本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

砂の女


安部公房氏の代表作の1つに挙げられるのが本書「砂の女」です。

普段は教師をしている男が趣味の昆虫採集のため、あるうらぶれた漁村を訪れます。

やがて日が暮れ、主人公は村人の紹介で女が1人で暮らす一軒家に泊まることになりますが、その家は蟻地獄のように砂に埋れた場所にあり、やがて男はその砂穴に閉じ込められたことに気付くのです。

ここまでが物語の導入部ですが、中盤まではホラー作品のような印象を受けながら読み進めました。

主人公が理不尽に砂穴の底へ閉じ込められるというシチュエーション、男と一緒に穴底で暮らす女、彼を逃がすまいと見張り続ける村人たちの不気味さ、さらには砂を人力で掻き出し続けるという不思議な風習など、どことなく作品中の雰囲気はラヴクラフトクトゥルフ神話シリーズに似ています。

しかし作品中には異形の神々やそれを信仰する謎の宗教集団などが登場することはなく、ひたすら人間のみが描かれていることが分かってきますが、ミステリー小説とも違った作品であることもが分かってきます。

読み終わってみれば登場人物も少なく、村人たちの名前は誰1人明かされることはありません。

次に作品に登場する要素を挙げてみたいと思います。

  • 砂丘に埋もれかかった周囲から孤立した部落
  • 砂穴に閉じ込められた主人公(男)
  • 砂穴の中にある朽ちかけた一軒家
  • そこに住む30歳くらいの1人の女
  • そこから自由を求めて脱出を試みる男
  • 自由を求めようとせず砂穴の中で男を引き留めようとする女
  • 男を逃がすまいと見張りを続ける村人たち
  • ひたすら部落が埋れることを防ぐために人力で砂を掻き出し続ける日々
  • やがて繰り返されるようになる男と女の砂穴での暮らし
  • やがて脱出すること以外にも関心を持ち始める男

    • 狭い砂穴に理不尽に閉じ込められ続ける主人公の立場はこの上なく不自由なものであり、まるで囚人のようです。

      そもそも部落を訪れる前から教師という仕事に嫌気が差し始めていたていた彼にとっての"自由"とは何を指すのでしょう。

      穴や部落から脱出できたとしても男にとって灰色の日常に戻るだけです。

      本作品は1962年(昭和37年)に発表されていますが、この作品が何を風刺しているのかを考えながら読むと味わい深い文学品になってくるから不思議です。

      たとえば本来は自分の意志で自由な場所へ行けるはずであるが、ひたすら自宅と職場との間を往復する不自由な毎日を繰り返すサラリーマンへの揶揄。

      ひらすら手作業で砂を掻き出し続ける場面からは、思考停止して古い風習にこだわり続ける組織への批判。

      さらには狭い砂穴の中での不自由な暮らしに満足している女の姿からは、どんな環境でも心の持ちようで人間は幸せを感じることができるという示唆。

      ストーリー自体はシンプルながらも、色々と考えさせられる要素が幾つも見つかります。

      本作品が世界20数カ国に翻訳され、海外でも高い評価を受けていることに頷けるのです。

北の海(下)


井上靖氏の自伝小説「北の海」下巻のレビューです。

主人公の洪作は受験に失敗したものの、参考書も開かず目的のないまま沼津で日々を過ごします。

たまたま四高(現在の金沢大学)の蓮実と出会い、練習量がすべてを決定する柔道(七帝柔道)という存在を知り、浪人生の身でありながらも夏休みに彼らの合宿に参加すべく単身金沢へ向かいます。

洪作には具体的な将来の夢や目標を持っていませんでしたが、ひたすら柔道に打ち込む柔道部員の姿に引き込まれ、四高への進学を決意することになります。

一方で柔道部の練習は厳しいもので、部には次のようなモットーががありました。

  • 学問をやりに来たと思うなよ、柔道をやりに来たと思え
  • この世に女はいないものと思え
  • いっさいものは考えるな

それは半世紀以上のちに北大で同じく柔道に打ち込んだ日々を描いた増田俊也氏の「七帝柔道記」と驚くほど似ている価値観であり、伝統が受け継がれ続けてきたことが分かります。

その世界観は独特で、いわゆる「体育会系」とは違い、「バンカラ」的な要素も多分に入っている価値観で、この空気感がそのまま本作品の魅力になっています。

洪作は夏の間、ひたすら金沢で柔道に明け暮れますが、彼の身分は浪人生であり、そもそも勉強などせずに教師に「極楽とんぼ」と揶揄されるほど自由奔放に過ごしてきました。

そんな洪作が練習も規律も厳しい柔道に打ち込むことになったのは皮肉ですが、それがまた青春らしさを感じさせてくれます。

またこの作品に出てくる登場人物はいずれも個性的であり、それぞれの魅力を備えているという点も見逃せません。

大天井、鳶、杉戸といった金沢で出会った柔道部員、中学時代からの悪友である藤尾、木部、金枝、地元の柔道仲間である遠山、色々と世話を焼いてくれる宇田先生夫妻など、いずれも損得勘定抜きで洪作と付き合ってくれる人たちばかりで、心が温まるエピソード、ときには感情的になって口論や喧嘩になるシーンなど、印象に残る場面が数多く登場します。

