王妃マリー・アントワネット〈上〉
遠藤周作氏によるマリー・アントワネットを主人公とした歴史小説。
マリー・アントワネットはオーストリアを統治した女王・マリア・テレジアの娘として生まれ、のちのフランス国王ルイ16世の王妃となります。
つまり生まれながらにして名声と権力を約束された貴族中の貴族として生まれてきた女性です。
一方で当時のフランスは巨額の財政赤字を抱えており、そのために重税に苦しむ庶民の生活がありました。
美貌に優れたマリー・アントワネットは当初こそフランス国民から熱狂的な人気で迎えられますが、彼女をはじめ殆どの貴族たちは生活の華美を改めようとはせずに、根本的な財政改革を先送りにしてきました。
そうした市民たちの不満が当時浸透しつつあった啓蒙思想と化学反応を起こし、やがてフランス革命という形で絶対王政の基盤を揺るがすことになります。
革命によりマリー・アントワネットは夫のルイ16世と共に幽閉され、やがてギロチン(断頭台)によって処刑されるのはよく知られた史実ですが、本書はそんなマリー・アントワネットの生涯を克明に描いた歴史小説です。
ちょうど太閤秀吉やリンカーン大統領のように貧困から出発して立身出世と遂げる内容とは正反対の絶頂期からスタートして、急激に凋落する人生を歩んだことになります。
フランス革命は世界中に影響を与え、今でもフランスにとって輝かしい業績ですが、マリー・アントワネットは革命により打倒されたフランス王朝の象徴ともいえる存在であり、ゆえに革命の生贄となったという見方もできます。
革命当時のフランス市民にとって彼女たちの犠牲は自業自得と考えていた人びとが多数であったと思いますが、ルイ16世とマリー・アントワネットは暴君と言われるほどの人物で無かったことも事実であり(かといって為政者として優秀とも言えませんでしたが。。)、やはりその人生は悲劇と言わざるを得ません。
フランスへの留学経験、そしてその文学にも造形の深い著者が描くマリー・アントワネットは、革命前夜のヴェルサイユ宮殿に集う貴族たち、そして市井の人びとの心理を深く掘り下げており、非常に濃い内容に仕上がっています。
ルール
太平洋戦争末期のルソン島を舞台にした戦争小説です。
その中で、ひたすら退却を続ける1つの小隊が物語の中心となります。
この小隊は主人公の鳴神中尉、そして姫山軍曹といった指揮官に率いらていますが、銃弾は尽きかけ、わずかな薬や食料を持っているにすぎない部隊であり、およそ軍隊といえるものではありませんでした。
やがてフィリピンの熱帯雨林の中で敗走を続ける中で、小隊は散り散りになり、わずかに残っていた食料も尽きてしまいます。
もはや彼らにとって最大の敵は、アメリカ軍ではなく飢えとマラリアであり、体力が無くなった者から脱落してゆき、その先には"確実な死"が待っています。。。
ジャングルの昆虫や野草を口にするしかなく、それでも飢えから逃げられない時、人間としての"ルール"の一線を超えるかどうかの岐路に立たされることになります。
つまり本書の"ルール"とは、人肉のみが餓死から逃れられる唯一の手段という状況下で、それを口にするか否か、人間らしくあるための最後の良識を意味しています。
太平洋戦争では200万人以上といわれる軍人・兵士の犠牲者を出しましたが、その6割が飢餓や病気によるものだと推測されています。
充分な補給物資さえ無いにも関わらず、兵站を無視した戦線拡大によって失われた命の多くは、軍部の愚かな作戦の犠牲者であったと言わざるを得ません。
こうした悲惨な状態の中で飢餓や病魔に苦しみながら死んでいった兵士たちの苦しみは、現代に生きる私たちの想像を超えるところにあります。
著者の古処誠二氏は1970年生まれであり、戦争を体験していない世代の作家です。
