阿片王―満州の夜と霧
満州という国の存在を抜きにして日本の戦争を語ることは出来ません。
五族協和、王道楽土という満州建国の理念は、少し角度を変えて解釈すれば「西欧列強国からのアジア解放」という日本が世界大戦に突入していった大義名分そのものであるからです。
しかしそうした理念が実現されることはなく、満州が関東軍の傀儡国家に終わったことは歴史が教えてくれます。
満州国を表向きから見ると、板垣征四郎、石原莞爾、そして溥儀といった歴史上の人物が教科書に登場しますが、裏の部分に目を向けると違った人物たちが浮かび上がってきます。
本書ではノンフィクション作家の佐野眞一氏が、その中の代表的な人物として阿片王と呼ばれた里見甫(さとみ はじめ)の生涯を追った1冊です。
先ほど挙げた建国の理念を満州のもっとも輝かしい部分だとすれば、里見はその最深部を担っていた人物です。
それはタイトルから推測できる通り、アヘン密売の総元締めとして絶大な力を誇った人物だからです。
私自身は"里見機関"という組織が麻薬を取り扱っていたことは知っていましたが、決して教科書には登場しない里見甫という人物を詳しく知るのは本書がはじめてでした。
満州国を豊かな穀倉地帯へと変貌させ、豊富な地下資源を開発して重工業を発達させるという青写真がありましたが、その音頭を取っていた関東軍の財政状況は芳しくなく、里見が阿片の密売によって作り出した資金に頼らざるを得ませんでした。
里見は関東軍のみならず、中国で共産党と対立を続ける国民党へも資金を提供し、内閣を率いる東条英機にも資金を提供したと言われています。
里見は中国の文化と内情を誰よりも理解し、青幇(チンパン)と呼ばれる裏社会に君臨する秘密結社とも太いパイプを築いており、彼の存在がなければ大陸で阿片を流通させること自体が不可能でした。
また莫大な資金を得るため、結果として数百万人の中国人を阿片中毒者に陥れた大悪人と見なすことも出来ます。
里見は現代で言う麻薬王というスケールをはるかに超えた存在であり、昭和40年に彼が亡くなったときに作成された遺児奨学金寄付の名簿には、歴代の総理大臣や大物政治家、財界人など176名が名を連ねました。
しかし肝心の里見の生涯は、著者がその下半身が闇の中に溶けていると評する通り、謎に満ちたものです。
実際に本書を読み終えてみても里見甫という人物を一言で評すのは難しく、善悪や功罪は別としても、複雑でスケールの大きな人物であったことは間違いありません。
本書は著者が、里見甫の最晩年の秘書である伊達弘視という人物を東京小平市にある6畳一間の古い木造アパートに尋ねるところから始まります。
伊達は自らを大物スパイと自称しており、実際にスパイ事件で逮捕された経歴があるという、いかがわしい人物です。
同時にそれは10年間にも及ぶ里見甫の正体を探る取材の始まりであり、それは最終的に100名を超える膨大な取材へと繋がっていきます。
ノンフィクション作家にとって取材が大切とはいえ、読者が感嘆するほどの圧倒的な量と密度の取材によって書き上げられた本書は、まさしく佐野氏にとっての代表作といえます。
言い方を変えれば、いかに優れた作家といえども本書のような作品は生涯に何冊も書けるものではなく、間違いなく日本を代表するノンフィクション作品であるといえます。