黒い雨
井伏鱒二氏の代表作といわれる長編小説です。
太平洋戦争末期に原爆を投下された広島を舞台にした重いテーマを扱っています。
小説でありながらも実際に被爆を経験した人の日記を元に書かれており、本作品の主人公・閑間重松(しずましげまつ)夫妻、そして姪の矢須子は実在の人物がモデルになっています。
原爆をイメージしたとき、そこには"絶望"という言葉が頭に浮かびます。
徴兵されたとはいえ兵士として戦地へ赴くからには"戦死の可能性"を自覚でき、国家や家族を守るために成人男子が果たすべき義務感をいくらかは持つことができます。
しかし原爆は何の前触のない状態で、老若男女問わずに無差別に10万人以上の命を奪いました。
しかもそれが自然災害ではなく、人災であることにやりようの無い感情が湧いてきます。
原爆の投下は間違いなく戦争を繰り返してきた人類の中でもっとも悲惨な出来事の1つであり、その直後の広島は"地獄"そのものでした。
本書は原爆が投下される前日の8月5日から終戦を迎える8月15日までの出来事を回想する形で書かれています。
実在する日記を元に書かれた作品であることを考慮に入れても、あまりにもリアルな描写に途中から小説であることをまったく忘れてしまいます。
広島を中心に広がる悲惨な光景、我が子や親を失い呆然とする人びと、重傷を負った人びとが次々と息を引き取ってゆく光景が淡々と描かれており、そんな中でも生き残った人びとが必死に今日を生きてゆこうとする意志を感じることができます。
本書には反戦の訴えや、アメリカや日本の軍部への批判、教訓めいた内容は登場しません。
当時の人びとはそうした思考を巡らす余裕などまったく無かったはずであり、何よりも本作品にそうした内容が蛇足であることは明らかです。
読者を圧倒する描写される風景そのものが、何よりも雄弁に戦争の悲惨さを訴えています。
著者の井伏氏は広島にほど近い福山市の出身ということもあり、作家としての自分がやるべき義務感として本作品を書き上げたような気がします。
はっきりいって物語の中に希望は殆ど見いだせず、人によっては読むのが辛くなるかもしれません。
けっして流行の作品を読むことを否定しませんが、このような小説こそ後世の人たちに読み継がれるべきです。