フィクションでありながらも当事者の体験談や本をよく研究されていており、客観的な視点から冷静に描くことにより、リアリティのある内容に仕上がっています。
逆に太平洋戦争で実際に飢餓や病気を経験した当事者たちにとっては、あまりにも苦しく悲惨な過去だったゆえに、本書のような目線では決して当時の出来事を書くことはできないでしょう。
あと10~20年もすれば戦争を経験した世代が完全にいなくなりますが、人間に寿命がある以上、これは致し方ないことです。
しかしその後の世代に生きる日本人が、こうしたフィクション小説の形であっても当時の様子を伝えてゆくことには意義があると思えます。
最後の花時計
遠藤周作氏最晩年のエッセー集です。
趣味やグルメ、同業者の評価といったエッセーらしい話題も取り上げられていますが、全体的に見ると医療(その中でも特に終末医療)、身近な友人の死、戦争当時と平和な現代との比較といった話題が登場する頻度が多い印象を受けます。
遠藤周作(狐狸庵山人)が持っているユーモラスな側面を殆ど垣間見ることができないのが寂しくもあり、それが彼の晩年の偽らざる"等身大の思い"だったという理解もできます。
このエッセーは新聞で連載されていたものですが、しめくくりの一文を抜き取ってみても、彼の晩年の心境が決して穏やかではなかったことが伺えます。
- 願わくば苦しまず、痛い思いをせずに息を引きとりたいと願うのは私一人の弱さであろうか。
- こんな礼儀知らずを礼儀知らずとも考えぬところに私は驚嘆してしまう。もちろん感心して言っているのではない。呆れて言っているのである。
- 若い時は友人が死んでもそんな思いはしなかったろう。これは例外だと考えただろう。
- また青春時代からの友人を一人失ってしまった。むかし飲屋で騒いでいた若い頃、こんな日がくるのを一度も考えなかった。
- しかし、我々のような老人が心のなかで「それでいいのかしらん」と漠然とした不安を抱かざるを得ないのだ。
- 何も、自分の頃が良かったというつもりはないが、どう考えてもイヤな時代である。
昭和を代表する文学者のエッセーだけに格調は失われていませんが、読み進めるうちに遠藤周作が普通の老人に近い心境となっていたのは確かです。
彼は1996年に73歳で亡くなっていることからも分かる通り、特別に高齢であったわけではありません。 しかし重病を患い、自らにそれほど長い時間が残されていないことを意識して書かれているようにも思えます。
このエッセーが連載されていた当時は私は二十歳前でしたが、今も昔も(そしてきっと私たちの世代が老いる時代も)老人の嘆きは本質的には変わらないのかもしれません。
深い河
戦後昭和の日本文学界の巨匠・遠藤周作氏晩年の代表作です。
老若男女を問わず人間は様々な過去を背負い、そして悩みを抱きながら生き続けてゆく存在です。
その過去や悩みは主観的なものである以上、他人と比べて軽重を測れるものではありません。
本作の目次で目を引いたのは、下記のような章立てを行い、一見すると何の変哲もない5人の登場人物の過去、そしてその心理描写を巧みに描いているところです。
- 磯辺の場合
- 美津子の場合
- 沼田の場合
- 木口の場合
- 大津の場合
彼らの人生は1億人以上の人間が暮らす現代日本において、取るに足らない小さな水の流れのようなものですが、やがてすべてを受け入れる大河で合流することになります。
それが本作の題名にもなっている"深い河"、すなわちインドのガンジス川です。
身寄りの無い老人、貴人、そして子どもまですべての死者を別け隔てなく、ある者は火葬により灰で、ある者はそのままの姿で輪廻からの解脱を信じて流されてゆきます。
果たして彼らはこのガンジス川のほとり"ワーラーナシー"で何を感じ、何を思うのか?
