暗夜行路
4回連続となる志賀直哉氏の作品レビューです。
いわゆる"文豪"や"文学の大家"と評される志賀直哉ですが、本作は彼にとって唯一の長編小説であると同時に代表作に位置付けられています。
本作が完成するまでに17年間を要しており、自身が最も苦労した作品であることを認めています。
物語の主人公は時任謙作という小説家です。
そんな謙作は母親を早くに亡くし、父親の元ではなく祖母の手によって育てられました。
裕福な家庭だったため成人したのちも受け継いだ資産のおかげで金銭的に困ることもなく日々を過ごす日常を送っています。
一応設定上は"小説家"となっていますが、あまり仕事熱心な方ではなく、どちからというと"書生"に近い印象を受けます。
ともかく細かい設定に違いがあるものの、この主人公は著者自身をモデルにしていることは明らかであり、私小説と創作小説の中間にあたる作品といえます。
前編と後編に分かれており、前篇は芸者の登喜子、従兄弟にあたる愛子をはじめとした女性へ恋する主人公(謙作)といった構図で物語が進行してゆきます。
やがてさまざまな障壁により自らの恋愛が成就しないこと、そのため心身ともに疲れ果てしまい仕事が手につかないことから、単身で尾道に滞在することを思いつき、即座に実行に移します。
美しい風景と静かな環境で何もかも忘れてしまおうとした謙作は、そこでも悩みから解放されないばかりか女中として子どもの頃から家に仕えているお栄へ対しても新たな恋心を抱いてしまうのです。
ストーリーのすべてを紹介することは避けますが、とにかく後編に入っても京都、大山(鳥取県)と舞台を移し、やがて謙作は直子という女性と結婚することになりますが、子どもが生まれても彼の心の迷いが消えることはありませんでした。
文芸評論の立場からはさまざまな角度で評価されている作品ですが、私自身は"恋愛小説"に近い印象を受けました。
"恋愛"は他人へ対する感情である以上、自己完結する性質のものではなく、何らかの影響を受けずにはいられません。
とくに謙作が若いこともあり、その影響は彼の日常の感情や態度といったすべての局面に及ぶのです。
その細やかな心情を場面ごとに細やかに表現しており、ある時は彼の兄である信行との手紙のやりとりの中でも表現されています。
揺れ動く謙作の若い心は、自信の無い、確固たる夢や目標を持つことの出来ない"弱い心"であり、その中でも父親との確執、妻や友人との狭間で必死にもがき続ける心は少しずつ変化してゆくのです。
常に謙作を中心とした地理的な描写の正確さ、周りの風景や人物の行動の緻密な描写であり、まるで映像作品のように読者へ視覚的に訴えてくるあたりは"文学作品らしさ"を感じさせます。
作品を読み進めるに従い、当時(大正時代後半)の時代風景が目に浮かぶようであり、おそらく本作品を原作に映像作品を製作したとしても、この小説を超えることは困難と思わせるほどです。
この描写の"正確さ"は他の作家がお手本とした部分でもあると同時に、真似出来ないと認めざるをえない"志賀直哉"の真骨頂といえるものです。
文庫本で600ページ近い長編ですが、急がずゆっくりと読んで欲しい作品です。