柳生兵庫助〈6〉
兵庫助は幼少の頃より剣術の修行に励み、若くして加藤清正へ兵法師範として仕えるも1年で退去し、10年にも渡る諸国修行の旅を続けます。
その間に祖父・石舟斎より柳生新陰流の印可状・目録一式を受け継ぎ、新陰流の三代目として相応しい実力・名声を手に入れます。
間違いなく達人の境地にあった兵庫助ですが、世間的に主人を持たない侍は単なる"浪人"であるのが現実です。
もちろん兵庫助を家臣にしようと魅力的な条件を提示した大名もいたはずですが、彼自身に叔父宗矩のように俗世間で出世しようという野望はなく、剣一筋で生きることを望んでいました。
そんな兵庫助へ対して理解を示した上で兵法師範として迎えてくれたのが、尾張初代藩主である徳川義直です。
義直が歴史小説に取り上げられる機会は少ない気がしますが、江戸時代初期に活躍した名君の1人です。
家康の九男として生まれ、優れた藩政を行い尾張藩の礎を築いた人物です。
戦国武将のような激しい気性の持ち主であり、かつ家康の実子としてのプライドもあったため、家康の孫である第三代将軍・家光との相性は良くなかったようですが、尾張藩が徳川御三家の筆頭として地位を得るようになったのは、義直の功績によるところが大きかったはずです。
徳川御三家筆頭ということは、すなわち格式において全大名のトップであることを意味し、将軍・家光が師事していたのが叔父の宗矩であり、義直が師事したのが兵庫助ということを考えると、柳生新陰流が兵法家としてNo1、2を独占したと見ることができます。
面白いのは義直と家光が叔父と甥という関係であり、その兵法指南役である宗矩と兵庫助の関係も同じ叔父と甥という関係であるということです。
兵庫助はかつて清正へ仕えたときに家臣間のいざこざ(出世争い)に辟易した経験があり、兵法一筋の奉公、つまり剣術や兵法に関すること以外は一切やらないという条件を義直へ出し、義直はそれを快諾します。
もし兵庫助が出世を望むのであれば、宗矩のように兵法指南役のほかに大目付として諜報活動に励むなど、ほかの役目も兼任する方が望ましいはずですが、彼はそれを剣術修行の妨げになると判断して退けるのです。
兵庫助らしい判断ですが、剛毅な性格の義直には一途に剣の道を極めようとする姿にむしろ好印象と信頼を抱いたのではないでしょうか。