本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

楼蘭王国



スウェーデンの地理学者であり、探検家でもあるヘディンの執筆した中央アジアの紀行文「さまよえる湖」を読んだ時に、荒野に打ち捨てられた都市・楼蘭(ろうらん)を発見し、さらにその近郊で状態のよい女性ミイラ(通称:楼蘭の美女)を発掘したという記述が印象に残っていました。

ヘディンにとって1番の探検目的は、かつて存在し幻と言われた湖「ロプ・ノール」を発見することであり、言わば楼蘭の発掘は副次的なものでした。

しかしかつて湖畔に存在し、広大なユーラシア大陸の東西を結ぶオアシスの道の要衝として栄えた古代都市・楼蘭には歴史的ロマンがあり、タイトルを見ただけで思わず手にとってしまったのが本書です。

ヘディンが発見し言及したのは"都市としての楼蘭"ですが、本書ではタイトルから分かる通り、首都を含め周辺に点在する諸都市を支配下に置いて繁栄を誇った"国家としての楼蘭"を対象にしています。

前半では「史記」や「大宛列伝」など、歴史書の中に現れる楼蘭の記述から、王国が辿った歴史的な遍歴を考察しています。

当時、モンゴル高原から中央アジア、中東にかけては匈奴、烏孫、月氏といった大きな勢力が存在し、さらに中国では秦を倒したが積極的に西方へ進出してきたこともあって、複雑な力関係の中で楼蘭が存在してきたことが分かります。

後半では前述したヘディン、さらに彼のライバルであったイギリスの著名な探検家スタインの足跡を辿りながら、考古学的な観点から楼蘭を含めたロプ・ノール周辺の発掘により明らかになった事実を紹介しています。

終盤では先ほど登場した2人の探検家の功績から100年近くが経過し、最新の研究結果によって判明してきた楼蘭について紹介しています。

楼蘭王国の版図だった遺跡から見つかった文書は大部分がガンダーラ語で書かれており、かつてインド北西地方で使用されていた言語がこの地方の公用語であったことが分かります。

著者の赤松明彦氏はインド文学、哲学の専門家(教授)であり、ガンダーラ語つながりが本書を執筆するきっかけになったようです。

どちらかと言えば専門的な内容で書かれた新書であり、少しとっつきにくい部分があると思いますが、シルクロード、中国やオリエンタルの歴史に興味のある人に是非手にとってほしい1冊です。

ユーモアは最強の武器である



「仕事は真剣勝負の場であって笑い声は慎むべきである」といった考えは遠い過去のものとなりつつあります。

私語がまったく聞こえず全員が気難しい顔をして仕事をしている職場は、ストレスで溢れているようであり、そうした重苦しい雰囲気の会社では働きたくないと思ってしまいます。

もちろん真剣に仕事に取り組む姿勢は大切です。
著者の1人は周囲から「仕事人間」と思われていましたが、あるきっかけでユーモアの持つ可能性に気づき、専門的な研究を始めたことが本書の生まれるきかっけとなりました。

つまり本書はユーモアが人びとのモチベーションや意思決定、心身の健康にどのように影響するか、さらに有意義な影響をもたらすためにユーモアをどのように活躍できるかといったテーマで執筆されており、スタンフォード大学ビジネススクールでこうした授業が創設されるに至ります。

本書の目次は以下の通りです。
  • 第1章 ユーモアの4つのタイプ
  • 第2章 ユーモアの脳科学
  • 第3章 プロのコメディアンのテクニック
  • 第4章 ユーモアを仕事に活かす
  • 第5章 ユーモアとリーダーシップ
  • 第6章 職場で陽気な文化をつくる
  • 第7章 ユーモアのグレーゾーンを切り抜ける
  • 第7.5章 ユーモアは人生の秘密兵器

重大な意思決定を下したり、難しい交渉を迎えた会議室での重苦しい空気、トラブルが発生し深刻な雰囲気が流れる現場など、これらに共通するのはそこにいる人間たちが緊張し、心の余裕がまったくない状態です。

しかしユーモアはそうした雰囲気を一変させたり、相手と打ち解け信頼感が生まれたり、時には創造力を高める力を持っていることが研究によって明らかになっています。

ときには職場にユーモア(笑い)が必要という意見には殆どの人が同意すると思いますが、本書ではそれを積極的に取り入れることを推奨しています。

一方で場違いで相手に嫌な思いをさせるユーモアは和らげようとした雰囲気をより一層悪くしたり、おやじギャグで場を白けさせてしまう危険性があります。


目次から分かる通り、本書ではプロのコメディアンを参考にしたり、グレーゾーンの見分け方にも言及しており、適切なユーモアを取り入れるための参考となります。

そういえば日本の政治家の失言には配慮のない不適切なユーモアに関連するものが多く、本書を活用すべきかも知れません。

本書の主題は先ほど説明した通りユーモアをビジネスで活用する方法ですが、ユーモアの持つ真の効能はビジネスに留まらず、人生そのものを幸福にするほどのパワーを秘めているのです。

