本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

新書 沖縄読本

新書 沖縄読本 (講談社現代新書)

90年代後半から21世紀初頭に訪れた「沖縄ブーム」。

そのブームがひと段落した今、沖縄ブームの中心にいた2人の作家が"現在の沖縄"を再検証した1冊です。

今でも沖縄へ対して南国の明るいイメージや独自の文化に魅力を感じる人は多いと思います。

しかし数字上で見ると、沖縄の長寿県としての地位が揺るぎつつあり、高い失業率や離婚率、そして全国で最も低い平均所得といったネガティブな要素が並びます。

また数字に見えない部分でも、太平洋戦争で唯一の本土決戦となった戦場としての歴史、そして戦後のアメリカ統治時代、日本復帰後から現代に至るまでも米軍基地移転問題が横たわっています。

言語や食文化、宗教や音楽など様々な分野で伝統的な文化を保ち続けているという沖縄のイメージは、音を立てて崩れ落ちつつある危機が目の前に迫っています。


本書に沖縄の明るいイメージは微塵もなく、全編に渡って沖縄の抱える問題、そして問題に至った病巣をするどく考察しています。


著者たちは長年に渡って沖縄を取材し続けてきた経験を持っており、過去の著書の中には、沖縄への憧れを無邪気に煽ってしまうような本もありました。

しかし、そういった本を書いてきた本人たちが沖縄の問題に真正面から切り込むところに本書の価値があると思います。

例えば米軍基地の沖縄からの県外移転1つをとってみても、引き換えともいえる補助金漬けの政策によって成り立っている産業があり、本音と建前が複雑に交差しています。

歴代政権も政治的な致命傷になりかねない沖縄の基地問題へ対し、まるで腫れ物に触るかのような一貫性のない政策を行ってきました。


米軍基地を沖縄から無くし、経済的にも独立できるのが沖縄にとって最もよいシナリオであることは確かですが、その道筋は困難を極め、残念ながら本書でもその解決策は提示されていません。

私の周りにも沖縄へ進出している企業が幾つかあります。
しかし実際には、コールセンタなどの業務を不況で人件費が安い沖縄へアウトソーシングしているに過ぎず、表面的にはともかく、継続的な雇用や独自のノウハウに繋がるようなビジョンを本気で持っている企業は殆どありません。

更に沖縄の文化や歴史的背景に配慮している企業となると、まったくの皆無です。

こうしたアウトソーシングの動きも、より人件費の安い中国やインド、ヴェトナムへと移りつつあり、沖縄から見た未来は決して明るいものではありません。

そもそも大きな資本を呼び込んで安易に雇用を創出しようとする底の浅い政策が間違っていて、沖縄を地盤に新たに起業するベンチャー企業へ対してこそもっとも手厚い優遇政策を行うべきです。

話が少し脱線しましたが、はじめに問題を直視しなければ解決の糸口は永遠に見えてきません。

本書は現実に存在する沖縄の問題を直視するという意味では、大変有意義な1冊です。

No.1理論―「できる自分」「強気の自分」「幸せな自分」

No.1理論―「できる自分」「強気の自分」「幸せな自分」 (知的生きかた文庫)

イメージトレーニングの第一人者である西田文朗氏による自己啓発本です。

西田氏の理論は、ある程度"脳科学"に基づいたものであり、決して荒唐無稽なものではありません。

著者が代表をつとめる能力研究室サンリは、スポーツや会社経営の分野で多くの実績を挙げていますが、本書はその核ともなるべき「プラスイメージ」、「プラス思考」を分かり易く解説しています。

実績のある人が唱える自己啓発を実践したいと考えているのであれば、本書は最適でしょう。


本書のカバーにも書かれていますが、プラスイメージが身に付いて自然に成功する人間の心理は以下のようなものであるとしています。

  • 「自分は他の人とは違う。非常にツイている人間だ。だから必ず成功する!」
  • 「自分は何かに守られている気がする。ありがたい!だから自信がある!」
  • 「自分はまだ何も結果を出していない。これからがスタートなのだ!」
  • 「今までの人生はウォーミングアップである。ますます自分はよくなる!」

一方で"努力すれば成功する"といった考え方は誤りであるとし、一流と二流の差は"ツキ"にあると断言しています。

これだけ読むと、"ツキ"は自分でコントロールできるものでないため「?」と思いがちですが、"ツキ"は自分以外の人間が呼んでくれるものだとし、そのためには"プラス思考の人間"と付き合うべきだとしています。

