本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

満潮の時刻


本作品は遠藤周作氏の没後5年を経過して書籍化された作品ですが、遺稿ではなく、かなり以前に執筆した作品が偶然このタイミングで書籍化されたものです。

家庭を持ち四十代の働き盛りの明石が、突然の喀血により結核に侵されていることを知る。
長期の入院治療を余儀なくされた主人公は、そこにいる病人たち、その生命の終焉と出会うことによって、心の中に確実な変化が起きていることを感じてゆく...。

これは物語の導入部でありながら、全体のあらすじでもありますが、遠藤周作ファンであれば著者自身の体験を小説化した作品だと分かるはずです。

遠藤周作には「海と毒薬」、「沈黙」、「深い河」といったやや難解で深刻なテーマを扱った日本を代表する文学作品を発表する一方で、狐狸庵山人としてユーモア溢れる軽快なエッセーを書くこともでも知られれています。

さらに歴史小説にも精力的に取り組むなど著者の活動範囲はかなり広いのですが、その中でも本書は読みやすい現代小説に位置付けられます。

人間誰しも(子どもであっても)"死"というものを漠然と考えるときがありますが、本作品の主人公のように(当時はまだ致命的な病気であった)結核に侵され、実際に死の淵をさまよって初めて真剣に考えはじめるのではないでしょうか。

これは普段は健康を意識しなくとも、風邪で寝込んだ時に健康の大切さを知るのに似ているかも知れません。

ともかく著者も病魔に侵され"死"を身近に感じることで体験したことがあったです。
それは"世の中を達観する"ことであったり、まして"悟りを開く"ことではなく、今まで何気なく見ていたものが、違う意味を持って見えてくるという類のものです。

作品でその象徴となるのが、病院の屋上から眺めた乳白色の空の中で煙突から真っ直ぐにのぼる煙であったり、人もまばらな長崎の古い洋館に展示されていたすり減った銅板の踏み絵であったりします。

つまり本作品にも著者が作家として終生追い続けたキリスト教文学の要素をはっきり見ることができます。

さらに加えるならば、著者はのちに自らの体験などから医療問題を言及するようになりますが、この作品でも鋭い視点から観察が行われています。

著者の死によって充分な見直しが行われないまま書籍化された作品でありながらも、遠藤周作らしさが凝縮されている1冊です。

外交ドキュメント 歴史認識


テレビや新聞、インターネットからは日本と近隣国、その中でも特に中国、韓国との関係は最悪ではなくとも、あまり良い状態ではないことは伝わってきます。

特に外交の場合、今日の状況を知るだけでは充分ではなく、過去から続く両国関係の延長線上に今があると認識しなければ正確な状況を把握することは難しいでしょう。

一方でメディア場合、こうした過去の問題に触れてはいても、時間や紙面の都合から抜粋されたものになりがちであり、その情報量は充分ではありません。

はじめで触れられている通り、本書は外交史の専門家である服部龍二氏が、日本と中韓との間で行われてきた外交の過程を問題別、時間軸に新書という形でコンパクトにまとめて解説したものであり、こうした情報を得るための手段として極めて優れています。

本書の主たる目的は批評や提言ではなく、日本外交の視点から政策過程を分析することにある。諸外国の関係悪化だけでなく、修復の局面にも紙幅を割く。筆者が断を下すというよりも読者のために材料を整理して提供したい。何度でも再燃しうる歴史問題を論じるうえで、そのことは基礎的な作業になるだろう。『外交ドキュメント 歴史認識』と題したゆえんである。