世界的に日本人は勤勉という評価を受けていますが、それを裏返すと日本人はユーモアが下手、もしくは通じないという印象が潜んでいるような気がします。

人生を楽しく過ごすためにもユーモアや冗談を言える余裕くらいはいつも持っておきたいものです。

蒼き狼



東アジアの北にある広大な草原地帯(現代のモンゴル高原)には、古代より多くの遊牧民族が暮らしてきました。

時に遊牧民の中から強力な民族が台頭することがありましたが、基本的には広大な草原に点在する形で無数の民族が遊牧をしている状況でした。

しかしこの草原を統一するや否や中国(金)へ攻め入り、中央アジアから中東、東ヨーロッパにまで攻め入り、かつてない広大な版図を持つ帝国を築き上げたのが本書の主人公チンギス・カンです。

そのためチンギス・カンといえばアジアだけに留まらない世界的な英雄ですが、彼の生涯を(たとえば信長や家康のように)知っている人は少ないのではないでしょうか。

もっとも自分たちの歴史を文字で書き残す習慣を持たなかった遊牧民ということもあり、チンギス・カンの一代記として伝わっているのは彼の死後に編纂された「元朝秘史」くらいしか残されていません。

しかし前述したように世界的な英雄であるチンギス・カンを研究した人は東西を問わず存在し、これらの記録を併せて参考にして書き上げられたのが本書「蒼き狼」です。

彼の生まれた部族には次のような伝承がありました。
上天より命(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白き牝鹿ありき。大いなる湖を渡りて来ぬ。オノン河の源なるブルカン獄に営盤(いえい)して生まれたるバタチカンありき。

チンギス・カンは自らを蒼き狼の末裔だと信じ続け、草原を疾駆してその支配者たるべく奮闘するのです。

しかしその道のりは困難を極めるものであり、有力者であった父の死後に一族のがことごとく離反し、家族だけで外敵からの驚異にさらされながら暮らす日々が何年も続いたこともありました。

本作品の特徴は、チンギス・カンの一生が井上靖の叙事詩のような格調高い文章で一貫して執筆されていることであり、歴史小説というより壮大な英雄譚を読んでいるような気がしてきます。

まだ見ぬ敵を求めて地平線のさらなる先へと進み続けるチンギス・カンと彼と苦楽を共にしてきた武将たち、そして次世代の蒼き狼たる息子たちの姿が浮かぶようであり、かつて世界中を席巻した最強の騎馬民族の見果てぬロマンを感じさせる名作です。

発酵―ミクロの巨人たちの神秘



農学博士である小泉武夫氏による発酵学入門の1冊です。

発酵といえば食品やお酒がすぐに思い浮かびますが、日本食にとっても発酵は絶対に欠かすことのできない要素です。

それは納豆や漬物といった定番の食品以前に、醤油や味噌といった発酵食品がなければ和食という分野自体が成り立たないからです。

世界的に見ても地域や民族ごとにさまざまな発酵食品が存在し、発酵が世界中の食文化を支えているといっても過言ではありません。

しかし本書で紹介されている"発酵"は食品の分野だけにとどまりません。

発酵が重要な役割を果たすのは、化学工業への原料供給、抗生物質やビタミン・ホルモン剤、消化酵素剤といった医薬品、自然界での環境浄化といった生活のあらゆる分野に及んでいます。

発酵によってある物質が人間にとって有用なまったく別の物質へと変わるという現象は、"神秘的"、"奇跡"、"魔法"といった言葉がお袈裟でないほど驚異的です。

そして発酵は、カビ、酵母、細菌によって行われます。
これらはいずれも顕微鏡でなければ観察できないミクロの世界の住人ですが、人類は太古の昔よりこの目に見えない微生物たちの効用を知って活用してきた歴史があります。

そして発酵の研究は今なお盛んであり、次々と新しい発見が続いています。

今まで発酵食品やお酒に関係あるといった程度で認識していた発酵の仕組みを知ることで、その世界の奥深さと重要性を知ることができます。

例えば発酵が無ければ食品のみならず、病気になったときの薬も入手できず、家庭や工場からの排水は浄化できないまま川や海の環境汚染を引き起こし、さらには洗剤など多くの化学製品の供給にも影響を及ぼします。