ここから先は是非、実際に作品を読んで欲しい部分です。
遠藤氏はクリスチャンとして知られている作家です。
晩年の体調が優れない中で、死をより身近に感じるようになり、自らの死生観、そして精神世界的なものへ言及する作品やエッセーを多く残しますが、本作はその代表的な作品といえます。
しかし本作の内容は決して押し付けがましくなく、むしろインドという秩序だった西洋的な宗教観(価値観)とは対極をなすような混沌とした、そして包容力のある磁場を舞台に、むしろ読者に問いかけるかのような内容になっています。
仏教や神教、そして儒教的(そして時にはキリスト教的)な価値観でさえも同時に受け入れる日本人の心理は、唯一神を尊ぶキリスト教やイスラム教とは違ったベクトルを持ち、見る角度によってその価値観はインド人に近いのかもしれません。
しかし死生観、その中でもとりわけ"死"へ対する概念は、一般的なインド人(すなわちヒンズー教徒)と比べ、日本人は希薄になっているのは間違いありません。
それは日本がインドほど治安が悪くもなく、そして衛生面でも恵まれており、何よりも経済的な恩恵により得られる老後の社会保障や医療制度によって"死"の実感が遠いものになっているのに他なりません。
すなわち"死"が日本人にとって日常とかけ離れた出来事となり、一方で未だに日常的に路上での野垂れ死にが身近にあるインドとの差であるといえます。
しかしそれは、かつての日本人が極楽浄土への憧れ、もしくは子孫の守り神へ昇華する(先祖崇拝)といった形で持っていたものであり、人間本来が持つ原始的、且つ永遠の課題が科学的に解決できる問題ではないということを改めて実感させられます。
もちろん経済的な発展が長寿大国としての地位を築いた側面もあり、けっして良し悪しで結論が出る類のものではありませんが、少なくとも晩年を迎えつつある遠藤周作にとって、そのインドの価値観が多大な影響を与えたことは間違いないことです。
遠藤周作の作品は純文学として紹介される機会が多いですが、本作のように問いかける内容は深いものの、難解な内容の作品は殆どありません。
是非とも普通の小説として読んで欲しい作家の1人です。
流れる星は生きている
1949年(昭和24年)に発刊された藤原てい氏の国民的大ベストセラー作品です。
彼女は新田次郎(本名:藤原 寛人)の妻であり、最近では数学者でベストセラーとなった「国家の品格」の著者・藤原正彦氏の母としても有名です。
新田次郎といえば個人的に指折りのお気に入り作家であり、彼の代名詞ともいえる山岳小説を夢中で読み続けた時期がありました。
本書は太平洋戦争終戦直後の満州から、朝鮮を経由して日本に引き上げるまでの母子4人の実体験を小説化したものです。
激戦地へ兵隊として派遣された体験記にまったく劣らない悲惨さを伝えていますが、作品中で次々と命を落とすのが幼い子供やその母親であることを考えると、むしろこの本書の方が胸を締め付けられる思いがします。
読んでまず驚くのは、作品全般に渡るリアリティさです。
私のように戦争をまったく知らない世代でも当時の状況を目に浮かべてしまうような迫力があります。
「困ったときは互いに助けあおう」、「1人はみんなのために、みんなは1人のために」
とても全員が生き残ることができない究極の窮地においては、このような言葉がまったく通じない世界です。
ギリギリの状況下では体力や運の無い者から命を落としてゆくといった野生動物の淘汰に近い現実が訪れます。
たとえば母親が3人のうち2人の子の命を救うのが精一杯であるため、もっとも幼い子を犠牲にせざるを得ないような断腸の思いの決断を強いられるのです。
もっとも親であるならば自らの命を犠牲にしても子を救いたいものですが、周りの誰もが他人を助ける余裕の無い中で自分自身が死ぬことは、子ども全員の死を意味します。
著者とその子どもたちは何度も命の危機を乗り越えますが、故郷に辿りつけたのが奇跡とさえいえる苦難でした。
基本的には自らが辿った逃避行を淡々と描いており、教訓や道徳めいたものは殆ど登場しません。
自らの体験を淡々と描いた小説でありながら、それが平和な時代に暮らす人びとの想像を超えた内容であるがゆえの迫力が存在ます。
豊富な知識や想像力を持った小説家の技量を軽々と飛び越えてしまうものが、この作品には存在し、小説というジャンルの1つの完成形を見たような気がします。
発表から60年以上が経過する作品ですが、あらゆる世代に読んでほしい1冊です。
生命なき街
たまたま古本屋で見つけた1977年発刊の城山三郎氏の短篇集。
