海と毒薬
遠藤周作氏の代表作の1つです。
東京郊外で開業している勝呂という無愛想な医師の過去に迫るというアプローチで、戦時中に日本で行われたアメリカ兵捕虜の人体実験に関わった人々の心理を描いた作品です。
実際に起きた事件をベースにしていますが、ノンフィクションではありません。
言うまでもありませんが、医師や看護婦は人命を救うための職業であり、生きた人間を人体実験を目的として殺すことは法律以前に職業倫理上、許されるものではありません。
しかし戦時中という国家や軍部の厳しい統制下で強制された場合、少なくとも法律により罰せられることはありませんし、医師たちの派閥争の中で合理的に出世するためには、人体実験に積極的に参加することが有利でさえありました。
つまりそこで問われるのは人間の"罪の意識"であり、本作品のテーマでもあります。
もっとも遠藤氏はこの事件を批判するために扱っているわけではありません。
この事件に参加した人びとは既に東京裁判で裁かれており、また倫理的な善悪についても一小説家として言及するつもりは見られません。
あくまでこの事件と登場する人びとの心理を淡々と描くことで、読者へ問いかけを行なっているというのが、本作品の遠藤氏の一貫した姿勢です。
この作品をどのような倫理観あるいは宗教観を持って読むのか。そのすべては読者に委ねられているといえます。
おバカさん
昭和34年から連載が開始された遠藤周作氏にとってはじめての新聞掲載小説(朝日新聞)。
都内の銀行に勤める"隆盛"の元に、かつて文通相手であったフランス人"ガストン・ボナパルト"がはるばる遊びに来るという知らせが届く。
名前からも推測できる通り、ガストンはかのナポレオンの子孫(自称)であり、隆盛は妹の巴絵と共に不安と期待に胸を膨らませて待つことになるが。。。
実際に対面したガストンは、長身ながらも馬ヅラのみすぼらしい、およそ想像とは似ても似つかぬ愚鈍な青年だったのです。
それに加えて彼の何よりの特徴は、人のいうことを疑わない純真無垢な性格であり、そのため様々な事件に巻き込まれてゆく笑いあり涙ありのコメディ色のある長編小説です。
現在に限らず、いつの時代でも人間は欲望や憎しみといった感情から無縁であることが難しく、そうした感情を置き去って生まれたかのようなガストンは、最初は滑稽な存在であり周りからバカにされますが、少しずつ登場人物たちに影響を与えてゆきます。
キリスト教の影響を受けている遠藤氏流の演出でいえば、神が人間を哀れんで地上に遣わした"天使"と表現することもできます。
初期の作品であるにも関わらず、遠藤氏の長い作家活動を通じて扱うテーマが一貫していることを感じさせます。
ただし後年の遠藤氏の作品のように、重々しい雰囲気は少なく、新聞連載を意識した大衆受けする軽い語り口で書かれているため気軽に読み進められます。
これから遠藤周作の作品を読んでみようと考えている人に、はじめにお薦めしたい作品です。
舞姫通信
5年前に一卵性双生児の兄を自殺で失った新任教師の岸田は、都内にある女子高校に赴任することになります。
そこでは何者かの手によって「舞姫通信」なるものが、定期的に生徒たちに向けて配布されていました。
"舞姫"とは、校舎内で10年前に飛び降り自殺をした1人の女子生徒であり、彼女は密かに生徒たちの憧れの対象でもありました。。
作品の導入部を軽く説明しましたが、本作品は重松清氏が"若者の自殺"をテーマに執筆した小説です。
つまり人生のどん底や生き地獄を経験した人が最後に選ぶ"自殺"ではなく、大きな挫折を経験していない"生"への執着が薄い若者が手段として選ぶ"自殺"がテーマになっています。
昔から若くして自らの命を断たった俳優、ミュージシャン、小説家は存在しました。
そして彼らに共通すのは若者たちにカリスマ性を帯びた人気を得ているという点であり、生き残った人びとへ永遠の存在として老いることなく記憶へ残り続けることを美学とする感覚は何となく理解できます。
一方で、"自殺"など自分にとってはまったく縁がないと考える人が殆どでしょう。
しかし"自殺"とは自らの意志で死ぬことであり、見方を変えれば、自分の周りにいる人が決して自殺をしないとは言い切れないのではないでしょうか。
