山県有朋: 明治日本の象徴
昭和33年に岩波書店から出版された岡義武氏による山県有朋の伝記です。
まずは本書の紹介文を引用してみます。
「彼の一生を語ることは、明治・大正史を語ることである」。痩軀鶴のようなこの人物、元老・山県有朋は、広く張りめぐらせた自らの派閥を背景に政界に君臨し続け、内閣を製造しては倒壊させた。激しい権力意志に貫かれた政治家の生涯を、明治・大正期の日本国家の軌跡とともに端正は筆致で描き切った評伝の傑作。
幕末ファンからすると、奇兵隊の隊長というイメージが強いですが、実質的に彼が活躍するのは明治時代に入ってからと言えます。
実際には活躍どころか、長らくライバルだった同郷の伊藤博文の死後は、内閣を作るも壊すも思いのままという権威を誇っていました。
ただし権力者は世の中から嫌われるのが常です。
特に敗戦後の日本では、「閥族・官僚の総本山」、「軍国主義の権化」、「侵略主義の張本人」と非難された人物でもあります。
一方でこうした山形へ対する評価はイメージだけが先行した部分もあります。
実際の逸話からは、石橋を叩いて渡るタイプの慎重で神経質な性格の持ち主であったことが分かります。
たとえば初対面の人と胸襟を開いて話すことはまずなく、寡黙で厳格な態度を崩すことはありませんでした。つまり人を簡単に信用することはなく、じっくりと相手を値踏みすることに徹していたのです。
ただし山形に一旦信用できる人物と見込まれた後は、誰よりも多弁になり、聞かされた側が驚くほどの政治上の機密を打ち明けてくることも珍しくなかったようです。
そして一旦引き上げた人物には、その(能力を含めた)利用価値に応じて相応しい地位を与え、その後の面倒を見続けたというから、このあたりに巨大な派閥を作り上げた要因がありそうです。
維新の元勲と言われる人物たちは、自らが先頭に立って物事を進めるタイプが多く、ライバルの伊藤博文もこのタイプでした。
一方山形は、自分が前面に出ることを好まず、派閥の人間を送り込むことで目的を実行しようとしました。
これは性格的なもの以上に、仮に政策が失敗しても直接的な政治的責任の追求から自分が逃れるための計算でもあったのです。
こうした慎重さは彼が絶対的な影響力を持っていた陸軍へ対しても同様であり、富国強兵には熱心でしたが、いざ武力行使を行うかの判断は常に慎重であり、日清戦争やシベリア出兵に際しては、元老の中でもとも消極的な姿勢を示していました。
慎重さは急進的なものを嫌うということにも繋がり、典型的な保守政治家としてあり続けたことから、政党政治を目指す原敬をはじめとした閥族以外から出てくる新興勢力へ対しては、高い障壁となって立ちはばかりました。
自らを"一介の武弁"と称していましたが、これは世間からの目を韜晦するための発言であり、実際にはきわめて政治的な人間だったといえます。
一方で権力を愛し、死ぬまで決して手放さそうしなかった点では貪欲さを感じたものの、伝記からは独裁者というイメージは伝わってきませんでした。
山形を「穏健な帝国主義者」と評する人もあり、ある面ではよく言い当てている言葉です。
昭和の大物政治家には、"政界のドン"、"影の総理"、"妖怪"、"フィクサー"などと呼ばれる人物がいましたが、その元祖ともいえる人物が山県有朋だったように思えます。
植村直己、挑戦を語る
植村直己。
日本が輩出してきた数多くの冒険家の中で燦然と輝く名前であり、世界初の5大陸山岳の最高峰登頂者、単独での犬ぞり北極点初到達、グリーンランド初縦断など数々の偉業を成し遂げたました。
当然のように一躍時の人となると著名人との対談が企画されましたが、本書はその中から文藝春秋社が選りすぐった記事が掲載されています。
以下が対談相手となった人たちの一覧ですが、約40年前の対談にも関わらず私でも知っている人が殆どという豪華な顔ぶれです(西暦は対談が行わた年です)。
- 加藤芳郎(漫画家) - 1971年
- 石原慎太郎(作家) - 1976年
- 五木寛之(作家) - 1976年
- 王貞治(プロ野球選手) - 1977年
- 三浦雄一郎(冒険スキーヤー) - 1978年
- 堀江謙一(ヨットマン) - 1978年
- 遠藤周作(作家) - 1978年
- 開高健(作家) - 1978年
- 伊丹十三(映画監督) - 1978年
- 小西政継(登山家) - 1979年
- 藤井康男(龍角散社長) - 1980年
- 井上靖(作家) - 1981年
- 榛名由梨(宝塚歌劇団) - 1982年
- 早川種三(実業家) - 1983年
- 大貫映子(ドーバー海峡横断スイマー) - 1983年
- 西堀栄三郎(南極越冬隊初代隊長) - 1983年
- 多田雄幸(ヨットマン) - 1983年