本書は心の癒しや平穏を求める本ではなく、あくまでも積極的に"成功"を掴み取る方法を趣旨に書かれています。


紙面の都合もあり、それ程深く掘り下げた内容にはなっていませんが、基本となる考え方については充分に学べる内容になっています。

より詳しい実践を行いたい人には、西田氏のほかの著書も参考にしてみる、もしくはセミナーも頻繁に開催されているようなので、参加を検討してみてはどうでしょうか。

本書に限らず少なくとも自己啓発は、まず自分の考え方を変えることからはじまります。

そのため本屋に並ぶ数え切れないほどの自己啓発本を読み漁るより、自分に合った本を何度も読んで少しずつでも実践することをお勧めします。

潜入ルポ ヤクザの修羅場

潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書)

ヤクザ専門のルポライターという珍しい肩書きを持つ"鈴木智彦"氏の集大成ともいえる取材記録です。

裏社会、そしてバイオレンスを題材とした映画や漫画が多いように、男なら一度は興味を持つ世界ですが、その実態と虚像に迫っています。

著者は長年に渡ってヤクザを取材してきましたが、その過程でヤクザとの同棲や、恐喝や暴力を何度も受けて生きたという経験の持持ち主です。

ヤクザ専門誌での編集長時代、歌舞伎町でのヤクザマンションでの生活体験、ヤクザや元愚連隊との同棲、遊郭で有名な飛田新地にアパートを借りての潜入取材、賭博の現場取材など・・普通に生活していたら一生縁がない裏の社会が次々と紹介されます。

言うまでもなく暴力団(ヤクザ)の活動は法律外(=違法)であることが多いですが、彼らの世界にも長年に渡って培われた秩序が存在し、こうしたルールを(無意識含めて)破ってしまった時には、一般社会では考えられない程の厳しいツケを払うことになります。

これはヤクザ全般が上下や組織の力関係、そして体面を何よりも重んじるためであり、決して「肩で風を切って歩く」ような気楽な稼業でないことを実感させられます。


加えて年々強化される暴力団の排除条例の影響もあって、その活動範囲は狭まりつつあり、ヤクザは完全に斜陽産業となりつつあります。

いつ潰れるか分からない、しかもその原因を作り出す相手は国家権力です。


暴力団員であれば、入店拒否をされる、銀行口座を開設できないなど、一般人と同じ生活を送るのはまず無理です。

分かり易くいえば、一般人との接触さえも制限されているため、孤立を深めて社会的弱者とまで言われる立場になりつつあります。


「人間社会から"悪"を根絶する。」


私自身、それが理想論に過ぎないことは分かっていますが、暴力団が"悪"のすべてに関与している訳ではありません。

暴力団が担ってきたことは、日本社会の仕組みの一部であり、その中の"必要悪"を担ってきたという見方もできます。


世論で暴力団排除条例に反対する人たちが少数であるのは確かですが、安易に「暴力団の絶滅=悪の絶滅」という理論に摩り替えてしまうのは危険です。


著者は暴力団を全滅することで、地下組織化して全容の把握が困難になると同時に、より無秩序、凶悪な"悪"を生み出しかねない危険性を指摘しています。


本書の潜入ルポは取材対象の性質から匿名性の高いものになっていますが、ヤクザとの間に絶妙なバランスをとりつつ行っているものであり、この類の本の中では極めてリアリティとクオリティ共に高い作品です。

ヤクザへの興味有無に関わらず、日本の社会問題という観点からも充分に考えさせられる1冊です。



忍びの国

忍びの国 (新潮文庫)

のぼうの城」に続いて発表された和田竜氏の作品です。

前作の主人公は戦国武将でしたが、今回は少し雰囲気が変わって忍者が主人公です。

物語の舞台は忍者で有名な"伊賀の国"
織田信長の次男"信雄"は伊勢の有力大名"北畠具教"を滅ぼし、隣接する伊賀への侵攻を企てはじめる時期から物語がはじまります。

伊賀は戦国期においても強力な支配者(大名)が生まれず、一種の自治共和制のような独自性を維持しています。
国土の大部分が山林という地形も影響し、有能な伊賀忍者を生み出す土壌となりました。

