遥拝隊長・本日休診
井伏鱒二氏の作品は私小説、または実体験を元にした作品、歴史小説なども手掛けていますが、個人的には庶民たちの姿を丹念な取材とともに鮮やかに描き出した小説がもっとも好みです。
本書に収められている2作品はいずれも私が好きなスタイルの井伏作品という贅沢な1冊です。
最初の「遥拝隊長」は、母子家庭で苦労しながらも学業優秀で陸軍士官学校に入学した一人息子の悠一が、出征先のマレーシアで頭に負った傷が元で狂人となってしまった物語です。
とっくに終戦を迎えても悠一は"戦争"という幻想の中から抜け出せず、村の人々を見境なく自分の部下と勘違いして命令し、事あるごとに皇居の方角へ遥拝を欠かなさいという奇行を繰り返します。
村人たちは悠一の病気を理解していますが、事情を知らない人たちは彼を「軍国主義の亡霊」と罵倒します。
大戦中に誰よりも軍人らしく規律を重んじ部下にも厳しかった悠一の精神は、戦時中のまま時が止まってしまったのです。
この作品で悠一は、2種類のメッセージが込められています。
1つ目は人一倍親孝行で祖国のために戦ってきた人間が戦争の過酷な犠牲者となってしまうという悲哀、2つ目は狂人とはいえ悠一の時代錯誤な言動を通して日本が行った戦争の愚かしさを痛烈に批判しているという点です。
この作品は独特の視点で描かれており、物語に登場する人物に感情移入するというよりも、上空からこの山村の出来事を観察しているような不思議な気持ちにさせられるのです。
これは2作品目の「本日休診」にも共通しています。
戦後間もなく蒲田で診療を再開した三雲病院という産婦人科の日常を描いた作品ですが、院長を引退したのちも1人の医師として診療を続ける三雲八春を中心とした出来事を描いている作品です。
この物語に登場するのは普通の妊婦ではなく、様々な理由で追い詰められた一癖も二癖もある患者たちばかりです。
貧しい人にも治療を施す老医師は、さしずめ昭和の赤ひげ先生といったところですが、それを人情物語にしないところが井伏氏らしい演出です。
この老医師の視点を通して描かれるのは、戦後の貧困や混乱に満ちた世情であり、風俗そのものであるといえます。
戦後70年を経過した今の私たちから見ると、社会性のある優れた作品という印象を受けますが、驚くべきことに本作品が発表されたのが昭和24年(1949年)であり、日本がGHQの占領下にある時代でした。
時代が移り変わっても色褪せないという点で、本書に収められている2篇の小説は間違いなく名作と呼ぶに相応しいのではないでしょうか。