京都見廻組史録
幕末の京都で新撰組と並ぶ代表的な存在だった見廻組。
清河八郎を暗殺した凄腕の剣士・佐々木只三郎、近江屋事件で坂本龍馬の暗殺に関わったと告白した今井信郎が有名ですが、全体的な知名度では新撰組に劣り、幕末ファンから見ても"脇役"という存在ではないでしょうか。
実際、(書籍、映像問わず)新撰組を題材にした作品が多数あるのに対し、京都見廻組を題材にした作品は皆無といってもいい状態です。
しかし新撰組が百姓を中心とした最盛期でも百数十人の集団であったのと比較して、見廻組は旗本や御家人を中心に最盛期には500人以上の人数で構成されていました。
つまり人数数で考えると、戦闘集団としての見廻組の武力は新撰組を凌駕していたという見方ができます。
本書はタイトル通り、残された歴史文献を丁寧に調べて京都見廻組の結成から解消までを丁寧に紹介してゆく解説書です。
内容は原文が多く引用されており、専門書もしくは参考書に近く、一般読書向けではないかもしれませんが、本書ではじめて知った見廻組の知識を簡単に書いてみます。
- 京都見廻組の責任者(京都見廻役)は、小大名ないしは大身の旗本といった高い身分の者が幕府より直接任命された。
- 京都見廻役は2名からなり、それぞれ200名(合計で400名)を定員とした組士が割り振られた。
- はじめは蒔田相模守、松平因幡守(のちに出雲守)が見廻役であったが、人事異動や罷免などで何度か入れ替わっている。
- とはいえ、見廻役自らが現場に出向ことは皆無であり、日常の任務は現場の指揮官に一任されていた。
- 新撰組が積極的な探索を行ったのと比べ、見廻組士は武士階級で構成されていたこともあり、公家や大名などの要人、そして重要施設の警備を担当する機会が多かった。
- 見廻組には新撰組の局中法度のような厳しい隊規は存在せず、粛清なども殆ど行われなかった。
その他にも組士たちの給料(役料)から鳥羽・伏見の戦いにおける見廻組の損害、江戸へ退却したあとの組士たちの運命までの軌跡を個人単位で追っています。
太平の世が突如破られて、招集された侍たちの集団・京都見廻組。
彼らが残した歴史の足あとを知りたいという方には貴重な本であるといえます。