そんな中央権力が行き届かない混沌とした地域であるがゆえに小説の舞台としてはうってつけであり、伊賀の有力豪族"百地三太夫"配下の凄腕忍者"無門"が縦横無尽に活躍する小説です。

戦国武将が主(あるじ)を持ち、正面から敵と渡り合う武芸や名誉を重んじたのに対し、忍者は奇襲やゲリラ戦法に特化し、名誉に関係なく報酬に応じて働くといった対極に位置します。

見方を変えれば両者が軍人であることは共通していますが、武将が正規軍であるのに対し、忍者は傭兵部隊であるといえます。

小説に登場する無門は、典型的な忍者として主従関係や名声に無縁であり、報酬に応じて自分の好きな仕事をこなすといった自由人として暮らしています。

信長や主の三太夫でさえ無門を従わせることは出来ない中で、唯一他国からさらってきた内縁の妻には頭が上がらないという設定が面白いところです。

義理に縛られた武将たちを小馬鹿にして自由奔放に生きてきた無門ですが、信長という強大な勢力が生まれ伊賀への侵攻が行われる中で、時代の流れに巻き込まれずにはいられなくなります。

様々な忍術を駆使してのアクション、目まぐるしい攻防は充分に満足できる内容です。

賛否が分かれるところですが、和田氏の小説は戦国時代を舞台にしたものであっても分かり易い現代語で書かれているため、歴史小説を敬遠していた人でも抵抗なく受け入れられるのではないでしょうか。

のぼうの城 下

のぼうの城 下 (小学館文庫)

下巻に入り、石田三成率いる10倍近い秀吉軍がいよいよ忍城に押し寄せることになります。

そもそも長親が徹底抗戦を選んだ理由は、三成の送った使者"長束正家"の無礼で威圧的な態度、そして秀吉が美貌の誉れが高い"甲斐姫(城主氏長の娘)"を側室に望んだというのが本作の設定です。

小説での甲斐姫は長親に惚れており、そして密かに甲斐姫を好きだった普段は暗愚な長親が、一世一代の大勝負に出た瞬間でもありました。

一方で領民にとっては領主が勝ち目の無い戦をはじめることは迷惑であり、土地を荒らされる前にさっさと降伏して欲しいというのが本音ですが、城主となった長親のためにこぞって篭城戦に協力することになります。

あの頼りない長親が戦をはじめるのならば、自分たちが助けなければ仕方ないという、これも突拍子のない理由です。

史実においても秀吉の大軍を前に北条一族でもない忍城の成田氏が、勝ち目の無い戦いを挑んだ理由は不明ですが、領民が篭城して一致団結して戦ったのは史実のようで、長親が領民に慕われていた可能性は充分にあります。

長親に近い型の武将を探そうとすれば、漢の"劉邦"がもっと近いイメージであり、本人は何もしなくても自分を慕う家臣たちが押し寄せる三成軍を前に奮戦を続けます。

そこで三成は七里(28km)に及ぶ堤を作り、有名な忍城水攻めを行います。

埼玉県行田市の水郷公園などを見ると当時の面影がありますが、昔この一帯は池や沼地が広がる湿地帯であり、忍城自体が普段から"浮き城"と呼ばれるほど水に縁があった城です。

ここでも領民たちの協力もあって堤を破壊し、逆に三成たちに甚大な被害が出ます。

しかし小田原城が陥落したことを知り、北条勢として戦った忍城軍もついに開城(降伏)することになります。

開城する際にも堂々とした態度で城を明け渡す姿は、無敵の秀吉軍を前に一歩も引かずに戦った武士たちの誇りを感じます。

圧倒的に強い敵に攻められ、自らの命どころか一族・家臣の命運がかかった状態で臆せず戦いを挑める武士は、勇敢な人物の多かった戦国時代においてさえ多くはなく、ここまで見事に戦い抜いた例は更に希少です。


関東の片田舎の小さな城で繰り広げられた戦いは、現代の私たちにも目に見える勝ち負け以上に大切なことを教えてくれているような気がしますし、それが多くの読者に支持されている理由ではないでしょうか。

のぼうの城 上

のぼうの城 上 (小学館文庫)