五大陸最高峰登頂に成功したのが1970年、そして1984年にマッキンリー冬期単独登頂後に消息不明(のちに死亡と認定)になったことを考えると、植村が活躍した時代がまんべんなく網羅されているといえます。
彼の冒険スタイルの特徴は、単独行であるという点です。
これだけの冒険を1人で挑戦するからには強靭な肉体を持った外見を想像しがちですが、実際には小柄で人懐っこい顔をした好青年というイメージです。
まず街を歩いていも彼が世界的に有名な冒険家であるとは誰も思わないでしょう。
加えて面白いのは、植村は自分を「落ちこぼれ」、「気が弱い人間」と評価している点であり、これは彼が有名になってからも変わることはありませんでした。
実際に対談内容を読んでみても"勇敢"という印象はなく、"素朴で実直"という言葉がぴったりとくる人柄が伝わってきます。
それでもなぜ植村直己が大胆な挑戦を成功させてきたのか。
そのヒントが本書に収録されている各分野の著名人たちの対談の中に隠されているような気がします。
極上の孤独
現代では「孤独=悪」だというイメージが強く、たとえば孤独死は「憐れだ」「ああはなりたくない」と一方的に忌み嫌われる。
これは本書の紹介文の一節ですが、確かに孤独に対するイメージは"悪"とまで言い切れなくとも、マイナス面の強い単語として使用される機会が多い気がします。
著者の下重暁子氏は、NHKアナウンサーを経てフリーアナウンサーとなり、現在は評論や作家として活躍されている方ですが、本書では彼女が孤独を愛する理由、そして孤独の効用を語っています。
まず最初に断っておくと、本書にある孤独の効用は心理学的な見地からではなく、あくまでも著者の経験や個人的な主張に基づくものであるという点です。
今はLINEやTwitterに代表されるツールによって手軽に簡単に人と繋がることのできる時代であると言えます。
一方で便利なツールが出来れば出来るほど、人間の気持ちは追い詰められてゆくと著者は主張しています。
これについては容易に想像がつきます。
面と向かって口で言う必要がない分、相手が傷つく文章を簡単に送ることができ、また簡単にメッセージを無視することもできます。
しかしそこから湧き上がってくる感情は「孤独」ではなく、「淋しさ」であると著者は言います。
つまり「孤独」と「淋しさ」はまったくの別物であるということです。
著者にとって魅力的な人たちはみな孤独であったことも回想しています。
交流があった範囲では、永六輔、立川談志、歴史上の人物であれば種田山頭火、尾崎放哉、そして良寛といった人物を挙げています。
彼らに共通するのは、孤独をみじめな境遇とは考えず、1人の時間を大切にして自分で考え、決断することによって成熟してきた人間であるという点です。
たしかに友だちが多いこと、人脈が広いことも大事かも知れませんが、孤独を知らなければ「凛とした」、「毅然とした」した人間が完成しないという点は同意できます。
よく経営者は孤独であるという方は多いですが、その理由は彼らの抱える重責という要素意外にも、自分と向き合う時間が多いという要因があるのかも知れません。
本書の最後に著者が出会った中でもっとも孤独で孤高な人生を歩んだ人物として小林ハルを挙げていますが、そこではじめて本ブログでも紹介した「鋼の女 最後の瞽女・小林ハル」を執筆した方と同一人物であることに気づきました。
私自身、本書を読んでも他人へ積極的に孤独をすすめるまでに達観はできませんでしたが、少なくとも孤独へ対する単純なマイナスイメージを払拭することができ、また孤独を愉しむ方法があるという視点は新鮮なものでした。
ルポ 中年フリーター
本書のタイトルにある"中年フリーター"とは、就職氷河期に就職難に遭遇した人びとを指します。
もっとも低いときの就職率は55%にまで落ち込み、2人に1人近くが正社員として社会人のスタートを切ることが出来ませんでした。
やがて彼らは中年を迎え、契約社員や派遣社員に代表される非正規雇用という条件下で今も働き続けています。
本書は大きく3章から構成されており、第1章では、中年フリーターの悲惨な労働環境をルポルタージュ形式で紹介しています。
第2章では中年フリーターから少し外れて、女性の労働問題を同じくルポルタージュ形式で紹介しています。
"妊娠解雇"や"マタハラ"といった問題を中心に扱っています。
そして第3章では、雇用問題へ対する新しい取り組みを始めている行政や企業を紹介しています。
こうした施策の中に中年フリーター問題を解決するためのヒントがあると著者は考えています。
私自身が就職氷河期真っ最中だったこともあり、このような状況が肌感覚としてはありました。
私の場合、小さい企業であるものの卒業1ヶ月前に就職を決めることができ、何とか正社員として滑り込めましたが、当時はフリーターでもしょうがないと半ばあきらめの心境だったことを覚えています。