本書は"自殺する人"ではなく、"自殺によって残された人"の心理を掘り下げた作品です。
特定の宗教観や倫理観に縛られることなく「自殺」といったテーマに向き合うことができるのは、小説の魅力の1つであるといえます。
ヤクザと原発 福島第一潜入記
著者の鈴木智彦氏は長年にわたりヤクザをテーマとした執筆活動を続けている作家です。
当ブログでも過去に「潜入ルポ ヤクザの修羅場 」で鈴木氏の著書を紹介しています。
鈴木氏の特徴は、何といっても徹底した突撃取材であり、彼の行動力は本書でも遺憾なく発揮され、ジャーナリストしてはじめて福島第一原発に作業員として潜入取材を実行します。
周知のとおり東日本大震災の地震や津波は、多くの犠牲者を生み出しました。
しかし人類が何度も経験してきたように、自然災害の傷跡は時間の経過ともに復興してゆくことが可能です。
一方で原発事故は時間の経過と共にむしろ被害が拡大してゆく危険性があり、その影響は震災から2年が経過しても収束する気配を見せません。
原発は未だに制御不能な側面をもったテクノロジーであるにも関わらず、かといって放置できる性質のものではなく、その復旧のためには多くの人手が必要となります。
そして多くの人夫が必要となる作業にヤクザが介入しているとの情報を得て、著者はライターという本来の身分を隠して一作業員として原発に潜入することになるのです。
原発反対派か賛成派か、その結論について著者は触れていません。
ひたすら現場で働く作業員たち、その裏で暗躍するヤクザたちの姿を追っているルポルタージュです。
著書を見る限り、原発復旧作業に間接的にしろヤクザが介入しているのは事実です。
ただし原発復旧作業の取材を読み進めてゆくうちに、「それがどれだけ大きな問題なのか?」という疑問が浮かび上がります。
原発の事故は多くの住民たちの故郷を失わせ、全国各地から集まってきた作業員は、充分な放射能の知識を持ちあわせていないまま危険な作業を続けています。
どう考えてもヤクザにそれだけの力はなく、原発の問題があまりも大き過ぎるのです。
タイトルの通り、はじめは原発とヤクザを結びつけた内容になっていますが、話が進むにつれ、その比重がどんどん原発へと大きくなってゆきます。
多くのメディアが報道できなかった事実を鈴木氏が身をもって潜入取材したことが本書の価値の大きくしています。
官僚たちの夏
経済小説家として知られる城山三郎氏の代表作の1つです。
主人公は「ミスター・通産省」こと風越信吾。
官僚でありながら型にはまらない性格であり、政治家や企業の経営者へ対しても歯に衣着せぬ発言をする、一見して豪快な人物として登場します。
1950年代後半から1960年台前半にかけて通産省で活躍した佐橋滋をモデルにしています。
当時の日本は高度経済成長期にありながらも、先進国の仲間入りをするには至っていませんでした。
そこで外資の参入を制限しつつ、来るべき自由競争を生き抜くために、通産省は官主導の産業育成を掲げており、風越はその政策を推し進める代表的な官僚でした。
一方で、これを産業へ対する政府の過剰保護であるとし、なるべく障壁を無くして自由競争を尊重させるべきとの声もあり、政治家、及び官僚など様々なレベルでこれらの政策がぶつかり合うことになります。
ただし、実際にどちらの政策が正しかったというのは、この作品のテーマではありません。
「役人は誇りを持て。財界の大人物へ対しても、頭を下げるな。むしろ、お高くとまれ」
それは誰よりも国策のために身を粉にして働いているのは自分たちであるという自負と、官民の癒着を許さないために一線を画すという、彼の信条から出た言葉でした。
もちろん傲慢な人物として敵を作ることもあり、省内での派閥争いにも巻き込まれますが、それに屈すること無く信念を持って歩き続けた1人の官僚の物語が多くの読者の共感を呼んだ作品です。
政治家へスポットが当たる機会が多いですが、実際に政策を実行するのは官僚です。
官僚は能力で評価されるべきであり、処世術のうまい人物が出世する必要はないのかもしれません。
明治撃剣会
歴史小説、そして剣豪小説家として知られている津本陽氏の短篇集です。
幕末から明治時代にかけて登場した剣士たちを題材にしています。
作品に登場する剣士たちはいずれもマイナーですが、収録されている8篇すべての完成度が非常に高いことに驚かされます。
