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額田王


単行本1冊にまとまっていますが、600ページにも及ぶ井上靖氏の長編歴史小説です。

主人公の額田王(ぬかたのおおきみ)は、万葉集にその歌が残っている日本最古の女歌人であり、天皇に仕える巫女であったという一説もあります。

しかしながら歌以外に残っている史実が少なく、確実なのは大海人皇子(のちの天武天皇)との間に十市皇女(とおちのひめみこ)という娘を産んだということだけです。
さらに残っている歌から推測して、大海人皇子の兄にあたる中大兄皇子(のちの天智天皇)と三角関係にあったという説もあり、そこから彼女が絶世の美女であったという伝説も生まれてます。

つまり詳しい経歴がほとんど分かっていないに等しいですが、彼女の生きた時代(飛鳥時代初期)といえば、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱 といった歴史的な出来事も多く、簡単に言えば天皇を頂点とした中央集権体制が本格的に始まった時代でした。

逆に言えば、残っている史料が少ないからこそ補完できる要素が多く残っているということであり、作家として腕の見せどころの多い主人公であると言えるでしょう。
中大兄皇子、または大海人皇子を主人公にした方が物語の起伏に富んだストーリーを書けるはずですが、あえて額田王を選んだところに歴史小説であると同時に、文学作品としての側面を見ることができます。

作品に登場する額田王は、神の声を聞くための巫女として登場します。
巫女というからには、后やほかの皇女とは一線を画した特別な存在であり、作品序盤では彼女の心境を次のように描いています。

神の声を聞くか、人間の声を聞くか、そのいずれかを選ぶとすれば、言うまでもなく神の声を聞く方を採るだろう。
一度神の声を聞いてしまった者には、人間の声などさして興味も関心も持てないのである。自分が作る歌は、すべて神の声である。

つまり額田王は、俗世間とは距離を置いて生きてゆくことを自らに課していたのです。

作品中には中大兄皇子と中臣鎌足を中心とした行われた改革や外征が描かれており、日本の政体が大きく変わってゆく時代であったことが伺えますが、言わばそれは風景のようなものであり、作品の中心は額田王の心情が中心に据えられています。

読者は時代の移り変わりと共に、額田王の心中がどのように変化してゆくのかを追ってゆくことになります。

いずれにせよのちに天皇となる2人の皇太子に愛された額田王が幸福だったのか、それとも不幸だったのかの判断は読者に委ねられています。