本書では近代に入ってからの発酵を利用したテクノロジーの解説のみならず、食をはじめとした日本文化における発酵を活用した歴史などにも詳しく言及されており、まさに発酵ずくしの1冊です。

本書は1989にはじめて発表されていますが、専門的な内容でありながらも今なお一般読者に読み続けられている発酵の啓蒙書なのです。

沢彦 (下)



美濃を統一して上洛を果たし、さらには浅井朝倉連合軍を姉川の戦いで打ち破り、上洛を目指した武田信玄が病没するなど危機を脱した信長ですが、その頃から信長の少年時代からの学問の師であり、参謀役でもあった沢彦との間に溝が出来るようになります。

それは比叡山の焼き討ち、長島や越前における一向一揆での老若男女を含めた信徒たちの虐殺(根絶やし)など、信長の統治者としての苛酷な手腕が目立ち始めたからです。

しかもそれは敵対する勢力だけでなく自らの家臣へも向けられました。

たとえば歴代の重臣であろうと、直近の成績が振るわなければ佐久間信盛父子のように容赦なく放逐され、残った家臣たちは休む暇なく必死に転戦を続け実績を出し続けるために必死だったのです。

民の命のいたわらず家臣を大切に扱わない信長を見て、沢彦は諫言しますが信長はまったく聞き入れようとせず、逆に彼を遠ざけてしまいます。

信長は古い権威や伝統的な風習にこだわらず、新しい時代を切り開いてゆく手腕にかけては天才的でしたが、彼の欠点といえるのが戦国時代であることを考慮しても冷酷過ぎるとう部分でした。

単純に言えば、信長はほかの戦国大名と比べて人の命を奪い過ぎていたのです。

そして信長に仕える家臣たちも信長へ対して尊敬よりも恐怖と緊張を抱いていたに違いありません。

そう考えると信長の最期は偶然ではなく、必然であったように思えます。

ストーリーの前半は、家督を継いだ後の不安定な立場にある信長と二人三脚で天下統一という大きな共通の夢へ向かってゆくという内容でしたが、それが現実として形になりつつなると信長は暴走を始め、沢彦の手を離れてゆくのです。

それからの沢彦は不幸にもかつて2人で抱いた夢を終わらせるために奔走するという悲しい展開となります。

壮大な歴史小説でありながらも、一組の師弟の生涯が描かれた作品であるとも言え、数多くの信長を描いた作品の中にあって独特のアプローチによって読者を楽しませてくれるエンターテイメントな作品に仕上がっています。

沢彦 (上)



織田家の重臣であり信長の傅役でもあった平手政秀からの依頼により、信長の教育係となったのが本作品の主人公である沢彦(たくげん)です。

彼は妙心寺で「菅秀才(菅原道真)の再来」と言われるほどの学識を備えており、誰から見ても教育係として申し分ない人物でした。

一方で吉法師と呼ばれていた当時の信長は、うつけ者と評判されるほど奇行の目立つ少年であり、沢彦の前に教育係として招かれた学僧たちはいずれも逃げ出していました。

しかし沢彦は自分がただの教育係として終わるつもりはなく、いずれ信長の名を天下に響かせるための参謀役になるという野心を秘めていました。

実際に彼は、吉法師が元服して"信長"となった際の名付け親であり、岐阜という地名、信長が使った有名な印文「天下布武」の考案者でもあり、元服後も信長の側を離れず参謀として活躍することになります。

沢彦は今川義元の参謀役として政治や軍事で中心的な役割を担っていた自分と同じ妙心寺出身の僧である太原雪斎の存在を強く意識していました。

仏僧といえば世俗から離れ、宗教的な活動や修行に打ち込む人たちといった印象がありますが、戦国時代において学問を身に付けるには僧になるのが最もてっとり早かったのです。

さらにそこで習得した知識を実践して成果を出すには、彼らのように大名の参謀役になるのが最短距離だったといえます。

やがて信長と沢彦は次々と現れる障壁を乗り越え、尾張一国を平定し、太原雪斎亡き後に上洛を目指した今川義元を討ち取り、さらには美濃をも平定して上洛を果たします。

いわば沢彦にとって信長は自分の一生の夢を託した作品であり、その最終目的でもある天下統一という形が輪郭となって現れ始めてきたのです。

織田信長という戦国大名の中でもとくに強い個性を放った人物を、彼の教育係でもあり参謀でもあった沢彦の目線から描くという試みは面白く、新しいアプローチの歴史小説として是非おすすめしたい1冊です。