中韓との外交関係は歴史問題、つまり日本との歴史認識の相違が主な焦点となる場面が多いのです。

一口に歴史問題と言っても細かい視点まで入れるとキリがありません。
中でも本書が主に取り上げているのは以下の点です。

  • 歴史教科書問題
  • 靖国神社公式参拝
  • 従軍慰安婦問題
  • 村山談話

本書では終戦後の東京裁判、そして中韓との国交正常化に至るまでの過程は概要のみにとどめ、1980年代以降の外交政策ヘ対して具体的な言及を行っています。

つまり現在から遡って30~40年間の外交過程が対象となりますが、まず本書から分かることは、日中韓いずれも一貫した外交政策を取り続けた国は存在しないという点です。

それは国内外の政治や経済状況など、複雑なパワーバランスを反映した結果であり、歴史認識に両者が歩み寄るときもあれば、片方、または両者が離れてしまう局面が何度も登場します。

分かり易い例を挙げれば、積極的な外交政策で知られる中曽根首相と改革派で親日家といわれた胡耀邦総書記との良好な関係は、日中関係がもっとも歩み寄った時期でもありましたが、保守派の反発によって胡耀邦が失脚し、江沢民が総書記に就任したのちに日中関係は急速に悪化してゆきます。

韓国ではもっと頻繁に同じ現象が起きており、日本においても歴代首相が下す靖国神社公式参拝の判断如何で中韓の態度が大きく左右します。

ある歴史問題を切り取り、舌鋒鋭い論客やジャーナリストが論じる本やコラムは読者にとって刺激的に映るでしょう。
しかし同時に読者が充分に"考える"ことをせずに、安易にそうした論調へ流れてしまうといった危険性もはらんでいます。

さらにメディアはこうした意見を保守反日、または右翼左翼といったレッテルに二分したがる傾向にあり、議論の視点を狭めてしまうという点で好ましくありません。

読者への判断材料を提供するために書かれた本書ですが、終章でわずかに著者の外交へ対する提言が垣間見れます。

外交とは、関係各国の利害を調整する行為である。相手国がある以上、外交に完全な勝利を求めるのは難しいし、危険でもある。一国が完勝しようとすれば、相手国に鬱積した感情を残すことになり、長期的には和解を遠ざけかねない。

誰が首相が就任しても、どんな政党が政権を運営しても外交問題が一気に解決するこはないでしょう。

どんな局面にあっても地道で粘り強い信頼関係の構築を続けることこそが、唯一の打開策であることを歴史は教えているのです。

ヒロシマ・ノート


大江健三郎氏が1963年から65年にかけて広島を訪れた時の体験を綴った随筆です。

1945年8月6日...。
この広島において人類に初めて原子爆弾が投下された日は、日本のみならず人類史においても特筆すべき出来事でした。

ある作家はこの歴史的な出来事を小説として発表しましたが、大江健三郎氏は「ヒロシマ・ノート」という形で後世に残すことを選択したのです。

すさまじい威力を持った原爆が一瞬で広島の町を壊滅させ、約14万人もの生命を奪ったことは周知の事実ですが、こうして文章に書いてみると余りにもあっけない表現です。

また同時に原爆によって形成されたキノコ雲を遠くから眺めているような、傍観者の表現のようにも感じます。

しかしそのキノコ雲の下で唐突に原爆の直撃に会った人びとにとっては、どんな地獄絵図でも表現不可能な、著者によれば"人間の悲惨の極み"ともいうべき状況が繰り広げられていました。

著者が見聞し本書に収録した原爆にまつわる数々の出来事は、どれも悪夢を超えた悲惨なものですが、それでも広島で起きた惨劇の氷山の一角にしか過ぎません。


1963年に広島に降り立った著者は、第九回原水爆禁止世界大会に立ち合います。
そこには政治的な思惑が入り乱れ、遅々として大会が進行しない状況が繰り広げれ、著者はそこに呆然と立ち尽くし虚しさを覚えます。

そんな中で著者は、原爆投下1週間前に赴任し原爆投下直後から現在に至るまで精力的に原爆症治療にあたる広島日赤病院の重藤医院長、そして大会に際して原爆病院の患者代表として挨拶をした宮本氏の2人に出会うことによって、そこに"真の広島の人たち"の姿を見出し、その魅力に引き寄せられてゆきます。

