草原からの使者―沙高樓綺譚
都心の青山の一等地にある高層ビルの最上階。
"沙高樓"を呼ばれるその場所には、社会的な名声を得た人のみが参加を許される夜会が開催されます。
楼主は女装した神秘的な雰囲気の男性。
彼の決まった台詞の後から招待されたゲストによる物語が始まります。
「今宵もみなさまがご自分の名誉のために、また、ひとつしかないお命のために、あるいは世界の平和と秩序のためにけっして口になさることのできなかった貴重なご経験を、心ゆくまでお話くださいまし。語られる方は誇張や飾りを申されますな。お聞きになった方は、夢にも他言なさいますな。あるべきようを語り、巌(いわお)のように胸に蔵うことが、この会合の掟なのです。」
本作品は文芸雑誌で連載されているシリーズものであり、今回登場するのは、大物政治家の秘書、一文無しになった財閥の御曹司、日本を代表する馬主、そして退役した米軍軍人といった顔ぶれです。
夢か現実か分からないような体験が語られる物語は、さながら現代を舞台に繰り広げられる「千夜一夜物語」です。
短編ならではの怒涛のようなファンタジー&ミステリーのような展開が多く、浅田次郎氏が得意としている人情モノとは作風もテンポも異なり、著者の新しい側面を垣間見ることが出来るシリーズです。
あえて余韻を引きずるような、もっと分かり易くいえば結末をわざと曖昧にした終わり方が作品共通の特徴です。
地位や権力を極めた、あるいは特殊な肩書きを持つ人たち。
良し悪しは別として、そうした人たちが時に体験する"尋常でない世界"が本書で繰り広げられます。
そして観衆(読者)の知的好奇心を満たしながらも、その全貌は決して明らかになることはない。
何ともいえない感覚を読者に与えてくれます。
その意外性から浅田氏のファンほど本書へ対する評価が低くなるかも知れませんが、著者の小説家として奥深さを発見したかのような気分で、個人的には非常に楽しく読めました。
脳がよみがえる断食力
以前紹介した「半断食」健康法 に続いて断食をテーマにした本です。
前回が朝食を抜くことに主眼を置いて継続的に実践する"半断食"であるのに対して、本書は短期で集中的に行う"完全断食"に主眼を置いた本です。
まずはアスリートを中心とした断食による五感の冴え、体の切れ、精神的な安定といった様々な効果を紹介しています。
五感を研ぎ澄まし、万全の体調を整えておく必要があるアスリートにとって有益な方法は、一般人にとっても参考になる部分が多いと思います。
更に著者は「脂質(油)」に着目し、何よりも重要視する栄養素であると主張しています。
自然界に存在しないマーガリンに代表される「トランス脂肪」は決して摂取してはいけないと主張しています。
さらに肉類やバターに含まれる飽和脂肪酸、不飽和脂肪酸の中でもオメガ6グループに属するノール酸が多く含まれる植物油(ベニバナ油、コーン油)も脳梗塞や心筋梗塞の原因となるため控えた方が良いようです。
一方で細胞膜をやわらかくし、血液をサラサラにするオメガ3(フラックスオイル、青魚)の不飽和脂肪酸を積極的に摂ることを推奨しています。
少し断食から脱線している気もしますが、"脂肪"は一括りに悪いものであると考えがちの現代人にとって、積極的に摂取する必要のある油が存在するのは勉強になる部分ではないでしょうか。
そして肝心の断食方法についてですが、よほどの覚悟が無いと一般人には厳しい内容かも知れません。
まず断食によって体が生まれ変わるのは1週間が必要だとし、断食中にも必要最小限の栄養素を摂取することが推奨されていますが、本書では"特製ドリンク"という言葉に集約しており、そのレシピの内容が不明なのです(内容から有機栽培、無農薬の野菜ジュースであることは推測できるのですが。。)。
よって本書を読んだだけでは著者の紹介する「断食法」を実践するのは難しく、はっきりいって残念な点です。
最近ではMLBへ移籍したダルビッシュ投手が断食を取り入れており、アスリートの中にも少しずつ浸透しつつある"断食"への知識を得るレベルであれば読んでみて損はないと思われます。
晩年
「津軽」に続いて太宰治の作品です。
本書は短編集の形で作品ごとの執筆手法も異なるため、全体的なイメージが掴み辛いかも知れません。
太宰ほど自分自身の心境を吐露しつつ小説を書いた作家も珍しいと思いますが、その思考の経緯さえも長々と作品の中に挿入してしまう"ふてぶてしさ"があります。
小説家という自身の職業に軽蔑を抱きながらも、ライバル作家や後世の評価をまったく無視する境地にまで至ることのできない、人間らしさが漂っている作品が個人的には好きです。