津本氏の剣豪小説、とりわけ立ち会いの描写は決してスピード感や躍動感あふれるものではありません。にも関わらず、津本氏ほど息を呑むような臨場感のあるシーンを描ける小説家は稀有であるといえます。
道場での試合、命を懸けた決闘に関わらず、そこに登場する剣士たちの微妙な心理、そして彼らが繰り出す技やバックボーンへ対する繊細な描写は、読者を作品の中へ引きずり込まずにはいられません。
津本氏自身が相当の剣道の腕前を持っており、加えて剣術の各流派や武道全般に深い造詣があることは一般的に知られています。
単純な知識としてだけではなく、それを自らの体で体験している強みが、彼の作家としての能力を最大限に引き出しているように思えてなりません。
短編はいずれも秀作揃いで甲乙つけ難いですが、あえて挙げるとすれば「隼人の太刀風」でしょうか。
明治前半の大阪で、警察と鎮台兵(軍隊)の抗争を舞台にした作品であり、主人公は長屋休次郎という西南戦争に西郷方として従軍した経歴を持つ、典型的な示現流の使い手という人物です。
もっとも長屋は若い警部補であり、江戸時代どころか幕末の時代にはまだ幼少にしか過ぎませんでした。
しかし剣の腕前が一流なのはもちろん、部下の面倒見もよく、普段は温厚な人物である長屋は理想的な警官でした。
鎮台兵との争いにも部下を抑える役に回っていましたが、度重なる挑発と銃剣で襲われるや否や豹変し、部下と共に軍隊の中へすさまじい示現流の太刀筋で斬り込んでゆきます。
もちろん警部補といえども兵隊を何人も斬り捨てる行為は重罪と知りながら、名誉を何よりも重んじる薩摩隼人の姿が、さらに言えば日本男児としての自尊心が公務の責任を軽々と飛び越えるシーンはとても印象的です。
とにかく剣豪小説や津本氏の作品を読んでみたい人にとって、つよく推薦したい1冊です。
死んでも負けない
「アンフィニッシュト」に続いて古処誠二氏の小説です。
太平洋戦争をビルマ(現ミャンマー)で戦い、イギリス人に捕虜として抑留されつつも何とか無事に帰国した経歴を持つ"小笠原家のじいちゃん"。
そんな"じいちゃん"と息子、そして孫が1人ずつ住む男3人の家庭が物語の舞台となります。
"じいちゃん"は80歳を迎えても健康そのものであり、戦後50年が経過しても兵隊時代のクセが抜けずにいます。
いまだに家長として君臨し、家族たちに軍隊のような恐怖政治を敷き、事あることに武勇伝を語り続ける。
そんな迷惑な"じいちゃん"が周りの人びとを巻き込むコメディ仕立ての作品です。
傍から見れば迷惑でしかない老人ですが、彼の体験は凄まじく、ジャングルでイギリス兵と殺し合いをした話、食料がなく飢餓に苦しんだ話など語り尽くせないエピソードがあります(もちろん家族はとっくに聞き飽きている内容なのですが。。。)。
もっとも勇敢で決死して敗北を認めない、旧日本軍の鑑のような"じいちゃん"にとって戦争はトラウマでも何でもなく、青春の日々のような思い出にさえなっていますが、彼にも唯一の罪悪感があります。
それは"戦争に負けた事実そのもの"であり、明治以降に先輩たちが切り開いてくれた軍事列強国としての地位を自分たちの世代で失ってしまったことによるものです。
現代に生きる我々の大部分は、国民や国家へ対する責任感を持つことは少ないのではないでしょうか。
"じいちゃん"は戦争にこそ参加したものの伍長という程度の立場であり、士官ですらありません。
にも関わらず"申し訳ない"と感じながら生きる彼の姿は、我々の感覚からすると時代錯誤と感じてしまいますが、良し悪しは別として、人の価値観は世代によって目まぐるしい変わってゆくものです。
本作は今までの作品と比べると、より若い読者を意識して書かれているようです(おそらく小学生高学年から読めるのではないでしょうか)。
よって個人的には物足りなさを感じましたが、作品の根底には"戦争"という大きなテーマが横たわっています。
ちなみに作品中で"じいちゃん"が体験するビルマでのイギリス軍収容所での実体験体を描いた「アーロン収容所」は歴史的な名作ですので、機会があれば読んでみることをお薦めします。
アンフィニッシュト
古処誠二氏の作品です。
以前ブログで紹介した「ルール」が良かったため、今回も期待して手にとってみました。