残念なことに宮本氏は数ヶ月後に原爆症によって亡くなることになりますが、大江氏はこの"真の広島の人たち"を"正統的な人間"とも表現しています。

広島の現実を正面からうけとめ、絶望しすぎず、希望をもちすぎることもない、そのような実際的な人間のイメージがうかびあがってくるように思える。
~中略~
まったく勝算のない、最悪の状況に立ち向かいうる存在とは、やはり、このような正統的な人間よりほかはない。

逆に言えば狂気、あるいは絶望の果の自殺や精神的異常から自分自身を救い出すため、広島の人びとが他にとり得る方法が残っていなかったことを意味しています。


本書に度々登場する"人間の惨劇の極み"は、読者にたびたびショックを与えますが、当事者でない私たちが抱いたその印象は時間の経過とともに薄らいでゆきます。
またすでに被爆者の体験談を聞くことが難しいに時代に入っており、それもやがて不可能になるでしょう。

原爆が起こした最悪の惨劇は、本書に限らず多くの人たちによって発掘され、資料や手記といった形で残っています。

われわれに出来ることは、折に触れて繰り返しそうした記録を読むことで、二度と同じ過ちを繰り返していけないと新たに胸に刻むことなのです。

その峰の彼方


今から10年以上前になりますが、新田次郎氏の山岳小説を夢中になって読んでいた時期がありました。

そんな私にとって本書の作者である笹本稜平氏は、現役作家における山岳小説の第一人者でもあります。

ただし新田氏がノンフィクション小説を得意としていた一方で、笹本氏は山を舞台にした多様なフィクション小説を得意としている点で特徴が異なります。

その中でも「その峰の彼方」は、正統派かつ本格的な山岳小説といえるでしょう。

舞台はアメリカのアラスカ州にそびえる北米最高峰・マッキンリー、近年では先住民の呼び名である"デナリ"が正式名称となっているようです。

実績を残しつつも日本の山岳界に窮屈さと閉鎖感を感じていた主人公・津田は、デナリの魅力に取り憑かれ、アメリカ国籍を取得してデナリの麓にある小さな町・タルキートナでツアー会社を営んでいました。

そんなある日、学生時代からの友人である吉沢の元へ津田が厳冬のデナリで遭難に合ったとの連絡が入ります。

吉沢は急遽日本からアラスカへ飛び、地元のレンジャーたちと津田を救出すべくデナリへと向かうのでした。


ここまでは長い物語の導入部ですが、本作品には山岳小説にある幾つもの要素が取り入れられています。

まず何と言っても外せないのがデナリを舞台としている点です。

デナリはエベレストよりも2700メートル低い山ですが、登山に要する高低差はエベレストに勝り、加えて北極圏に近い高緯度にあるため冷え込みが強く、気圧が低い(空気が薄い)といった厳しい自然条件下にあります。また一方では、独立峰に近い山容と巨大な氷河を兼ね添えた雄大な山でもあります。

つまり山岳小説には欠かせないデナリの美しさと厳しさが物語の中で何度も描写されてゆきます。

そこへ誰も成し遂げていないカシンリッジ・ルート冬期単独登攀を目指した津田の挑戦は、冒険小説としての魅力を充分に備えています。

また遭難し行方不明となった津田を捜索する吉沢たち一行の苦闘は、山岳救助の緊迫感に溢れています。

タルキートナには津田の生還を信じる、出産を控えた妻の祥子、先住民のリーダーであり津田のメンターでもあるワイズマン、津田が登山前に構想してた新しいビジネスのパートナーであり山岳部の先輩でもある高井の姿があります。

