだ資金を元にサラ金を始め、やがて九州で最大のパチンコチェーン店を展開するまでに至ります。
バラック住まいから一躍大金持ちになった三憲は、それを才能に恵まれた正義に惜しみなく投資し、彼のアメリカ留学、そして企業資金を支えるまでになります。
ただし在日韓国人の父親がにわか成金になったおかげで孫正義が誕生したのか?と問われれば、それが明確に"ノー"であることは本書を読めば分かります。
そこに至るまでには、かつて朝鮮では名族として知られ、やがて没落して困窮のため日本に渡ってきた一族の3代に渡る壮大な物語がバックボーンとして横たわっています。
祖国を捨て新天地の日本でも差別と貧困に苦しみ、時には骨肉の争いも辞さない強烈な喜怒哀楽の歴史が、孫正義という人格の中に濃縮されているといえます。
正義の父(孫家)、そして母方(李家)の親族やその故郷を丹念に取材し、血のルーツを探ることによって、稀有な世界的起業家となった孫正義の生まれた理由に迫っており、こうしたアプローチで伝記を執筆するのは極めて珍しく、それだけに新鮮なインパクトを受ける1冊です。
カカシの夏休み
やや抽象的ですが、努力が"報われる"か"報われない"かが議論になることがあります。
私自身はそれほどこの結論に興味はありませんが、いずれにしても人が生きてゆく上で重圧に苦しむような場面に出会うことだけは確実です。
それは家庭や職場、学校でぶつかる難題や人間関係であったり、自身の健康問題、ひょっとして親しい人の死であるかもしれません。
本書はそんな人生の壁にぶつかった人たちの物語をテーマにした3編の作品が収められています。
- カカシの夏休み
- ライオン先生
- 未来
この3作品に共通しているのは学校が舞台として関わっている点であり、はじめの2作品は教師、3作品目は学校を中退した少女が主人公です。
また主人公たちに共通しているのは、特別に優れた能力や恵まれた立場を持っていない、ごく一般的な人たちである点です。
タイトル作の「カカシの夏休み」では、クラスの問題児の扱いに手を焼いている時期に、故郷の旧友が交通事故で亡くなるという訃報が主人公である男性教師(小谷先生)の元へ届きます。
30代後半にさしかかり中堅という立場にありながらも、1人の生徒と向かい合う中で改めて教師としての資質や方向性に悩む主人公でしたが、葬式をきっかけに久しぶりに出会うかつての同級生たちは、いずれも自分と違う形でそれぞれの重圧の中で戦っていることに気付きます。
そして主人公たちのかつての故郷はダムの底に沈んでしまい、帰るべき思い出の場所は既にありません。
バイタリティのある人はひたすら未来に向かって進み続けますが、多くの人たちは困難にぶつかった時に、ふと楽しかった頃の過去を振り返らずにはいられません。
そして二度と戻れない過去であることは分かっていても、振り返ることで再び前進するきっかけを掴むことも出来ることもあるのです。
本書は普通の人たちが日々の中でぶつかる困難へ対して、無器用に1つずつ乗り越えてゆく過程を描いている物語であり、だからこそ多くの読者の共感を得ることが出来るのではないでしょうか。
各ストーリーの主人公たちを見ていると、たとえ読者が抱えている問題解決のヒントにはならくとも、気分を和らげてくれるハズです。
高熱隧道
北アルプスの北部に位置する黒部渓谷。
そこは深い谷と急峻な崖に囲まれ、人はおろか猿やカモシカでさえも辿ることの出来ない地域でした。
本書はそんな人類未踏の地域に足を踏み入れ、戦前(昭和11年~昭和15年)に仙人谷ダムを建設した人々を描いた小説です。
工事現場までは崖の中腹に桟道を通す必要がありましたが、それは丸太をボルトで固定したものに過ぎませんでした。
そのため資材を運ぶだけでも多くのボッカたちが荷物もろとも崖下に消えていったのです。
そして何より困難を極めたのが、高熱の岩盤と湧き出る熱水に苦闘しながらのトンネル貫通工事であり、その通称がタイトルにある"高熱隧道"です。
当時は岩盤を無人で掘削してゆく巨大なマシンは存在せず、ダイナマイトによって岩盤を爆破し人力によって破片を運び出すというものでした。
資源の乏しい日本において当時は新たな水力発電所の建設が重要視されており、それは単なる公共事業に留まらず、大戦の足音が刻一刻と近づいてくる世相の中で工業力を強化する国策としても是非必要なものでした。
150度以上に熱せられた岩盤によって多くの人夫が倒れ、また高熱のため暴発するダイナマイトによって犠牲者が出たこともあり、工事は遅々として進まない状況でした。
そのため大掛かりな宿舎を現場近くに建設して冬季も工事を続行させますが、これがさらなる悲劇を生み出しました。
それが豪雪の冬に起こる泡雪崩(ほうなだれ)でした。
この凄まじい衝撃波を伴う雪崩が宿舎を人夫もろとも580m先にある奥鐘山の岩壁に叩きつけ、84名の命が一瞬にして失われました。
残念ながら工事着工から仙人谷ダムが完成するまでに300名を超える犠牲者を生み出すことになるのですが、この過程が作品には克明に描かれています。
この作品には3つの側面があります。
まずは地球の息吹を感じるかのような灼熱の岩盤、そして急峻な山と豪雪という組み合わせが生み出す恐ろしい雪崩など、雄大で厳しい大自然の姿を描いているという側面です。
次にその大自然へ果敢に挑戦し、いかなる犠牲を払ってでも目的を達成しようとする人間たちの執念や情熱という観点からの物語です。
そして最後に、帝国主義を掲げる国家権力を背景にした建設会社が工事を強行し、結果的に現場の最前線で働く多くの労働者(人夫)の命を失わせたという悲劇の物語としての側面です。
