悲素(上)
1998年7月25日に発生した和歌山毒物カレー事件を扱った小説です。
主人公は、毒薬の特定や被害者の診断を通じて警察の捜査に協力した九州大学の医学教授です。
登場人物は仮名ですが、作品の内容は事件を忠実になぞった実録小説といえます。
私自身もワイドショーで連日報道され、世間的に大きな注目を浴びた事件として記憶に残っていますが、夏祭りに集まった地域住民たちがカレーによって集団中毒になったこと、容疑者が逮捕される前から報道され続けていていたという印象がある程度です。
主人公の沢井教授はテレビでこの事件を知ることにりますが、報道される被害者の病状と、その毒物が青酸であることに矛盾があることをすぐに感じます。
それは神経内科、衛生学、そして環境中毒学を専門としている沢井は毒薬の知識に精通していたからです。
やがて毒薬の正体が砒素化合物と判明すると、沢井の元へ和歌山県警から捜査協力の依頼が届くことになります。
なぜなら沢井は日本ヒ素研究会の副理事であり、日本で数少ない砒素中毒者の臨床経験のある医学者だったからです。
本作品の特徴は、一貫して沢井教授の目線から描かれているという点です。
よって作品の序盤は、沢井教授自身がメディアや捜査官からの情報によって少しずつ事件の全容が明らかになってゆくというミステリー小説のような楽しみ方ができます。
ただしミステリー小説であれば、どんなに残酷な殺人鬼であってもエンターテイメントとして楽しむことができますが、この作品では犠牲者の数からその症状まで事実を元に描いている点で異なります。
「事実は小説より奇なり」と言われますが、容疑者によって毒物カレー事件以外にも保険金詐欺を目的として砒素が日常的ともいえる頻度で使用され続けた背景が明らかになるにつれ、沢井教授とともに読者の背筋にも寒いものが走ってゆきます。
私が住んでいる地域でも毎年夏祭りが開催され自治会の人たちが出店する屋台に多くの住民が集まります。
私自身も運営に関わった経験がありますが、そこでは子どもも大人も警戒心を抱くことなく提供される食物を口へ運びます。
そこへ致死量の毒物が混入されているとしたら・・・・・。
題材となっているのはその「if」が実際に起きてしまった事件であり、救急車が駆けつけた現場は阿鼻叫喚だったといいます。
本書を医学の力が犯罪を暴いてゆくストーリーといえば聞こえはいいですが、地道な研究を続けてきた医学者たちがその成果を社会へ還元するために奮闘した記録なのです。