私の社会人キャリが非正規雇用で始まったこと仮定すると、本書の取材に登場する人たちと同じ立場になっていた可能性が決して低くないことに気付かされます。
問題の本質を簡潔に表せば、企業が人件費を削減するために非正規雇用を安易に利用し、かつそれを行政が認めてきたという点に尽きます。
ただ本書から見えてくるのは、中年フリーターは単なる当人たちの生活苦という問題では片付かないという点です。
1つは非正規雇用労働者の増加と高齢化によって、生活保護の予算が現在の約4兆円から、将来的に17~30兆円へ膨らむ可能性があるという財政上の問題です。
2つめはフリーターという立場ゆえに専門スキルを身に付けないまま働き続けることの経済的な損失です。
つまり前向きな支援によって非正規雇社員が正社員となり熟練労働者となることで、人手不足と言われて久しい国内産業を活性化できる可能性があります。
私自身も企業における社員の人手不足を実感していますが、他方では正社員になりたくともなれないというミスマッチが起こっています。
こうした問題の本質、そして今起きている現実を知る上でも本書の示唆することは重要だと感じられます。
額田王
単行本1冊にまとまっていますが、600ページにも及ぶ井上靖氏の長編歴史小説です。
主人公の額田王(ぬかたのおおきみ)は、万葉集にその歌が残っている日本最古の女歌人であり、天皇に仕える巫女であったという一説もあります。
しかしながら歌以外に残っている史実が少なく、確実なのは大海人皇子(のちの天武天皇)との間に十市皇女(とおちのひめみこ)という娘を産んだということだけです。
さらに残っている歌から推測して、大海人皇子の兄にあたる中大兄皇子(のちの天智天皇)と三角関係にあったという説もあり、そこから彼女が絶世の美女であったという伝説も生まれてます。
つまり詳しい経歴がほとんど分かっていないに等しいですが、彼女の生きた時代(飛鳥時代初期)といえば、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱 といった歴史的な出来事も多く、簡単に言えば天皇を頂点とした中央集権体制が本格的に始まった時代でした。
逆に言えば、残っている史料が少ないからこそ補完できる要素が多く残っているということであり、作家として腕の見せどころの多い主人公であると言えるでしょう。
中大兄皇子、または大海人皇子を主人公にした方が物語の起伏に富んだストーリーを書けるはずですが、あえて額田王を選んだところに歴史小説であると同時に、文学作品としての側面を見ることができます。
作品に登場する額田王は、神の声を聞くための巫女として登場します。
巫女というからには、后やほかの皇女とは一線を画した特別な存在であり、作品序盤では彼女の心境を次のように描いています。
神の声を聞くか、人間の声を聞くか、そのいずれかを選ぶとすれば、言うまでもなく神の声を聞く方を採るだろう。
一度神の声を聞いてしまった者には、人間の声などさして興味も関心も持てないのである。自分が作る歌は、すべて神の声である。
つまり額田王は、俗世間とは距離を置いて生きてゆくことを自らに課していたのです。
作品中には中大兄皇子と中臣鎌足を中心とした行われた改革や外征が描かれており、日本の政体が大きく変わってゆく時代であったことが伺えますが、言わばそれは風景のようなものであり、作品の中心は額田王の心情が中心に据えられています。
読者は時代の移り変わりと共に、額田王の心中がどのように変化してゆくのかを追ってゆくことになります。
いずれにせよのちに天皇となる2人の皇太子に愛された額田王が幸福だったのか、それとも不幸だったのかの判断は読者に委ねられています。
ひとつ海のパラスアテナ (3)
すべての陸地が水没して海洋惑星となった地球(?)を舞台とした冒険小説「ひとつ海のパラスアテナ」第3巻のレビューです。
第1巻が冒険の導入部、そして第2巻と3巻がより大きな冒険譚として括られている構成であるため、大団円を迎えるのが本書ということになります。
陸地が無くなってしまった世界にも"浮島"と呼ばれる、海の浮遊物が寄せ集まって出来上がった島が世界中に点在しています。
第2巻では《セジング》と呼ばれる浮島を中心に物語が展開してゆきましたが、その浮島が天災(自然現象)によって消滅してしまうところから第3巻はスタートします。
このシリーズの面白い共通点といえば、各巻で必ず1回は主人公が漂流または遭難してしまうという点です。
海上に漂う頼りない浮島とはいえ、そこでは水や食料を補給することができ、そして多くの人びとが生活しています。
よって点のような浮島と船を失ってしまった直後から、必然的に即サバイバル生活が始まるというシビアな世界に人びとは生きています。
いつ助かるのか、それとも誰にも発見されることなく死んでゆくのかという葛藤の中で生きてゆく人間は、究極の心理状態にあるといえます。