城山氏といえば渋沢栄一を主人公とした歴史小説「雄気堂々」が有名ですが、もともと大学で経済学の講師をやっていたこともあり、戦後の企業や経済を題材とした作品を数多く手掛けて「経済小説」というジャンルを確立した作家です。
城山氏の系統を継ぐ作家(経済小説派?)の中では、個人的に山崎豊子氏、高杉良氏の作品を読む機会が多いように思えます。
本書は6つの短編からなり、いずれも日本経済の高度成長期(昭和35年頃)の真っ只中で組織に切り捨てられた男たちの悲劇をテーマにして書かれています。
つまり日本の経済成長の担い手となりながらも、報われずに敗れ去った企業戦士たちの物語であり、全編にわたってどこか重苦しい雰囲気が漂っています。
その中でも本書のタイトルでもある「生命なき街」、そして「白い闇」については、日本から中東にある架空の町"ワジバ"へ進出した企業の社員が主人公になっています。
日中の気温は50度を超え、その中を吹き荒れる砂嵐という過酷な自然環境に加えて、排他的で治安の悪い地域に乗り込んだ日本の企業戦士たちは、非協力的で反抗的な現地の工員、ライバル商社の卑劣な策、そして彼らを陥れようと暗躍する現地の貿易商人たちといった様々な障壁へ不屈の精神で立ち向かいますが、無情な結末が彼らを待ち構えています。。
たとえ高度経済成長期であっても、こうした幾つもの障壁を乗り越えて成功した日本企業もあれば、この小説の主人公たちのように無残に敗れ去り、中には遠い異国の地で命を落とした例もあることでしょう。
著者はそうした未来永劫語られることの無い、忘れられた戦士たちの物語を本書で描きたかったに違いなく、個人的にも非常に好きな小説のアプローチ方法です。
身も蓋もない言い方をすると、松下幸之助や本田宗一郎に代表される経営者の立志伝も面白いのですが、この類の本を続けて読むと食傷気味になってしまいます。また成功例のみにスポットを当てたビジネス書の氾濫に少々うんざりしている人もいるのではないでしょうか。
今や技術、交通手段の発達、そしてインターネットの普及により世界はよりフラットに近づいています。
そのため日本企業の海外進出は昔と比べて格段に敷居が低くなっていますが、数多くの先人たちが経験した困難の歴史がその礎になっていることを忘れてはいけませんし、この作品を今読む価値もそこにあると思います。
すべての愛について
浅田次郎氏の対談を1冊の本にまとめたものです。
対談相手は同業者(作家)に留まらず、俳優、評論家など職業、年齢も様々な著名人との対談が収められています。
対談内容は特定のテーマが定められている訳ではなく、小説、歴史、家族、ギャンブル、政治など多岐に渡っています。
浅田氏は現代を舞台にした小説が多いですが、歴史小説も多く発表しており、多くの作品がテレビ・映画化されている日本の代表的な作家の1人です。
しかし時代背景に関わらず人間の喜怒哀楽を鮮やかに描き上げる人情味溢れた作風は、多くのファンを読者に持ち、「平成の泣かせ屋」としての異名があります。
浅田氏は戦後間もない団塊世代の生まれです。
親が資産家であったため幼少期は何一つ不自由なく育ちますが、学生時代に家が破産したため、働きながら学費を稼ぐといった苦境を経て自衛隊へ入隊ます。
その後も商売で成功したり、かと思えば1億円の借金を作ったりと、その人生は波乱に満ちています。
そんな中でも学生時代から一貫して続けてきたのが小説の執筆です。
40歳近くになってからの遅咲きの作家デビューでしたが、直木賞をはじめとした各賞を次々と獲得してゆきます。
はじめに浅田氏の人情味溢れた作品を読んだとき穏やかで寡黙な、いかにも作家風の人物像を想像していましたが自衛隊にいた経歴からも分かる通り、体育会系の骨太な性格をしています。
あとがきで浅田氏自身が触れていますが、小説は作者の創作力を作品にしもので後世に残りますが、対談で自分自身の考えを直接的に発言したものが書籍化される機会は少なく(殆どが雑誌に掲載されて忘れられてしまう)、著者自身がもっとも興味深く本書を読むことできる読者だと語っています。
本書はあくまでも浅田次郎ファンのための対談集という位置付けとなり、私もファンの1人として楽しく読ませてもらいました。
浅田次郎氏の作品をよく知らない人であれば、まずは本書よりも実際の作品を読むことをお勧めします。
マルドゥック・スクランブル The 3rd Exhaust
マルドゥック・スクランブルもいよいよ最終巻のレビューとなります。
主人公バロットたちの目の前に立ちはだかる宿敵シェルには、失われた過去が存在します。
