功名が辻〈3〉
山内一豊(通称:伊右衛門)、千代の物語も後半に入ります。
長寿という要因はと別に家康が天下を掌握する結果を招いた秀吉の失策は2つあります。
1つ目は秀吉が家康を徹底的に討伐することが出来ず「小牧・長久手の戦い」以降に徹底的な懐柔策を取り続けたこと、そしてもう1つは国力を浪費し、加藤清正・福島正則に代表される武断派と、石田三成・小西行長に代表される文治派の対立を決定的なものにした朝鮮出兵ではないでしょうか。
秀吉麾下の武将たちが消耗しつつ仲間割れしている中で、もっとも強力な大名である家康が力を蓄えることが出来たのです。
一方で秀吉が天下統一を果たし、そして亡くなるまでの間、伊右衛門・千代の回りでは一見するとたいした動きは見られません。
それも当然で、国内では戦が無くなり、伊右衛門は朝鮮出兵に加わることもありませんでした。
司馬遼太郎氏の筆も秀吉や家康を中心とした話題へ興味が行ってしまい、ほとんど活躍の場がない伊右衛門にページを割くことなく物語が進んでゆく感があります。
しかしそれは伊右衛門を疎かにしてしている訳ではありません。
伊右衛門自身が歴史の中心に立つことはありませんが、彼の仕えた主君たちがいずれも歴史の支配者であったが故に、彼の周りの出来事が日本史の中心であり続けたのです。
そして朝鮮出兵を免れた大名たちも聚楽第をはじめとした莫大な費用負担を普請に強いられ、"殺生関白"こと豊臣秀次の台頭、そして失脚を通して豊臣政権は求心力を少しずつ失ってゆきます。