他にも挙げればキリがありませんが、ともかく多くの要素を取り入れた本作品からは、著者のかける意欲が伝わってきます。

そして作品自体はかなりの長編になっていますが、何と言ってもクライマックスは津田自身に迫る生命の危機とともに訪れる内面的な経験ではないでしょうか。

作品ではそれをオカルト的な超常現象やサードマンのような心理的作用ではなく、人知を超えた大自然の意志という形で描いています。

ただし作品中でその正体が明らかにされている訳ではなく、その解釈はそれぞれの読者に委ねられています。

ぜひ読み応えのある山岳小説にチャレンジしてみは如何でしょうか。

続・暴力団


前作「暴力団は2011年出版でしたが、2012年には立て続けに「続・暴力団」が出版されました。

前回は暴力団の組織構成、資金調達の仕組みなど基本的な知識を中心に紹介していましたが、今回は現在進行系、つまり最新の暴力団情報を中心に取り上げています。

本書はその中でも全国的に施行された暴力団排除条例(暴排条例)をクローズアップしています。
この条例は、一般人と暴力団の接点を断ち切る、すなわち彼らの資金調達源(シノギ)を閉ざすことで暴力団組織を弱体化させることを目的としたものです。

この条例が登場する以前から暴力団は斜陽産業であり、全国のいたる所で苦境に立たされた暴力団は変質しつつあります。

私たちから見ると暴力団の衰退は好ましい状況のように思えますが、著者(溝口敦氏)は次のように警告します。

今日の暴力団は昨日の暴力団とは違います。昨日の暴力団と思って関係すると大けがを負います。ひと言でいえば、暴力団の一部は兇暴で秘密主義のマフィアに近づいています。
損か得かで動き、近隣住民との関係など、どうでもよくなりました。

つまり追い詰められた暴力団は、生き残るためになりふり構わず犯罪に走る傾向が出てきているのです。

また暴走族に代表される不良少年たちは、警察からの監視や伝統的な習慣の厳しい暴力団に所属せず、関東連合OBに代表される"半グレ集団"を形成し、暴力団と協調、対立を繰り返しながら独自の勢力を築いています。

ちなみに会社間で取り交わされる契約書にも2012年頃から暴排条例に関する一文が入るようになり、私自身も身近に感じていますが、著者はこの条例のポイントを暴力団ではなく、地域の住民を直接的な対象としている点だと指摘しています。

つまり条例では警察が主体となって暴力団を排除するのではなく、住民たちの責務として暴力団を排除しなければならないのです。

その結果として暴力団との関係を絶とうとして恐喝され、最悪の結果として殺害されてしまう事件、逆にその関係を断ち切れず、芸能界から引退せざるを得なかったケースについても具体例を挙げて紹介しています。

極端な例ですが、昭和の名作「男はつらいよ」の主人公・寅さんを現在の法令や条例で定義すると、「テキ屋の渡世人=暴力団の構成員」という図式が成り立ち、一昔前に見られた住民と暴力団の交流は完全に暴排条例ではアウトということになります。

暴力団と一般市民との関係が変わりつつあると同時に、警察との関係も変化が見られます。

暴力団は警察の間には、お互い情報交換し合う癒着の習慣がありましたが、従来の関係性は崩れ、暴力団はメリットのなくなった警察へ情報を提供しなくなり、その結果として検挙率も低下しています。

それどころか従来の暴力団では暗黙のルールで禁じられていた、警察官をターゲットにした殺傷事件さえ起こすようになりました。

そして前作でも紹介されていた「暴力団に出会ってしまったらどうすればよいか?」については、より突っ込んだ内容で言及しています。

本書で具体的に挙げられている有名芸能人やスポーツ選手と暴力団の関係だけでなく、一般市民がふとしたきっかけで暴力団を出会う確率もゼロではありません。

そうした場合の対処法については、著者自身の経験を踏まえながら解説しています。

暴力団を漠然と""として捉えるだけでは不十分であり、現時点における暴力団の実態、そして今後彼らがどのように変質してゆく可能性があるのかという点は、一般市民にとってもいざという時のために知っておきたいところです。

