南極越冬記
本書は1957年(昭和32年)に日本初の南極越冬隊を率いた西堀栄三郎氏による1年間のタイトル通りの越冬記録です。
当時すでに欧米の主要国などが南極を観測をはじめていましたが、大戦の敗戦国となった日本にとって南極に昭和基地を構えて継続的な観測を行う本事業は戦後復興の象徴でもあり、多くの国民が期待を持って見守りました。
越冬が成功した翌年に発表された本書は、著者の親友でもある桑原武夫に「帰国後に一書を公刊することはお前の義務である」と促されて執筆したものです。
本書のはじめには次のように記されています。
この書は、南極リュッツォウホルム湾昭和基地において、十人の同志と共に過ごした一九五七年二月十五日から翌五十八年二月二十四日までの一年間の生活記録である。
しかしこれは、日本南極地域観測隊・第一次越冬隊の、隊長としての立場で書かれた公式記録ではない。
ただ、南極の大自然の中で一年間、なにをし、なにを感じたのかを、プライヴェートな立場からありのままに書いたものにすぎない。
メモや日誌を元に再現された本書には、隊長としての責務と苦悩が素直に表現されています。
西堀氏には登山の経験はあるものの、本職は化学者であり、はじめから組織のリーダーとして豊富な経験があった訳ではありません。
それでも隊員たちへ気を使ってまとめようとする苦労が随所に見て取れますが、同時に隊員たちにも彼らの立場なりの悩みがあったことも察することができます。
日本人にとって未知の極地での越冬は、時に生命の危険を感じるような不安に満ちたものであり、加えて世間から隔離され娯楽の少ない共同生活は全員にとって体力的、精神的にも大きな負担になっていたに違いありません。
南極越冬には未踏破の山に挑むような冒険的要素と、科学者として新しい事実を発見するという観測的な要素が入り混じっており、新しい挑戦とリスクは常にトレードオフの関係にありました。
もちろん隊員全員が無事に越冬を成功させることが絶対条件であるものの、基地に閉じこもって何も挑戦しなければ後世につながる有益な成果を残すことが出来ないのです。
時にチームワークがちぐはぐになることも、全員が一致協力して成果を上げることもあり、そうした日常はまさしく南極における生活記録として読むことができます。
ところで以前、お台場の船の科学館に展示されている南極観測船・宗谷を見学したことがありますが、本書にも登場する宗谷の船内は思いのほか狭く、よくこんな船で南極まで到達できたものだと感心したことを覚えていますが、1957年当時にはそれが相応だった時代であり、現代の私たちが想像できない多くの不便さを乗り越えて達成された偉業であることは間違いありません。
本書の初版が出版されて60年もの月日が流れていますが、何度も増刷を重ね今なお読み続けられている名作です。
信長はなぜ葬られたのか
表題から推測できる通り、作家である安部龍太郎氏が本能寺の変における織田信長暗殺の真相に迫ってゆくという1冊です。
本能寺の変といえば明智光秀が主君・信長へ対して憎悪と危機感を抱いて反旗を翻したというのが一般的で無難な見方です。
しかし著者は、信長暗殺という壮大な計画は何年の前から用意周到に準備されたものであり光秀はその実行を担当したという、いわゆる"陰謀説"を主張しています。
その黒幕は朝廷(天皇)と室町幕府であり、またもう1つの軸としてスペインを中心としたキリスト教勢力であるというものです。
やはり歴史好きとしては、こうした新しい時代検証の本は非常に興味があり、ついつい手にとってしまうのです。
たしかに信長は良くも悪くも”破壊と創造”が象徴にされるだけあって、少なくとも(天皇に代表される)朝廷や(比叡山に代表される)宗教といった旧来の勢力へ対して盲目的に従うような姿勢は見せませんでした。