信長の後継者争いに勝利し、四国・九州を平定、そして家康を実質的に傘下に加えた時点で秀吉は事実上の天下人となります。

残る北条氏の勢力は秀吉の前には比ぶべくもなく、あっけなく滅亡の道を辿ることになります。

これは秀吉の率いる大軍勢を前に、見込みの無い愚かな篭城戦という戦法を選択した以前に、北条氏政・氏直親子の時代の流れを読めない戦略眼の欠如が最も大きな要因でした。

ここまでは日本史の概略になります。

しかしその影で関東八州の片田舎とはいえ秀吉軍(石田光成)の大軍を前に一歩も後ろへ引かずに小田原城の落城後も持ちこたえた小勢力があります。


それが本書の主人公、忍城(おしじょう)城主"成田長親"です。


忍城は武蔵の端に位置する片田舎ですが、平安時代から室町時代に至るまで日本を席巻し最強の武士として畏怖された"坂東武者"の本拠地ともいえる場所で、長親はよほどの豪傑だと期待してしまいますが、作品の始めからそのイメージを裏切られます。


本書に登場する長親は、鈍感・不器用で家臣どころか領民からさえ"のぼう様"(でくのぼうの意)というあだ名で呼ばれている人物として描かれています。

しかも正確には長親は城主ですらなく城主"成田氏長"の従兄弟として、冴えない日々を送っています。
やがて氏長は北条氏に味方すべく小田原城へ入城しますが、この時すでに秀吉へ対して内通の約束までしている用意周到さです。

当然のように氏長の命令で忍城を攻めてくる石田三成へ対しては降伏を行う手筈になっていましたが、些細なきっかけで城代として残された長親は徹底抗戦を決心します。

教科書に載らないどころか、地元の人にさえも知られていない"成田長親"を歴史の中から掘り出して蘇らせた著者の和田竜氏の描く長親像はとてもユニークです。


それに加え彼を取り巻く家臣団も武勇兼備の"正木丹波守"、典型的な豪傑の"柴崎和泉守"、軍師を自負する"酒巻靱負"といった個性的なキャラクターに彩られています。


彼らと長親のやりとりは今までの歴史小説では少ない軽快さがあり、戦国時代のファンでなくとも充分に楽しめる内容になっています。

濁流〈下〉―企業社会・悪の連鎖

濁流〈下〉―企業社会・悪の連鎖 (徳間文庫)

上巻に引き続き読者の期待を裏切り続ける主人公の田宮は、絶対的な独裁者である杉野の思惑通り、長女の"杉野治子"と交際を行うハメになります。


しかし実際に交際を続けてゆく中で、治子自身や母(=杉野の妻)や兄も家庭を顧みない父親のやり方には反発を抱いていることが判明し、吉田を中心とした若手社員の後押しもあり、少しずつ田宮は社長のやり方に反対する言動を見せ始めます。


これには、治子との間に心を通じ合わせ、愛し合う関係になってゆく田宮自身の心境の変化も関係しています。


ただし結果として、田宮は役員に昇格したにも関わらず1週間で2度も降格させられるなど、独裁者へ挑戦したツケを支払わされることになってしまいます。。。


そこへ社内No2の実力を持つ謎の美人秘書である古村が、田宮に近づき驚愕の取引を持ちかけるなど、とにかく怒涛の結末に向かって物語は一気に動き出します。。。


確かに会社を興し、独裁者(オーナー)として君臨する杉野は、運だけではなく当然実力もあります。一方で、その体制が長年に渡って続くことで、地位や欲望に囚われるようになるのが、人間の悲しい性です。

それゆえ当たり前の倫理観を失ってしまうという典型的な人物として描かれています。

そこには企業を私物化する行為への作者の痛烈な批判が込められていますが、"裸の王様"のように側近からさえも心から忠誠心を抱く人間を失ってしまった悲しい孤独な人間の姿が垣間見れる気がします。

濁流〈上〉―企業社会・悪の連鎖

濁流〈上〉―企業社会・悪の連鎖 (徳間文庫)

ビジネスマン小説の大御所である高杉良氏による長編小説。

1990年台初頭、産業経済社という会社を舞台に繰り広げられる人々の欲望と葛藤を描いた意欲的な作品です。

産業経済社のオーナー社長である"杉野良治"は、絶対的な権力者として君臨しています。

早い話がワンマン社長であり、彼の指示する命令は人事、事業に関わらず誰も逆らうことは出来ません。

挙句に自らが信仰する新興宗教への加入、活動を社員に強制する力まで持っており、財界や政治家とのコネをバックに金のためなら恫喝も厭わない強引な手法は、"鬼のスギリョー"のあだ名で社内のみならず多くの企業から恐れれている存在です。

