レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

北の海(上)


本作品は井上靖氏の「しろばんば」、「夏草冬濤」に続く私小説3部作の最後にあたる長編小説です。

本ブログで過去に紹介した増田俊也氏の「七帝柔道記」がとても面白く、増田氏がかつて所属した旧七大学の柔道部員にとって本書がバイブル的な位置付けの作品であることを知ってから、いつか読んでみたい小説として頭の片隅に残っていた作品です。

「七帝柔道記」は柔道を通じて描かれた青春小説でしたが、本書を読んでみて驚くほどその内容が似ていることが分かり、本作品から大きな影響を受けていることが分かりました。

主人公の洪作は井上氏自身をモデルにしています。

洪作は沼津中学(現在の沼津東高等学校)を卒業したものの、受験に失敗してそのまま沼津で浪人生活を送っていました。

洪作は小さい頃から台湾に住んでいる親元から離れて暮らしており、浪人生であるものの勉学へ身が入らず、沼津にある下宿先の寺を拠点に気ままに暮らしていました。

かつての悪友(同級生)たちは地元を離れて東京などへ引っ越ししてしまい、1人で時間を持て余した洪作は母校の柔道部へ連日通うようになります。

そこにはかつての同級生で留年している遠山が在籍しており、洪作にとっては地元に残る唯一の友だちと言える存在でした。

本作品を読むと、「将来の夢や目標へ向かって努力するべき」という価値観が明治明治40年(1907年)生まれの著者の時代から存在することが分かりますが、これは当然の考えとして現代に至るまで脈々と受け継がれています。

一方で誰もが明確な夢や目標を持つことができるとは限りません。

洪作がまさにそういった存在であり、ふらふらと目的のない毎日を過ごし、とにかく友だちと他愛のない会話や遊ぶことが何より楽しくて、漠然とこうした日々がずっと続けばいいと考えている青年でした。

一方で将来の夢は一旦脇に置いておいて、とにかく夢中になれるものが"柔道"だったのです。

そこで四高(現在の金沢大学)柔道部員の蓮実と出会い、練習量がすべてを決定する寝技を中心とした柔道(いわゆる七帝柔道)の存在を知って、やがて惹かれてゆくのです。

本作品には洪作以外にも個性的なキャラクター(洪作の友人)たちが登場し、彼らとのやり取りを読んでゆくと青春時代を思い出すような鮮やかさがあります。

著者と私の過ごした青春時代の間には半世紀以上の隔たりがあるはずですが、ここまで共感させてくれるのは文豪としての井上氏の筆が冴え渡っているからだと言えるでしょう。

また本作品に限らず戦中小説を読んでいても実感するのは、時代が変わっても青春期にある少年・少女たちの持つ不安や希望、好奇心、そして社会へ対する反骨心は本質的に変わらないものであり、世代を超えて共感を得る"力"があるということです。

私自身のことを言えば、ひたすら部活動に打ち込んだ高校時代、さらに勉学へ身の入らない浪人・大学生活を経験したことなどが洪作の姿と重なり、ひたすら共感しながら時間を忘れて読み進めてしまう作品でした。