これをさらにもう1歩踏み込めば、信長は天皇(朝廷)権力へ挑戦し、そしてキリストを含めたすべての神仏の存在を否定したといった見方ができ、そこまでは本書を読むまでもなく信長の残した言動からも説得力があります。
しかし著者の陰謀説はさらにその先を読み、凋落していたと思われていた当時の朝廷勢力や室町幕府には実際かなりの権威や実力が残っており、世界史規模で勢力を伸ばしつつあった(イエズス会やフランシスコ会といった)キリスト教勢力についてもその影響力は侮れないものであったという点から、彼らによる"信長暗殺計画"を考察してゆきます。
その根拠となる部分は本書の醍醐味であり、ネタバレとなるため触れませんが、ともかく興味深く読むことが出来ます。
著者の安部龍太郎氏は作家であるものの、歴史家(学者)ではありません。
だからといってそれを作者の妄想や根拠が薄いと片付けてしまっては読書の魅力は半減してしまいます。
著者の信長暗殺に関するユニークな見解を新書という手軽な形で楽しめるという点で、おすすめできる1冊です。
高橋是清自伝(下)
引き続き高橋是清自伝下巻のレビューとなります。
本自伝では彼がもっとも世間から注目された総理大臣、大蔵大臣時代には触れられず、政界へ乗り出す前の日銀副総裁時代までが対象となっています。
それでも本書は上下巻をあわせて600ページ以上にも及ぶ大作になっています。
その要因は彼の目立った実績のみをクローズアップする形式ではなく、詳細な記録が自伝の中に含まれているからです。
そこには日付や場所、そこに登場する人物だけでなく、彼らの発言した内容、その時の是清自身の感想にまで触れられており、それを可能にしたのは彼が残した多くの手帳だったのです。
そのため自伝というノンフィクションであるものの、まるで歴史小説のように読むことができるのも本書の特徴になっています。
その記録がもっとも細かく描かれるのが、自伝のクライマックスともいえる欧米における外積発行の過程です。
日露戦争において日本は、経済・軍備いずれにおいても自国を大きく上回る大国ロシアを敵に回すことになりました。
貧弱な財政状況の中でこの戦争を継続することを可能にしたのは、日銀副総裁としてアメリカ、イギリスさらにフランス、ドイツにまで赴いて日本の外積発行を行い、それを成功させた高橋是清の功績によるところが大きいのです。
もちろん最前線で戦ったのは軍人ですが、是清はそれを支えた影のMVPといってもよいかもしれません。
大国ロシアを相手に東洋の小国と見なされていた日本が勝利することはかなり懐疑的であり、その中で外積による戦費調達を成功させた苦労は自伝の中から充分に読み取ることができます。
有名な旅順要塞の攻略、そして日本海海戦(対馬沖海戦)は綱渡りの勝利でしたが、それは財政面においてもまったく同じ状況だったことが分かります。
その時の勝利を過信してはいけないことは最前線にいた是清だからこそよく分かっていたことであり、のちに軍事費の増加に歯止めをかけようとした彼が暗殺の標的にされてしまったことが悔やまれます。
結果として突入していった第二次世界大戦では、日本は財政のみならず国防までもを破綻させ、多くの犠牲者を出すことになります。
高橋是清自伝(上)
高橋是清は明治・大正、そして昭和にかけて大蔵大臣を7回努め数多くの実績を残した財政家、そして政治家です。
1929年(昭和4年)の昭和恐慌では、インフレ政策をはじめとした積極財政によって日本経済を回復させたことで知られていますが、のちに軍事費抑制方針をとったことで軍部と対立し、2・26事件で暗殺されることになります。
自伝といえば自らが執筆するような印象がありますが、実際には是清の秘書官であった上塚司によって書き上げられたものです。
ただし是清自身が口述したものを手記にし、原稿に仕上げた後に再度本人へ確認して完成させた本であるため、タイトルにある通り"自伝"といっても差し支えないものです。