暴力団


暴力団」。

あるいは「ヤクザ」、「極道」、「任侠」...呼び方によってイメージも異なりますが、その実態を知る人は少ないのではないでしょうか。

著者の溝口敦氏は元警察官でもヤクザでもなく、半世紀近くにわたり暴力団を取材し続けたノンフィクション作家です。

組織の垣根を超えて多くの暴力団を取材し続けた裏世界に精通した作家であり、過去には山口組に関する著書を巡って脅しを受け、左背中を刺され重傷を負った経験を持っています。

本書は暴力団同士の抗争に深く迫ったノンフィクションではなく、今日現在で23団体指定暴力団)、1万8100人の構成員を抱える暴力団の実態を分かり易く解説した1冊です。

まずは山口組に代表される広域団体の仕組み、直系組長(直参)、若頭舎弟といった独自の業界用語の解説にはじまり出世の仕組みなど、馴染みのない人にとって業界独自のルールは新鮮に映ることでしょう。

また企業でいえば売上を得る事業を「シノギ」と呼びますが、伝統的な資金獲得手段として覚せい剤恐喝賭博ノミ行為を挙げています。

さらに昔と違い暴力団系の建設会社が公共事業の下請けに入ることが難しい現在では、解体業産廃処理によっても資金を得ているようです。

続けて入れ墨指詰め(エンコ詰め)といった伝統的な習慣、最近では非課税である新興宗教団体をケースなど今の暴力団を知ることができます。


ここまで解説してき暴力団は日本独自の存在ですが、続いて海外のマフィア(犯罪組織)との特徴を比較する試みもされています。

やはり際立つ違いは、諸外国では組織犯罪集団そのものを違法としているケースが殆どなの対し、日本では暴力団対策法組織犯罪処罰法という法律はあるものの、暴力団の存在そのものは認めている点です。

分かり易いい例を挙げれば、暴力団が繁華街などに看板を掲げて事務所を構えることは容認されており、存在が違法とされている諸外国ではそれだけで摘発対象となる点は大きく異なります。

暴力団とかかわり合いを持たずに人生を過ごすに越したことはありませんが、もし思いがけず出会ったらどうしたよいか?

そうした場合の対処法に関しても、経験・知識豊富な著者がアドバイスを送っています。

身近に暮らしながも目に見えにくい暴力団に対する基礎知識を与えてくれる本書は、ある種のサバイバル指南といえるかも知れません。

文明に抗した弥生の人びと


最近、私の中ではちょっとした考古学・古代史ブームが来ています。

具体的には1万年にも渡る縄文時代、そして1000年あまりの弥生時代、それに続く古墳時代から天皇を中心とした中央集権体制が整う8世紀中盤くらいまでの時代です。

本書は2017年7月に発刊された駒沢大学文学部准教授を勤める寺前直人氏が、弥生時代の実像に言及した1冊です。

弥生時代といえば薄手で堅い弥生式土器、そして何よりも大陸から伝わった稲作、つまり農耕社会が本格的に成立した時代です。
その他にも青銅器鉄器が用いられるようになった点も特徴です。

その結果として水田稲作が安定的な食糧供給、つまり人口増加をもたらすと同時に、「持つ者と持たざる者」という社会的・経済的格差を生み出したというのが大まかなイメージです。

しかし実際には、弥生時代の解釈を巡って専門家たち同士の間でも議論が行われている状態であり、先ほどの解釈が必ずしも正しいと立証されていないのが最先端の考古学らしいです。

その代表例を挙げると、弥生時代の母体として縄文時代があるという連続性を重視する見方と、(稲作や青銅器の伝播をはじめとした)大陸からの影響が縄文文化を一気に駆逐してしまった、つまり縄文~弥生時代間は断絶しているという見方があります。

著者の寺前直人氏は大枠では前者の説を支持する立場をとっていますが、一例の発見のみを挙げてそれを立証することは難しく、水田や土器、土偶などさまざまな角度からそれらを検証する必要があります。