本書は15編の作品が納められていますが、お気に入りは「思い出」、「道化の華」、「彼は昔の彼ならず」あたりでしょうか。
文学というと美辞麗句が並ぶ文章と敬遠しがちな人も、太宰治の作品がそうした表現から縁遠い庶民のための小説であると実感できる代表的な短編集です。
津軽
太宰治氏の代表的な随筆です。
出版社に故郷である青森を題材にした作品の執筆を依頼され、20年ぶりに故郷の青森(正確には津軽半島)へ取材旅行へ出かけることになります。
はじめこそ自らを松尾芭蕉になぞらえて、禁酒や粗食を自らに課すなど今回の取材旅行へ対する意気込みを感じますが、あっという間に旧知の人々と酒を飲み交わすために旅へ出たかのような"体たらく"になってしまいます。
何となく旅程も行き当たりばったりですが、太宰の個性と軽妙な筆運びがまるで「ぶらり途中下車の旅」のような雰囲気を醸し出します。
津軽へ対する感想の中に故郷自慢のような内容は殆どなく、所詮は学校の日本史授業にも殆ど登場しない本州最北端の田舎という自虐的な見方が大半を占めています。
ただし不思議なことに読み進めるうちに、それは津軽という土地や人々へ対する哀れみ、共感、愛情といったものが根本にあることが感じられ、いつしか"太宰治"ではなく、本名の"津島修治"としての姿が垣間見れます。
その最たる例が、本作品の締めくくりに今回の旅の最大の目的であった幼い頃の子守役"たけ"と再会する場面であり、太宰らしく意図的に大げさな表現を避けて書かれているようにも感じられ、それが平凡ながらも静かな感動と余韻を読者へ与えてくれます。
歴史、風俗的な通説を交えながらも、太宰独自の主観が前面に押し出されており、決して文献を読んだだけでは分からない、肌で感じた昭和19年当時の"津軽"の風景を読者へ伝えてくれます。
1つだけ残念なことがあるとすれば、この取材旅行当時は大東亜戦争真っ最中であり、日本全土が本来の日常では在り得なかったことです。
太宰治の作品というと、文学というイメージを持たれるのが普通だと思いますが、太宰が無頼派の小説家と言われるように、洒落や滑稽さを交えて人々の暮らしの目線に立って描かれた本作品は、決して敷居の高いものではありません。
むしろこれだけ面白く読ませてくれるエッセイ風旅行記を見かけるのは、現在でも稀ではないでしょうか。
奥州藤原三代の栄華と没落
高橋克彦氏の「火怨」「炎立つ」を読み、東北の歴史を整理したくて手にとった1冊です。
タイトルに"奥州藤原三代"とありますが、実際には縄文時代(石器時代)の考察から始まり、陸奥の平安時代~鎌倉時代までを網羅して執筆しています。
明治学院大学の教授が執筆した専門書に近い本ですが、内容は難解ではなく、先ほどの陸奥三部作を読了したレベルであれば充分に理解できる内容です。
歴史小説の場合にはストーリー組み立ての都合から描写の視点や場面が偏ってしましますが、そこが小説の魅力でもあるが故に避けることはできません。
一方で歴史を俯瞰して見るために、本書のように学者からの視点を取り入れるのも有意義です。
小説の世界観に奥行きを持たせることもできるため、歴史小説好きには是非お勧めしたい方法です。
奥州藤原氏のように歴史的な権力争いに敗れた側の資料は乏しいのが常であり、本書は残された断片的な原資料へ理論的に推測を加え、なるべく藤原氏が支配していた当時の陸奥の姿に迫ろうとしています。
奥州藤原氏の外交感覚は優れており、朝廷に対しても天皇や上皇といった最上位の権力者の実態を見抜き、摂関家といった実際の政治を取り仕切る公家を通して接近を行い、陸奥の支配を確固たるものにしていたという学説は一致しているようです。
続いて登場する平清盛に代表される武家へ対しても同様の政策による陸奥の完全な自治の掌握を続けてゆくことになります。
しかし源頼朝の台頭により世の中の勢力図が激変し、ひたすら静観を続けた藤原氏はやがて滅亡の道を辿ることになります。
藤原氏がかくまった源義経の伝説についても諸説触れられており、新書という条件の中で一通りの要所が抑えられていて、(専門家ではなく)歴史好きというレベルであれば充分満足できる内容でした。
今後は東北地方に広がっていたアラハバキ信仰について書かれている本があれば、いつか探して読んでみたいですね。
「半断食」健康法
世の中に溢れている健康法。
その大半を占めるのが食事の改善による健康法ですが、体内に何を取り入れるではなく、体内からいかに余分なものを排出するかに着目した健康法が本書に書かれている内容です。
現代の小学校でも「朝食はしっかり食べよう」というのが基本方針であり、大人でも疑いのない常識として信じている人が大半ですが、本書はその常識を根底からひっくり返す断食による健康法を提唱しています。
