日本的霊性
「近代日本最大の仏教学者」と評された鈴木大拙氏の代表的な著作です。
"霊性"は聞き慣れない言葉ですが、それはこの本が発表された1944年当時も同じであり、著者は本書のはじめに"精神"という言葉と対比することで、"霊性"の意味を解説しています。
それによると霊性とは宗教意識であり、精神が倫理的なのに対し、霊性はそれを超越した無分別智であり精神の奥に滞在しているはたらきだとします。
そもそも精神を超越する霊性を言葉で表現すること自体が困難なのかも知れませんが、簡単に言えば日本人特有の普遍的な宗教意識ということになります。
この霊性は民族がある程度の文化階段に進まないと覚醒されない、つまり原始民族に霊性は見られないのです。
以上を踏まえた上で、日本において霊性が覚醒したのは鎌倉時代以降であり、その最も純粋な姿が"浄土系思想"と"禅"であるとします。
仏教は6世紀・欽明天皇の時代に渡来していますが、その時代の仏教は宗教的儀式、建築技術、芸術といった文化的な要素が主流であり、その信仰も朝廷を中心とした知識人や貴族たちの間に留まり、宗教的生命である霊性が欠如していると断言しています。
また平安時代の「万葉集」に代表される和歌からも、そこに日本的情緒の発芽はあっても原始的感情を脱していません。
霊性のはらたきには、現世の事相に対しての深い反省、そして反省が進み因果の世界から離脱して永遠常住のものを掴みたいという願い、そしてその願いを叶えてくれる救済者(本書では大悲者とう仏語で表現)が必要となるのです。
言われてみれば、仏教と並ぶキリスト教、イスラム教にも救済者が存在しています。
こうした意味で仏教と並び日本を代表する「神道」にはこの要素が弱いと著者は指摘しています。
ただし著者には宗教の優劣を論じるつもりはなく、あくまでも日本においては浄土系思想、そして禅がその霊性を覚醒させたその要素を解説していきます。
すでに仏教が生まれたインド、そして渡来元となった中国では別の宗教が主流となり、その民族の霊性を覚醒するには至りませんでしたが、なぜ日本においては仏教が民族の霊性を覚醒させたのか?
著者はそれを"たまたま"、つまり"偶然"であったとします。
長い平安時代を経て鎌倉時代に日本的霊性が生まれえる下地が整ったところに仏教が媒介として存在したのです。
偉大な学者であり宗教家、哲学者でもあった鈴木氏が生涯の研究テーマとした扱った"霊性"だけに論じられるテーマは広範囲で壮大となり、本書だけではその一端を垣間見るに過ぎないのかも知れません。
実際に日本的霊性を覚醒させた要素の1つである浄土系思想、その中でも特に法然と親鸞を中心に取り上げていますが、紙面の都合で禅についてはほとんど言及していません。
鈴木氏にはその他にも多数の著書があるため、機会があれば他の著作も読んでみるつもりです。