北の海(下)
井上靖氏の自伝小説「北の海」下巻のレビューです。
主人公の洪作は受験に失敗したものの、参考書も開かず目的のないまま沼津で日々を過ごします。
たまたま四高(現在の金沢大学)の蓮実と出会い、練習量がすべてを決定する柔道(七帝柔道)という存在を知り、浪人生の身でありながらも夏休みに彼らの合宿に参加すべく単身金沢へ向かいます。
洪作には具体的な将来の夢や目標を持っていませんでしたが、ひたすら柔道に打ち込む柔道部員の姿に引き込まれ、四高への進学を決意することになります。
一方で柔道部の練習は厳しいもので、部には次のようなモットーががありました。
- 学問をやりに来たと思うなよ、柔道をやりに来たと思え
- この世に女はいないものと思え
- いっさいものは考えるな
それは半世紀以上のちに北大で同じく柔道に打ち込んだ日々を描いた増田俊也氏の「七帝柔道記」と驚くほど似ている価値観であり、伝統が受け継がれ続けてきたことが分かります。
その世界観は独特で、いわゆる「体育会系」とは違い、「バンカラ」的な要素も多分に入っている価値観で、この空気感がそのまま本作品の魅力になっています。
洪作は夏の間、ひたすら金沢で柔道に明け暮れますが、彼の身分は浪人生であり、そもそも勉強などせずに教師に「極楽とんぼ」と揶揄されるほど自由奔放に過ごしてきました。
そんな洪作が練習も規律も厳しい柔道に打ち込むことになったのは皮肉ですが、それがまた青春らしさを感じさせてくれます。
またこの作品に出てくる登場人物はいずれも個性的であり、それぞれの魅力を備えているという点も見逃せません。
大天井、鳶、杉戸といった金沢で出会った柔道部員、中学時代からの悪友である藤尾、木部、金枝、地元の柔道仲間である遠山、色々と世話を焼いてくれる宇田先生夫妻など、いずれも損得勘定抜きで洪作と付き合ってくれる人たちばかりで、心が温まるエピソード、ときには感情的になって口論や喧嘩になるシーンなど、印象に残る場面が数多く登場します。
男ばかりの汗臭い物語に終始するわけではなく、料理屋でバイトをしているれい子はマドンナ的存在であり、洪作へ密かに想いを寄せるエピソードなども登場します。
青春小説としてはほぼ完璧な構成であり、時代を超えて多くの読者を惹きつける名作であるといえます。
唯一惜しいのは、洪作が四高へ入学したあとのエピソードは小説化されていないという点だけでしょうか。