断食という健康法は東洋的な方法のようですが、西洋でも断食を積極的に取り入れている病院があり、世界中にその事例を見ることが出来るのは驚いた点です。
本書はその健康法の根拠について、東西医学問わず様々な事例を挙げることにページを割いていますが、肝心の実践内容は極めてシンプルで、以下に集約といっても過言ではありません。
- 朝は何も食べない(もしくは手作りの人参+りんごジュースを摂取)
- 昼はそばやラーメンなど消化のよいものを食べる
- 夜はお酒含めて好きなものを食べてOK
- 上記に加えて、1ヶ月おきなどに定期的な完全断食日を設ける
人類の300万年の歴史から見れば飽食の時代はわずか100年にも満たず、人間は"飢餓(空腹)"の状態であるのが普通であることを前提とした理論は納得できます。
飢餓時にも人間が活動できるように備えて、血糖値を上げるホルモンは複数存在するにも関わらず、血糖値を下げるホルモンは1種類(インシュリン)しか存在しないという人間の体の仕組みから見ても、著者の理論には頷けるものがあります。
つまり高価な食材や薬、不自然な運動に頼る健康法よりも断然説得力に勝ります。
もちろん過大な期待を抱いて、劇的に健康になれると思わない方が良いでしょうし、本書でも触れられているように専門家がいない環境下における長期の断食が危険であることは間違いありません。
健康な人であれば3食を2食に減らしても命に別状があるとは思えないので、本書を読んでこうしたレベルから試してみてはいかがでしょうか?
青雲はるかに〈下〉
前巻で、魏の宰相である魏斉の一方的な仕打ちから奇跡的な生還を遂げた范雎ですが、復讐を誓いつつも表面上は穏やかに日々が過ぎ去ってゆきます。
友人の"鄭安平(ていあんぺい)"が范雎へ対し、
「大きな成功を得るには長い年月がいる。早い成功は限界をつくる」
と言ったように、いつしか四十代に達した范雎が悠然として過ごす姿は、完全に自らの運命を天に委ねてしまっているかのようです。
しかし天は范雎を見放すことはありませんでした。
長い月日が流れ、秦から魏への使者として訪れていた"王稽(おうけい)"によって、ついに見出される日が来ることになります。
秦へ入国してから"昭襄王(しょうじょうおう)"に仕えることになりますが、魏侯という重臣と昭襄王の母の宣太后によって、実質的に秦が支配されている状態であり、なかなか重用される日が来ることはありません。
范雎はこの状態を昭襄王へ直言し、あるべき秦の方向性を示すことで目を覚まさせることに成功します。
やがて魏侯と宣太后は失脚し、范雎は秦の宰相に就任することになります。
当時の秦は戦国時代において最も勢力を持った国であり、すなわち秦の宰相は人臣の頂点を極めたということになります。
これは同時に魏の宰相である魏斉との力関係が逆転し、ついに復讐の機会が到来したことを意味します。
羽陽曲折がありながらも魏斉へ念願の復讐を果たし、魏斉の妾となっていた原声を取り戻すことに成功し、更には鄭安平はじめ恩を受けた人々へ対して地位や金品によって報いる場面はこの作品のもっとも華やかな場面となります。
もちろん秦の名宰相といわれた范雎は魏への復讐だけでなく、大きな視点に立てば、彼の立案した戦略により秦の中国統一が百年は早まった言っても過言ではありません。
今から2200年以上の前の出来事を舞台にした作品であるにも関わらず、人間の普遍的な輝きと感動を読者に与えてくれる大作です。
青雲はるかに〈上〉
春秋戦国時代の歴史小説を書かせたら第一人者である宮城谷昌光氏による1冊。
本書は中国の戦国時代後期に秦の名宰相として活躍した"范雎(はんしょ)"を主人公とした作品です。
各国で遊説を続けるも仕官敵わず、夢に破れかけた三十代半ばの男が1人帰郷の途につくところから物語が始まります。
その途中に運命の女性"原声(げんせい)"と出会い、彼の運命は少しずつ変わり始めます。
多くの学派が「諸子百家」として開花し、それらを信奉する弁舌家や様々な能力を持った"食客"と呼ばれる人間たちが闊歩し、栄達という野心を胸に多くの人々が自らを売り込もうとしていた時代でした。
范雎もその中の1人であり、他人を蹴落として自らの才覚を押し出すことしか考えていなかった今までの人生を振り返り、唯一の友人である"鄭安平(ていあんぺい)"の妹の不自由な足を治すために自分のすべてを賭けることを決意します。
しかし不自由な足を治すためには高価な薬が必要であり、そのための金を工面すべく、心ならずも魏の"須賈(しゅか)"に仕えることになります。