もちろん杉野は架空の人物ですが、モデルとなった人物があり、作者の技量も冴えていることもあって極端な独裁者として描かれているにも関わらず、現実感のある印象を読者へ与えます。


ほかにも産業経済社には、主人公である若手幹部の"田宮大二郎"、社内で2番目の実力を持つ謎の美人秘書"古村綾"。杉野の腰巾着として保身を図る副社長"瀬川誠"。クビ覚悟で会社へ対する反抗心を見せる若手の実力社員"吉田修平"といった個性的な人物がいます。

これに加えて様々な業界の経営者が登場しますが、いずれも元となるモデルが存在するひと癖もふた癖のある人物たちが次々と登場し、読者を飽きさせません。


もちろん読者は主人公"田宮大二郎"が独裁君主である"杉野"へ対して挑戦を行うストーリーを期待しますが、実際には歯がゆい展開が続きます。


田宮は気配りの利く有能な人物で社長秘書を務めることから、長女との交際を勧められるほど杉野のお気に入りであり、それを断れない弱腰な姿勢が目立ちます。

それどころか杉野の代理として弱みを持つ企業から(広告費という名目で)金の取立てを行い、歓心を得るために杉野の信じる新興宗教へも積極的に参加します。要するに納得していない本心を押し殺しながら、杉野の忠実な僕としての日々を過ごしてゆきます。

確かに総理大臣さえも呼び出せる権力を持つ杉野の前には、若さと情熱だけでは決して敵う相手ではなく、実際には現実的な選択であるといえます。

そこには主人公の目線から、企業同士の癒着や裏取引など、実際に起こっていることに近い腐敗した経営者や政治家がいる現実を読者へ伝えたいという作者の意図が感じられます。


また"鬼のスギリョー"に対抗する気骨のある経営者も登場しますが、メディアの力を利用して襲い掛かる杉野の前に例外なく屈してしまいますが、一見、杉野に賛同する姿を見せている人たちの中にも"鬼のスギリョー"を面白く思っていない人たちもあり、結末の見えない混沌とした状況のまま下巻に続いてゆきます。

著者の渾身の大作という印象が全編から伝わってくる読者を飽きさせない展開が続きます。

老子の無言

老子の無言

孔子と並ぶ中国の思想家"老子"の教えを分かり易く解説した本です。

本書の特徴は単に老子の教えを解説するだけでなく、無理のない範囲で普段の生活に活かす方法を紹介しています。

よって老子について体系的な知識と正確な訳語を学びたい人には向いていないかも知れません。


冒頭に「上り坂の儒家、下り坂の老荘」と俗に言われる通り、儒教が君主の学問(≠帝王学)としての側面があるため、物事がうまく運んでいる時には孔子に学ぶのがよく、行き詰まって現状を打破したい時には、老子に学び根本を革新する重要性を訴えています。


ここで本書のほんの一部を簡単に紹介したいと思います。


・足るを知る者は富む
老子の有名な言葉です。
人間は不満の原因を外に求めがちですが、幸せは自分の中にしかない(=自分の感じ方次第)と気付くことができます。人間の欲望は悪いことばかりではありませんが、時には自分自身を見失わせるものであり、ふと歯止めをかけてくれる言葉です。


・善く戦いに勝つ者は争はず
これも現代のビジネスマンへのアドバイスになります。
老子は対抗心が対抗心を呼び、結果として不幸を招く争いに悩むことになると説いています。
心の持ち方次第で、無用な争いを避けられる場面があることを気付かせてくれます。


・功成り名遂げて身退くは天の道なり
成功の果てに更に大きな成功を目指すのは良い面もありますが、絶頂期を見誤って名を汚してしまう例も少なくありません。自らの利己心が膨らみすぎていないかを省みる必要性を教えてくれます。



老子については、バブル崩壊以降、殺伐としてストレスの多い社会を反映して見直される機会が多いように感じます。

決して老子一辺倒になる必要は無いと思いますが、日々の中でライバルに打ち勝つ方法論に偏り過ぎ、一番大切な"自らに克つ"ことを忘れてしまいがちです。


また"自らに克つ"ためには、力や知識は余計なものであり、水のような自由・柔軟さ(上善水如)が必要です。

2500年前に生きた老子の言葉は現代においても大事なことを気付かせてくれます。