本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

火星のタイム・スリップ


本ブログでも何度か紹介しているフィリップ・K・ディック氏のSF小説です。

本作品は1964年に発表されており、物語の舞台は1994年の火星です。

すでに人類は火星へ植民しているという設定ですが、まだまだ人口密度は少なく物資も不足しがちな状態にありました。

中でもより深刻なのが生活に欠かせない""の不足であり、水利労働者組合のトップであるアーニイ・スコットはそうした状況を背景に絶大な権力を握っていました。

彼は国連による火星の大規模な開発計画の噂を聞きますが、すでに地球の投機家たちに先を越されたことを知り、施設に入っている少年マンフレッドの特殊な能力を利用してその挽回を企むのです。

主人公は火星で機械の修理工として働くジャック・ボーレンという設定ですが、この壮大な計画と一見無関係に見える人物がアーニイやマンフレッド、さらには周辺の登場人物たちに巻き込まれる形でストーリーが進行してゆきます。

登場人物たちにはそれぞれの思惑があり、その利害関係が複雑に絡み合って次第に大きな話へと発展してゆきますが、ディック氏の作品は王道SFであると同時に、人間ドラマにも重点が置かれているのが特徴的です。

また荒涼とした火星に原住民が存在するといった設定も斬新です。

彼らは"ブリークマン"と呼ばれる移動しながら狩猟をして暮らしている人びとであり、テクノロジーとは無縁の生活をしています。

彼らの中には地球人に雇われている者もあり、アーニイ専属の料理人もブリークマンですが、彼らは独自の文化と精神世界を持っており、どことなくかつてのアメリカンネイティブたちを思わせます。

実際に彼らの予言めいた暗示はこの作品の大きなキーポイントになってきます。

テクノロジーの発展とともに際限なく膨らんでゆく人間の欲望、一方で物質的な豊かさが幸せには結びつかず、むしろ人間の心を蝕んでゆくといったメッセージが火星を舞台にしたSF作品を通じて語られている気がします。

ディック氏の描く作品には独特のカオスな世界観があり、これがSFとの相性が非常によく、社会の抱える問題の本質を浮き彫りするような鋭さを感じるのです。