そこで頭角を表すべく仕えていた矢先に、魏の宰相である"魏斉(ぎせい)"に無実の罪で疑われ、鞭で半死になるまで打たれた挙句に、簀巻きにされて厠の下へ投げ落とされてしまいます。
半死ながらも番人にすがることで何とか九死に一生を得ますが、逃亡した范雎へ対して国中に厳しい手配が回ることになります。
余りにも理不尽な仕打ちですが、宰相という地位にある魏斉と位の低い陪臣でしかない范雎の間には、天と地ほどの実力差があります。
それでも健康を取り戻した范雎は、魏斉へ対して復讐を誓うことになります。
喜怒哀楽、多くの感情は時間と共に薄らいでゆきますが、"憎しみ"という感情は唯一、時間が経過しても減衰しないと聞いたことがあります。
范雎の魏斉へ対する復讐は単純なものではなく、魏斉との立場(権力)を逆転させた上で成り立たせるという、途方の無い手段によるものです。
やがて鄭安平の妹の足が完治し、范雎は自らの志が達成されるという予感を確信するに至ります。
この作品の主題は壮大な復讐劇のようにも思えますが、決して陰湿な内容ではなく、1人の人間が抱く信念、そして夢の可能性を感じさせてくれる前向きな内容となっています。
歴史小説として純粋に面白いのはもちろんですが、今から二千年以上前に大きな苦境を乗り越えた偉大な先人の物語としても勇気付けられる内容になっています。
天を衝く(3)
九戸政実の生涯を描いた「天を衝く」も今回で最終巻です。
"大浦為信"や"伊達政宗"といった大名たちと水面下で連携を進め、政実はついに南部家内での武力行使に踏み切ります。
中央では自分と同世代の信長が本能寺に斃れ、そして秀吉が台頭をはじている時期、もはや戦国の趨勢は決まりつつありましたが、あえてこの時期に政実は本家の信直へ戦いを挑みます。
不敗を誇る九戸党により、瞬く間に南部氏の領土を席巻して信直を追い詰めてゆきます。
知力では互角に渡り合ってくるライバルの"北信愛"ですが、こと合戦に関しては政実の敵ではありません。
信直の要請により蒲生氏郷をはじとした秀吉軍が九戸討伐軍として、政実に迫ります。
ここに天下人である秀吉へ一世一代の喧嘩を仕掛けるという、壮大な合戦が繰り広げられることになります。
結末は読んでの楽しみですが、もし九戸政実が南部家の棟梁としての家系に生まれていたら、大浦為信や伊達政宗を従えて東北地方で一大勢力を築き上げ、戦国時代の歴史が塗り替えていたかもしれない。
そんな楽しい空想をさせてくれる武将です。
陸奥三部作を読み終え、どの作品も著者の東北への愛情が根底に流れているのを感じます。
あえて三部作の他に陸奥の英雄を1人加えるとすれば、南北朝時代に陸奥守として活躍した"北畠顕家(きたばたけあきいえ)"になりますが、興味を持たれた方は北方謙三氏の「破軍の星」をお勧めします。
天を衝く(2)
引き続き、九戸政実を主人公した「天を衝く」2巻のレビューです。
南部氏を大きく飛躍させた"南部晴政(なんぶはるまさ)"ですが、彼の死後に家督相続を巡って大きな混乱が訪れます。
元々、養子でありながらも後継を約束されていた"信直"がいましたが、老年になってから実子である"晴継"が誕生して以降、次第に"信直"は疎んじられるようになりました。
たとえ戦国時代であろうと自分の子供が世の中で一番愛しいものですが、それが裏目となることも少なくありません。
晴政の葬式において元服前であった晴継が刺客により暗殺されてしまう悲劇が起こります。
政実は信直が刺客を放った張本人であるとし、その家督相続に真正面から反対します。
そして対抗馬として実弟で晴政の婿養子となった"実親"を後継者として推し、南部家は真っ二つに割れて対立することになります。
一方で政実は、お家騒動の最中にも関わらず自らの手勢で他国の領土を侵略し力を蓄えてゆきます。
「北の鬼」と恐れられた政実は、精強な騎馬団と綿密な策略により、向かうところ敵なしの快進撃を続けます。
南部家内部の争いへの武力行使を避け、あくまでも知力と用いた解決を試みますが、信直の側近には最大のライバルとなる"北信愛(きたのぶちか)"という智将が控えており、苦戦を強いられることになります。
九戸政実と北信愛の争いは本作品の大きなテーマであり、手に汗握る水面下の攻防が繰り広げられることになります。
北信愛は強者(信長・秀吉)に従うことで南部家の安泰を図りますが、政実は強者を信用せず、あくまで自分たちの力で南部家を飛躍させようとします。
どちらの主張も南部家を存続させるという目的は一致しているだけに、この方針の違いによる溝は深く、2人は宿命の敵として対決することになるのです。
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