本書「アンフィニッシュド」は自衛隊を舞台とした小説です。
東シナ海に浮かぶ伊栗島に駐屯する海上自衛隊の基地で、1丁の小銃が紛失する事件が起こるところから物語がはじまります。
そこで防衛部調査班の2名(朝香二尉、野上三曹)が調査のために伊栗島に派遣され、事件の解明を試みることになります。。
自衛隊ではあらゆる備品が税金により賄われているという意識が徹底しています。
そのため物品は厳格な管理がされており、それが火器ともなればなおさらです。
ゆえに1丁の小銃ともいえども、それが紛失となれば自衛隊にとって大事件になります。
本書に登場する伊栗島は架空の島ですが、作品で描かれる自衛隊の姿は、装備や施設、そして独特の文化に至るまでリアルに描かれています。
武器を持ちながらも軍隊として認められていない自衛隊。
いびつな組織の中で隊員たちが抱える矛盾を、こうした事件を鍵として深く浮き彫りにしている手法は斬新です。
事件解明に至るまでの段取りも推理小説仕立てで書かれており、朝香二尉が探偵だとすれば、野上三曹はその助手という役割で読者をまったく飽きさせません。
自衛隊を軍隊として認める・認めないとう考えは人によって違いますが、少なくとも自衛隊という存在をもう1度見つめなおす機会を与えてくれる作品であり、著者の意図もそこにあります。
北朝鮮や中国といった隣国と緊張関係が高まりつつある中で、武力の面で渡り合える日本の組織は自衛隊しかいません。
さらに万が一の際には、彼らがその実力を充分に発揮できるかに国防のすべてが委ねられています。
もちろんアメリカが同盟軍として参戦することは予想できますが、歴史を紐解いても他国の軍隊に自国の防衛を委ねて繁栄できた国家は存在しません。
自衛隊が実力を発揮しなければならない機会など永遠に訪れない方がよいのですが、それを結論としてしまった時に日本は再び亡国への道を歩んでしまうことを、本書は示唆しているようにも思えます。
安吾 戦国痛快短編集
「堕落論」で有名な坂口安吾氏の短篇集。
エッセーや様々な小説を手がけている坂口氏ですが、歴史小説についても多くの作品を発表しています。
本作はその中でも、戦国時代を題材にした歴史小説の短篇集を収録した1冊です。
私が坂口氏の作品に抱く印象は、ひと言で表せば「舌鋒鋭い」です。
彼は明治後期生まれの小説家にも関わらず、古い固定概念や慣習といったものを排除し、合理的というと味気ないですが、常にその本質を見抜こうとする精神に溢れています。
彼の生きた時代を考えると、その合理性が反体制ともみなされた時期もありましたが、現代のテレビでいうところの辛口評論家といったイメージでしょうか。
普通の歴史小説であれば主人公を設定しつつも、時代の雰囲気や、その流れを激動させた場面というものに着目して作品を組み立てようとしますが、坂口氏にとってそれらは作品の景色、もしくはBGMに過ぎません。
鋭い観察力をひたすら主人公の内面に注ぎ込もうとします。
それがもっとも表れているのが、本作で豊富秀吉を主人公とした「狂人遺書」です。
"狂人"とは、天下統一を果たして晩年に甥の豊臣秀次、茶人の千利休を切腹に追いやり、挙げ句の果てには国内を疲弊させ、彼の死後に大名たちの離反の原因となった朝鮮出兵を決行した秀吉自身を指しています。
そして狂人と化した秀吉自身が、自らの暴走を認識しつつもそれを止めることの出来なかった経緯を"遺書"という形でしたためたという設定で作品を描いています。
例えば、石田三成や小西行長、徳川家康たちの諫言をその通りと認めつつも、見栄のためだけに馬鹿々しい朝鮮出兵を決断したと告白されており、そうせずにはいられなかった彼の内面の葛藤が克明に綴られています。
よって歴史小説というよりも文学作品に近い印象を受けます。
他に斎藤道三、上杉謙信、戦国時代に日本へキリスト教布教に訪れた宣教師たちを描いた作品が収録されています。
ちなみに坂口安吾の歴史小説の代表作として、黒田如水を主人公とした「二流の人」があります。
他にも織田信長や徳川家康を主人公とした短編も手掛けていますので、本書で坂口氏の作品に興味を持った人は、是非読んでみることをお薦めします。
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