それは少年期の家庭環境のトラウマ、そして数々の残忍な自らの行為であり、それらが余りにも壮絶であるために、自らの精神を正常に保つために意図的に外部のメモリへ退避したためです。
人間の記憶さえもデジタル化でき、主人公をはじめとした登場人物たちはテクノロジーの発展により人体を修復・強化する目的で様々な人体改造を行なっています。
更には高度なネットワーク網の発達により、あらゆる情報へ直接アクセスすることが可能になっています。
これらはサイバーパンク小説に共通する設定ですが、現代ではインターネットの発達によりサイバーパンクの世界がそれほど現実離れしていない時代が到来してきました。
一方でテクノロジーが如何に高度な発展を遂げようとも、人間の精神が共に成長するとは限りません。
作品の登場人物たちは過去に心の傷を抱え、これから生きてゆくため自らの存在価値を模索しているという点で共通しており、全編を通じて登場人物たちの内面を深く描写しているのが本作品の特徴になっています。
そして互いの存在が自らの存在価値を否定する場合、争いを避けることは出来ないというのも事実です。
当然のように殺伐とした場面も多く登場しますが、最終的に魂を救うのはテクノロジーではなく、信頼関係で結ばれた絆であることが、もっとも大きなテーマであるといえます。
マルドゥック・スクランブル The 2nd Combustion
引き続き「マルドゥック・スクランブル」のレビューです。
本作品は3冊から構成されており、本書は中編にあたります。
物語の構図は非常に単純であり、作品の早い段階で敵味方の陣営がはっきりとしています。
つまりストーリーの大枠は極めて単純ですが、その分繰り広げられる対決の内容は複雑であるといえます。
主人公の少女ルーン=バロット、相棒のウフコック、そして2人をサポートするドクター・イースター。敵役として裏社会でトップに上り詰めようとするシェル、そして片腕のボイルド。
バロットはシェルに殺されかけた過去を持っており、ウフコックとボイルドは過去に相棒だった時代があります。
ウフコックはネズミに人間並みの知能をもたせた生物であり、あらゆる道具に変化できる能力を持っています。ボイルドは人間の元兵士であり、人体改造により重力を自在に操る能力を手に入れています。
バロット&ウフコックとボイルドの戦闘シーンは、「マトリックス」+「ターミネーター」のような戦闘シーンが繰り広げられます。
かと思うと物語の展開は一変してカジノが舞台になります。
そこでは肉体的・物理的な激しい戦闘シーンとは対照的に緻密な戦略、そして心理戦が展開されゆきます。
この2つの場面のギャップには物語全体のバランスを重視する読者にとてっては、戸惑いを感じてしまうかもしれません。
ただし当時の新鋭作家としての冲方氏が、執筆したい場面を本作品中にすべて表現した潔さを感じます。それだけに各シーンの迫力は読者を巻き込んでしまう魅力を持っていることは保証します。
マルドゥック・スクランブル The 1st Compression
冲方丁氏の代表作といえるSF小説であり、第24回日本SF大賞(2003年)を受賞した作品です。
SFにも様々なジャンルが存在しますが、その中でも特にサイバーパンク色の強い作品です。
"サイバーパンク"の世界観は主にアメリカで確立した分野ですが、少女が主人公となりマッチョな敵と対峙する構図は、日本のアニメ文化の影響も見受けられ、日本独自色の強いサイバーパンク小説です。
舞台は「マルドゥック・シティ」と呼ばれる近未来の都市。
テクノロジーの進化により人間の脳や身体を改造する様々な技術が開発されましたが、大きな戦争で人類を脅かす脅威として、それらの技術は禁忌となりました。。
しかし犯罪に巻き込まれた1人の少女の命を救うべく「マルドゥック・スクランブル09法」という禁じられた科学技術の特別使用が認められ、やがて少女は通常の人間を超越した能力を手に入れることになります。
具体的な内容は次回以降のレビューで触れてゆきたいと思いますが、長編小説にも関わらず世界設定や社会的な仕組みに関しては曖昧な記述に留めてあり、状況描写や登場人物の心理描写に多くのページを割いています。
また映画「マトリックス」的な戦闘シーンを小説上で展開する執筆力は、サイバーパンク好きにはたまらないのではないでしょうか。
SF小説に関してはアメリカの影響を強く受けている私にとって、最初は未成年の少女が主人公という設定は抵抗を覚えますが、次第に作者が強いこだわりを持って描き上げた作品の世界へ引きこまれてゆきます。
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