男ばかりの汗臭い物語に終始するわけではなく、料理屋でバイトをしているれい子はマドンナ的存在であり、洪作へ密かに想いを寄せるエピソードなども登場します。

青春小説としてはほぼ完璧な構成であり、時代を超えて多くの読者を惹きつける名作であるといえます。

唯一惜しいのは、洪作が四高へ入学したあとのエピソードは小説化されていないという点だけでしょうか。

北の海(上)


本作品は井上靖氏の「しろばんば」、「夏草冬濤」に続く私小説3部作の最後にあたる長編小説です。

本ブログで過去に紹介した増田俊也氏の「七帝柔道記」がとても面白く、増田氏がかつて所属した旧七大学の柔道部員にとって本書がバイブル的な位置付けの作品であることを知ってから、いつか読んでみたい小説として頭の片隅に残っていた作品です。

「七帝柔道記」は柔道を通じて描かれた青春小説でしたが、本書を読んでみて驚くほどその内容が似ていることが分かり、本作品から大きな影響を受けていることが分かりました。

主人公の洪作は井上氏自身をモデルにしています。

洪作は沼津中学(現在の沼津東高等学校)を卒業したものの、受験に失敗してそのまま沼津で浪人生活を送っていました。

洪作は小さい頃から台湾に住んでいる親元から離れて暮らしており、浪人生であるものの勉学へ身が入らず、沼津にある下宿先の寺を拠点に気ままに暮らしていました。

かつての悪友(同級生)たちは地元を離れて東京などへ引っ越ししてしまい、1人で時間を持て余した洪作は母校の柔道部へ連日通うようになります。

そこにはかつての同級生で留年している遠山が在籍しており、洪作にとっては地元に残る唯一の友だちと言える存在でした。

本作品を読むと、「将来の夢や目標へ向かって努力するべき」という価値観が明治明治40年(1907年)生まれの著者の時代から存在することが分かりますが、これは当然の考えとして現代に至るまで脈々と受け継がれています。

一方で誰もが明確な夢や目標を持つことができるとは限りません。

洪作がまさにそういった存在であり、ふらふらと目的のない毎日を過ごし、とにかく友だちと他愛のない会話や遊ぶことが何より楽しくて、漠然とこうした日々がずっと続けばいいと考えている青年でした。

一方で将来の夢は一旦脇に置いておいて、とにかく夢中になれるものが"柔道"だったのです。

そこで四高(現在の金沢大学)柔道部員の蓮実と出会い、練習量がすべてを決定する寝技を中心とした柔道(いわゆる七帝柔道)の存在を知って、やがて惹かれてゆくのです。

本作品には洪作以外にも個性的なキャラクター(洪作の友人)たちが登場し、彼らとのやり取りを読んでゆくと青春時代を思い出すような鮮やかさがあります。

著者と私の過ごした青春時代の間には半世紀以上の隔たりがあるはずですが、ここまで共感させてくれるのは文豪としての井上氏の筆が冴え渡っているからだと言えるでしょう。

また本作品に限らず戦中小説を読んでいても実感するのは、時代が変わっても青春期にある少年・少女たちの持つ不安や希望、好奇心、そして社会へ対する反骨心は本質的に変わらないものであり、世代を超えて共感を得る"力"があるということです。

私自身のことを言えば、ひたすら部活動に打ち込んだ高校時代、さらに勉学へ身の入らない浪人・大学生活を経験したことなどが洪作の姿と重なり、ひたすら共感しながら時間を忘れて読み進めてしまう作品でした。

神田伯山対談集 訊く!


絶滅危惧職、講談師を生きる」に続き神田伯山先生(落語の真打ちは師匠、講談師の場合は先生と呼ぶ)の著書になります。

近場で開催された伯山先生の独演会に行く機会があり、そこで物販として置かれていた本書を思わず購入してみました。

満席の会場を枕で大いに盛り上げ、本編の講談も迫力ある内容で私を含め観衆全体を引きんでゆく様子がよく伝わってきました。

私はあまり演芸のことは詳しくありませんが、寄席で観た著者の師匠である神田松鯉先生が滔々と流れるような講談なのに対して、伯山先生はメリハリの効いた調子という印象があります。