のちの太平洋戦争において多くの兵士たちの命が軽視されてしまった兆候が、すでにこのダム建設の現場に現れていたのです。
いつかこの仙人谷ダムへ訪れてみたいと思っていますが、実際にダムを目の前にした時、色々な感情の入り混じった複雑な気持ちになるのかも知れません。
大本営が震えた日
玉音放送によって国民に降伏を知らされた8月15日は終戦の日として有名ですが、真珠湾攻撃・マレー作戦によって開始された12月8日の太平洋戦争開戦の日はそれほど知られていません。
泥沼化しつつある日中戦争、また満州を巡ってソ連とも予断を許さない状況にありながら、アメリカ、イギリス、オランダをも敵に回すという無謀な戦略だったことは歴史が証明していますが、開戦前から最高司令部(大本営)の人間たちもその困難さは理解していました。
そこで考えついたのが、渾身一滴の奇襲作戦です。
敵国に奇襲作戦を知られることを防ぐために、開戦日やその標的については国民はおろか、大部分の軍人にも知らせなかったのです。
しかしこれだけの作戦を遂行するためには、長い準備期間と緻密なスケジュールに沿って大規模な極秘行動を展開する必要がありました。
本書は、こうした開戦の影に潜んだ巨大な舞台裏をテーマにした吉村昭氏の小説です。
まずは広東東方の山岳地帯に墜落した中華航空の民間機「上海号」が取り上げられています。
墜落した飛行機には、開戦司令書を携えた杉坂少佐が乗っており、しかも墜落現場は中国軍の支配地域だったのです。
軍上層部の苦悩、そして敵地に墜落しつつも辛うじて生き残った軍人たちの運命が緊迫した状況とともに描かれています。
続いて開戦直後にアメリカ海軍によって拿捕される可能性の高かった日本人引揚船「竜田丸」の乗組員たちの物語、さらにはマレー半島攻略作戦へ向けて南下を続ける日本軍輸送船団の隠密行動、東南アジア攻略のために欠かせないタイへの平和進駐の交渉裏など、多方面で繰り広げられながらも歴史の表に出てこなかった事実が浮かび上がってきます。
そして最後は択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)に大演習のため終結した艦隊が、その本当の目的であるハワイ・真珠湾攻撃のために出港してゆく過程を扱っています。
連合艦隊司令長官・山本五十六によって立案された太平洋戦争最大の奇襲作戦の舞台裏は、厳しい電波管制を続けながらも、ハワイ(敵地)の情報収集を続けながらの沈黙行動であり、有名な「新高山登レ一ニ○八」の開戦決定に至るまでの緊迫した状況が伝わってきます。
本書は北海道から九州に及ぶ丹念な取材、そして何より敗戦後20年後に書かれたため、当時の関係者が比較的健在だったという要因が重なって完成された作品です。
作品の最後は次のように締めくくられています。
庶民の驚きは、大きかった。かれらは、だれ一人として戦争発生を知らなかった。知っていたのは、極くかぎられたわずかな作戦関係担当の高級軍人だけであった。
陸海軍人二三○万人、一般人八○万のおびだたしい死者をのきこんだ恐るべき太平洋戦争は、こんな風にしてはじまった。しかも、それは庶民の知らぬうちにひそかに企画され、そして発生したのだ。
人間の集団について―ベトナムから考える
ある国のことを知ろうとするとき、てっとり早くガイドブックから知るのが簡単だが、じっくりと腰を据えて歴史や伝統から知ろうとするのも悪くないかもしれない。
しかし本書の著者である司馬遼太郎氏は、必ず現地を訪れて取材をするという流儀を持った人でした。
それも現地の政治筋の人や新聞記者とは会おうとせず、地下の人、つまり普通に暮らしている民衆たちに接することで、肌身を通じてその国の空気に触れようとするスタイルなのです。
著者はベトナム戦争において米軍の最後の部隊が撤退した翌日(1973年4月1日)にサイゴンを訪れますが、南北ベトナムの内戦はまた続いており、連日のように多くの犠牲者が出ている状況でした。
それでも著者が出会ったベトナム人は誰もが微笑みを絶やさず親切であり、かつての日本がゆるやかな社会環境だった頃の人間に出会ったような懐かしさを感じると記しています。
もし会社の業績を伸ばすために必死に働く経営者やサラリーマンが多い日本で内戦が勃発したとしたら、殺伐とした神経の張りつめたような雰囲気に支配されるに違いありませんし、"例え"を持ち出すまでもなく、大戦中の国家総動員法や大政翼賛会といった民衆への重圧を強いるような社会状況にあったことをつい最近の歴史から引き出す事もできるのです。
数百万人もの犠牲者を出すような苛烈な状況下にあるにも関わらず、彼らの柔和さは奇跡のようなものと著者は感嘆すると同時に、ベトナムの自前の生産社会の歴史的段階は、日本の戦国時代か江戸時代初期の段階にすぎないとも指摘しています。
つまりメコン川を中心とした豊穣な土地で稲作をすれば充分に食ってゆけた村落を中心とした集団がベトナム人の基盤であり、近代国家の持つ重い理念に無縁であったという要因が大きいという鋭い分析を行っています。
そこへいきなり最新式のアメリカ資本主義が乗り込んできたことにベトナムの悲劇があるのです。
ベトナムと同じインドシナ半島にあるラオス、カンボジア、タイといった国々はいずれもインド文化圏として性格を強く持っていますが、ベトナムは歴史的に中国文化圏の影響を強く受けている国です。
こうしたアジアの多様な文化を知る上でも、また国や民族を外から観察する視点を養うという点からも、本書から得ることは多いのです。
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