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引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

功名が辻〈4〉

功名が辻〈4〉 (文春文庫)

信長秀吉が亡くなり、家康による天下統一がいよいよ迫りつつあります。

もちろんそれは後世から見た我々の目線であり、当時は秀頼淀君とそれを補佐する石田三成を中心とした豊臣家が健在であり、天下の行方は余談を許さないものでした。

伊右衛門の妻・千代北政所(寧々)と親しく、また情勢を鋭く見抜く先見性を持っていたこともあり、山内家(掛川6万石)は総力を挙げて徳川家へ味方することに決めます。

多くの大名が徳川家に従い、会津(上杉景勝)討伐への遠征途中ですらも決断に迷っていた中で、伊右衛門は千代の機転により豊臣家からの誘いの手紙を封を開けずに家康へ渡します。

そして家康からの信頼を決定的にしたのが、小山軍議において伊右衛門が掛川の城を徳川家に明け渡して、全軍を率いて対西軍との先陣を願い出た場面です。

6万石の大名が3千人足らずの兵士で先陣を駆けたところで、10万人以上が激突する関ヶ原の戦いにおいて大した影響力を持ちませんが、迷っていた諸大名の決断をうながして東軍を一致団結させるきっかけを作りました。

実際、伊右衛門が関ヶ原の先陣を任されることはなく、後方で戦の経過を見守ち続けるしかありませんでした。

しかし関ヶ原で目立った戦功を立てる機会の無かった伊右衛門へ思いがけなく土佐24万石の領地が与えられることになります。

徳川家へ味方することを決めたからには、率先して徹底的に尽くすという千代の助言を伊右衛門自身が忠実に実行して勝ち得た報酬でした。

そして戦場での働きだけでなく、家康自身が伊右衛門の政治的な功績を正当に評価できる能力をもった名将でもありました。

晴れて24万石の大名になった伊右衛門が、土佐へ赴任して地元の旧長宗我部家の勢力と争いを繰り広げる晩年も興味深い部分です。

30年以上も戦場を駆け巡り出世を重ねた伊右衛門も大大名になった途端に保守的になります。

千代のアドバイスを無視して容赦のない弾圧を加える姿は、器量を超えた責任を与えられたプレッシャーに苦しむ姿でもあったのです。

やがて伊右衛門が亡くなり、千代は見性院として京都で隠居生活に入ります。

夫婦二人三脚で夢を実現したかに見えましたが、彼女にとって台所は火の車でも伊右衛門と目まぐるしく過ごした日々が一番幸せな時期だったようです。

おそらく一足先に亡くなった伊右衛門も同じ想いであったのではないでしょうか。