本書は2019年から2022年にかけて断続的に週刊プレイボーイで連載された伯山先生と11名の各界の著名人との対談を書籍化したものです。

  • 又吉直樹
  • 弘中綾香
  • 宮藤官九郎
  • アントニオ猪木
  • 真島昌利
  • 北方謙三
  • 高田文夫、矢野誠一
  • 中村勘九郎
  • 中井貴一
  • 寺島しのぶ

芸能界に疎い私でも本書に登場する人たちを全員知っているほど有名な方ばかりが登場しており、目次を見ただけで豪華な対談集という印象を受けます。

著者が講談師であることを生かして、普通のインタビュアーとは異なる角度、つまり講談を含めた演芸の世界に重ね合わせたり、時には1人の芸人が腕を磨いてゆく上でのヒントを対談の中に求めてゆくというスタイルと取っています。

本書に登場する人たちの中で著者より年下なのはアナウンサーの弘中綾香氏1人ですが、彼女へ対してはアドバイスを送っている点も印象的でした。

また全編に渡って、著者がインタビュー相手のことをよく知っている(もしくは事前に調べた)上で対談に臨んでいるのが伝わってきたました。

当然、自分のことをよく知ってくれている人へ対しては機嫌良く対応するが人の心情というもので、対談が終始雰囲気良く進行しているのが紙面からも伝わってきます。

逆に対談相手は人によって講談に詳しい、詳しくない人に別れますが、話の流れの中で講談のことを相手へ簡潔に説明してゆく箇所もあり、講談に詳しくない読者もハードルを下げて本書を読むことができます。

ちなみに高田氏、矢野氏が講談に詳しいのはもちろんですが、ミュージシャンである真島氏が演芸全般に明るい点は驚きでした。

こうしたさまざまなジャンルの著名人との対談を通じて、講談そのものが世間一般へ認知されることを期待する著者の意図も充分に伝わってきて、楽しみながら読むことができました。

いずれにせよ肩肘張って読む類の本ではなく、1日1人ずつというマイペースでも良いので気楽に手にとって読んでゆくのがお勧めです。

私も並行して読んでいる長編小説がある中で、気分転換やちょっとした合間に本書を少しずつ読み進めました。

私自身は歴史小説や歴史そのものが好きなこともあり、そうした人にとって講談は非常に相性の良い演芸だと思っています。

一方で歴史へ関心がない人でも、任侠伝のようにストーリーそのものが単純に面白い読み物も数多くあり、とくに伯山先生の講談は初心者にとっても受け入れやすい魅力を持っています。

私も講談というジャンルが世間にもっと認知され、落語と同じように目にする機会が増えると良いなと願っている1人です。

後白河院


井上靖氏による歴史小説です。

タイトルかわ分かる通り本書は後白河院が主人公ですが、この時代はいわゆる平家物語(源平合戦)と一致しており、分かりやすい活躍をした清盛頼朝義経といった武家側からの視点ではなく、あえて朝廷側の視点から作品を描いている点が特徴です。

また本作品はすべて三人称によって書かれており、後白河院を主人公としながらも彼の視点や心情が直接的に描かれることはありません。

全4部から構成されており、いずれも公卿である男女が過去を振り返っての語り、もしくは自らが記した当時の日記を振り返るという形で物語が展開してゆきます。

  • 第1部:平信範
  • 第2部:建春門院中納言
  • 第3部:吉田経房
  • 第4部:九条兼定

日本史の教科書でいえば、この時代は天皇の中央集権時代が終わりを告げて「武士の台頭」というタイトルで解説される箇所です。

武士の台頭といっても彼らの力の源泉は"武力"であり、その武力が衰えれば簡単に誰かによって取って代わられる運命にあります。

一方で天皇を頂点とした公卿たちの力の源泉は"権威"であり、それは「従三位」といった位階や「左大臣」や「大納言」といった官職によって表されます。

しかもこの権威は家柄に応じて、(努力なしで)自動的に子孫たちへ代々受け継がれ、容易に失われるものではありません。

つまり後白河院をはじめ公卿たちの目線からこの時代を見てゆくと、次々と新たな武士たちが生き急ぐかのように現れては消えてゆくを繰り返していくように映るのです。

その中で後白河院は30年以上にわたる院政を通じて武士たちの栄枯盛衰を誰よりも間近で見てきた人物であり、彼を中心に歴史を描くことで歴史の持つ無常さをうまく表現した作品であるといえます。

文体や作品中に登場する単語を含めて、かなり硬派な部類に入る歴史小説だと思います。

そのため慣れないうちはスラスラと読む進めることが難しいと思いますが、文庫本で約170ページというそれほど多くない分量ということもあり、腰を据えてゆっくりと読んでみてはいかがでしょう?