具体的に着目した点は目次からも大まかに掴むことができます。

  • 弥生文化を疑う
  • 弥生文化像をもとめて
    • 弥生文化の発見
    • 二つの弥生文化像
    • 農耕社会の定着
  • 水田登場前史
    • 縄文時代とは?
    • 縄文時代の儀礼とその背景
    • 土偶と石棒
  • 水田をいとなむ社会のはじまり
    • 農耕社会の登場
    • 水田稲作とともにもたらされた道具と技術
    • 狩猟採集の技の継続と発展
    • 水田稲作を開始した社会の人間関係
    • 財産と生命を守る施設
  • 東から西へ
    • 水田稲作開始期の土偶の起源
    • 弥生時代の石棒
  • 多様な金属器社会
    • 金属社会と権力
    • 青銅製武器の祭器化をめぐって
    • 銅鐸と社会
    • 石器をつかい続けた社会
  • 文明と野生の対峙としての弥生時代

特筆すべきは、青銅器をはじめとした石器よりも便利な金属が大陸より伝播したのちも、弥生人はあえて不便な石器を使い続けた形跡があるという説です。

その結論に至るまでの考古学的な発見、および論証については本書を読んでからのお楽しみですが、いずれにせよ読者の知らなかった新しい弥生時代のイメージを与えてくれることは間違いありません。

ぼんやりの時間


忙しい日々を過ごしている社会人や学生、あるいは主婦は多いのではないでしょうか。

近代化と都市化が人びとに便利な暮らし提供するようにしました。
そして人間社会は効率化を追い求め、やがて人間の心を破壊してゆくと著者の辰濃和男氏は警告しています。

仕事や家事、あるいは勉学に追われるというのは昔から変わらないのかも知れませんが、世の中の流れは最近になってますます高速化しています。

代表例としてインターネットの普及が挙げられます。
今さらインターネットの便利さを説明する必要もありませんが、一方で電車に載っている時間や食事の時間、歩いて移動している時間さえもゲームやSNSに没頭する人びとを生み出しました。

本人たちにすればそれは"息抜き"の時間と主張するかも知れませんが、著者の主張する"ぼんやりの時間"とは「何もしない・何も考えない時間」のことを指します。

瞑想とも少し違い、たとえば土手にごろりと寝転がって景色や空をぼんやりと眺めて1日中過ごすというような行為です。

とは言いえ生活のために長時間労働が必要な人も多いはずであり、著者自身も長い間、新聞社で昼夜関係なく働いていた経験を持っています。

1日のうち、1ヶ月のうち数度はたとえ短くともぼんやりする時間をとることは決して無駄ではなく、むしろ生きる糧になるはずだと読者に呼びかけています。

第1章では、騒がしい世間に流されず"ぼんやりの時間"の大切さを体現した偉人たちを紹介しています。紹介されている人たちはざっと以下の通りです。

  • 哲学者・串田孫一
  • 詩人・岸田衿子
  • 作家・池波正太郎
  • 詩人・高木護
  • 作家・H・Dソロー
  • 作家・深沢七郎
  • 僧侶・山田無文

中には長い間を放浪の旅で過ごした人、文明に背を向けて自給自足で暮らした人など少し極端な例もありますが、著者に言わせればかれらは"ぼんやりの達人"と言えるでしょう。

第2章では、読者にとっても現実的なぼんやりな過ごし方を紹介しています。
散歩や温泉、または静かで心安らぐ自分の居場所を見つけるなど、比較的容易な方法を例を交えながら解説してくれます。

最後の第3章では「ぼんやりと」と響き合う一文字として、""、""、""、""、""について考察しています。
全編に渡って共通することでもありますが、著者は"ぼんやり"を科学的にではなく、哲学的な視点で考察しているのが特徴であり、心を破壊しようとする巨大な近代へ対抗し、よりよい人生を送るために"ぼんやりする権利"の大切さを説いています。

自分の生き方を見つめ直すためにも、忙しく毎日を過ごしている人にほど手にとって欲しい1冊です。