こうした描写を見て思い出すのが、江戸時代に無人島へ漂流してしまい、自給自足で13年もの歳月を送った人間を描いた吉村昭氏の「漂流」です。
食料や水を確保するのも大変ですが、一番辛いのが人知れず朽ち果てていくことへの"孤独"ではないでしょうか。
孤独で絶望に満たされた人間は、生きてゆくための活力や正常な判断力さえも失ってしまいます。
ライトノベルという特性もあり、登場するキャラクターに女性比率が多い部分は読み慣れていない私にとって少し戸惑いを覚えますが、時折出てくるリアリティ溢れる描写がそれを補って楽しませてくれます。
また作品全体としては、ストーリーのテンポよりも場面ごとの会話シーンや心理描写を丁寧に描くことに重点を置いており、比較的じっくりと読ませるタイプの作品に仕上がっています。
主人公はじめ各キャラクターの個性もしっかりと作り込まれており、続編が登場すればまた読んでみたいと思わせるシリーズです。
ひとつ海のパラスアテナ (2)
前作で2人の少女アキとタカが30フィート級のヨット"パラスアテナ号"に乗り込み、大海を冒険した日々から1年後を描いた続編です。
もちろん同じメンバーで冒険の続きが始まるものと思っていった読者も多いと思いますが、意外な展開でストーリーの幕が上がります。
それは主人公アキが、海賊団ウィッチファミリーの一員として登場するからです。
本ブログではネタバレとなるようなストーリーの詳細を紹介することは避けますが、簡単に言えばアキは再会を約束した相棒のタカと離れ離れになり、愛船であるパラスアテナ号を失ったどん底の状態にいたのです。
言わばピンチから這い上がってゆく過程を描いてゆきますが、前作と比べて本作品では一気に登場人物が増え、ストーリーも多様になり、本格的な冒険が始まったという印象を受けます。
はじめはアキと敵対的だった人物が少しずつ仲間となり、強大な敵へ立ち向かってゆくというストーリーは他の冒険小説にもありがちな展開ですが、やはり大海原という独特の世界を舞台にしているということが、ありきたりのストーリーとは一味違った作品に仕上げています。
本シリーズは、陸地が海面に沈んだ"アフター"と呼ばれる世界が舞台ですが、魔法のような特殊な能力が存在するわけではなく、登場人物たちは今の我々とそう変わらない人間です。
そんな彼らにとって強力な武器といえば、かつて陸があった"ビフォー"の時代に発達していたテクノロジーの力を利用する場面であると言えます。
それは主人公たちをピンチに陥れることも、逆にピンチから脱出させてくれることもある諸刃の剣でもあるのです。
本書では最後に予想外の急展開が待っており、次の第3巻と1つのストーリーでつながっています。
第1巻はストーリーがシンプルに構成されており、その分完結した作品としても楽しめますが、本書を手にとった人は次巻も入手せずにはいられないでしょう。
ひとつ海のパラスアテナ
すべての陸地が海面下に没してしまった世界、すなわち"アフター"と呼ばれる世界を舞台にしたライトノベルです。
かつて大陸が存在し、科学が発達していた世界は"ビフォア"と呼ばれ、アフターの人々はわずかに残ったそのビフォアの遺物を利用しながら逞しく生き抜いているという世界です。
映画「ウォーターワールド」のように、温暖化によって海洋惑星になってしまった地球とほぼ同じ状況だと思えば間違いありません。
主人公は両親と生き別れになり、たった1人でメッセンジャー(荷物を送り届ける配達員)として生業を立てている14歳の少女アキです。
主人公には「破滅に向かう世界を救う」といった大きな目的があるわけではなく、14歳の少女が大海だけの世界を生き抜く姿がそのままストーリーになっているといってよいでしょう。
冒頭からいきなり漂流してしまい絶体絶命のピンチに陥りますが、偶然出会った16歳の少女タカに救い出され、新たな仲間として共に旅をするようになります。
つまり本作品は大海原を舞台にしたファンタジー冒険小説といえるでしょう。。
燃料を滅多に入手できない世界にあって航海に用いられるのは、エンジンを動力とした船舶ではなく風を動力とする帆船(ヨット)です。
そのため作品中には、セーリング技術や専門用語が頻繁に登場します。
著者がその方面に詳しいことが伺えますが、丁寧に解説されている箇所もあり、読者が戸惑うことは少ないのではないでしょうか。
逆にそうした描写が、少女2人が大海を冒険するといったライトノベルらしい設定の中にあって、その過程にリアリティをもたらしてくれる効果があります。
実際のストーリーも比較的シビアなシーンが多く、中学生から大人まで楽しめる作品に仕上がっています。
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