野火


作品の存在は以前から知っていましが、今回はじめて大岡昇平氏の「野火」を手にとってみました。

今まで本ブログでも戦争小説と言われるジャンルを紹介してきましたが、本作品も日本を代表する戦争小説の1冊です。

主人公はレイテ島で米軍と対峙する部隊にいる田村上等兵であり、彼は結核の症状が悪化したため野戦病院に収容されていましたが、そこを追い出されてしまいます。

その原因は深刻な食糧不足によるものであり、太平洋戦争において日本兵戦死者の半分以上が飢餓によるものだったと言われています。

こうして病院を追い出され、主人公は部隊へ戻りますが、ここでも上官から足手まといとして放り出されたところからストーリーが始まります。

客観的に見ると異国の地で"のたれ死に"を強要された悲惨な状況ですが、彼の心境は次のように不思議なものでした。
臓腑を抜かれたような絶望と共に、一種陰性の幸福感が身内に溢れるのを私は感じた。
行く先がないというはかない自由ではあるが、私はとにかく生涯の最後の幾日かを、軍人の思うままではなく、私自身の思うままに使うことが出来るのである。

彼は元から戦う意志などなく、徴兵されて仕方なく戦場へ駆り出された兵士だったのです。
また彼のほかにも同じような境遇の兵士たちもおり、彼らには何の任務も目的もなく病院近くで野宿をしていました。

主人公も彼らとともに過ごしていましたが、敵の砲撃によって病院が消失し、仲間ともはぐれて1人で島を彷徨うことになります。

その過程で主人公は島でさまざまな光景を見ることになります。

はじめは"生きる"こと諦めていた主人公でしたが、生きる希望を見つけたり、所持している食糧が尽きて飢えを感じると、やはり生への執着する気持ちが沸いてきます。

やがて極度の飢えに襲われた兵士たちの目線は、行き倒れになった同胞たちの屍体へ向くようになるのです。。。

生きるために人肉を食べた」という証言は時々聞く話ですが、正直にそれを告白した人は圧倒的に少数だったはずです。

一方で平和で飽食の時代を生きる私たちの大多数が、「人肉を食べてまで生き残るくらいなら死んだほうがマシ」と答えるでしょう。

戦争、そして飢餓という非日常の中に人間が放り出されたときに、平時であれば"善良な市民"と言われる人たちがどのような行動を取るのか、そしてその状況下で精神は正常を保ち得るのかという想像をしてみてもなかなか実感が沸かないはずです。

いわば本作品はそれを小説という形を通じて追体験できるのです。

もちろん著者は善悪の区別や人生の価値観を読者へ伝えたかったわけでなく、すべてを読者へ委ねています。

文庫本で約200ページという分量ですが、多くのことを考えさせてくれる1冊です。

火星のタイム・スリップ


本ブログでも何度か紹介しているフィリップ・K・ディック氏のSF小説です。

本作品は1964年に発表されており、物語の舞台は1994年の火星です。

すでに人類は火星へ植民しているという設定ですが、まだまだ人口密度は少なく物資も不足しがちな状態にありました。

中でもより深刻なのが生活に欠かせない""の不足であり、水利労働者組合のトップであるアーニイ・スコットはそうした状況を背景に絶大な権力を握っていました。

彼は国連による火星の大規模な開発計画の噂を聞きますが、すでに地球の投機家たちに先を越されたことを知り、施設に入っている少年マンフレッドの特殊な能力を利用してその挽回を企むのです。

主人公は火星で機械の修理工として働くジャック・ボーレンという設定ですが、この壮大な計画と一見無関係に見える人物がアーニイやマンフレッド、さらには周辺の登場人物たちに巻き込まれる形でストーリーが進行してゆきます。

登場人物たちにはそれぞれの思惑があり、その利害関係が複雑に絡み合って次第に大きな話へと発展してゆきますが、ディック氏の作品は王道SFであると同時に、人間ドラマにも重点が置かれているのが特徴的です。

また荒涼とした火星に原住民が存在するといった設定も斬新です。

彼らは"ブリークマン"と呼ばれる移動しながら狩猟をして暮らしている人びとであり、テクノロジーとは無縁の生活をしています。

彼らの中には地球人に雇われている者もあり、アーニイ専属の料理人もブリークマンですが、彼らは独自の文化と精神世界を持っており、どことなくかつてのアメリカンネイティブたちを思わせます。

実際に彼らの予言めいた暗示はこの作品の大きなキーポイントになってきます。

テクノロジーの発展とともに際限なく膨らんでゆく人間の欲望、一方で物質的な豊かさが幸せには結びつかず、むしろ人間の心を蝕んでゆくといったメッセージが火星を舞台にしたSF作品を通じて語られている気がします。

ディック氏の描く作品には独特のカオスな世界観があり、これがSFとの相性が非常によく、社会の抱える問題の本質を浮き彫りするような鋭さを感じるのです。