彼は叩き上げの財政家ですが、いわゆる東大を出て官僚として活躍する現代風の"叩き上げ"ではありません。
まず少年の頃に(仙台藩の)藩命によってアメリカ留学することになりますが、ホームステイ先で留学費を着服された上に農場で奴隷のように働かされる不運に見舞われます。
一方でそうした苦難の時代に英語を身に着け、のちに国際舞台で活躍する下地を身につけてゆきます。
帰国したのちは英語教師を努め、農商務省では初代特許庁長官として日本の特許制度の礎を築く功績を残し順調なキャリアを築いてゆくように思われましたが、突如官僚を辞め、ペルーへ渡航し仲間とともに銀鉱経営に乗り出しますが、そこはすでに廃坑だったことが分かり、散々な結果に終わります。
失敗したとはいえ、そこで培った実業家としての経験は決して無駄にならなかったはずです。
つまり高橋是清のキャリアは波乱万丈な"叩き上げ"であり、必然的にその自伝は読み応えのある内容になっています。
戦艦武蔵
盧溝橋事件を皮切りに日中戦争が始まった昭和12年、日本国内では極秘に巨大戦艦の建造計画が動き出しました。
それは大和・武蔵とのちに命名されることになる艦船であり、本作はそのうちの1隻、三菱重工業の長崎造船所で建造された武蔵を舞台にした歴史ドキュメンタリーです。
人々が日常生活を営む長崎の港で、棕櫚(しゅろ)のすだれに囲まれた巨大な造船ドッグがある日突然現れ、その周辺ではスパイ防止のため多数の憲兵隊が配置されるという異様な光景が見られるようになります。
この計画には当時の日本におけるもっとも優れた頭脳、技術、そして膨大な予算と労力が注ぎ込まれ、その過程には技術的な問題、極秘の設計書が紛失するなどのさまざまな障壁が立ちはだかります。
多くの困難を乗り越え、やがて昭和15年11月1日に進水式を無事に終えた場面は、まさに国家規模の計画を達成した「プロジェクトX」のような感動が読者にも伝わってきます。
しかし歴史を定点観測するかのように冷静に描写する吉村昭氏の作品はそこでは終わりません。
艤装(ぎそう)工事や乗組員の訓練を経て進水した武蔵が実際に任務を遂行するようになるのは昭和18年に入ってからですが、皮肉なことに最初の本格的な任務は、ソロモン諸島で戦死した山本五十六元帥の遺骨を日本に送り届けるというものでした。
大日本帝国海軍の秘密兵器にして最大の戦力として期待された武蔵・大和の両艦でしたが、すでにアメリカの本格的な反撃が始まっており、ミッドウェー海戦で致命的な打撃を受けた戦況下ではその実力を十分に発揮する場面が無かったのです。
またそれ以前に従来の大艦巨砲主義を掲げ、航空主兵論者に転換し切れなかった海軍首脳陣の戦略的失敗がその根本にあることはよく指摘される点です。
いずれにせよ大した戦果を上げることなく、武蔵はレイテ沖海戦で沈没する運命を辿りますが、作品中でそうした結果を招いた帝国海軍を罵倒することもなく、また称えることもなく、悲劇的な演出すらなく、淡々と戦死者と生存者の人数を記してゆきます。
先ほども述べたように国家の頭脳と技術を集結させ、そこに膨大な予算と時間を費やした結晶が武蔵(と大和)という戦艦なのです。
それが余りにもあっけなく海の藻屑となる物語は読者を呆然とさせる結末ですが、これは後世の日本人が直視しなければならない史実であるのです。
この"史実を直視"するという点こそが本作に限らず吉村氏の狙いであり、また彼の作品スタイルでもあるのです。
今も昔も国家の命運を掛けたプロジェクトなどはアテにならないものであり、「窮すれば通ず」ではなく「窮すれば鈍する」という結果に終わることが多いのではないでしょうか。
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