日本のITコストはなぜ高いのか?
日本サード・パーティ株式会社の代表である著者が、日本のITコストに言及した本です。
日本のIT市場は世界第2位にも関わらず、WEF(世界経済フォーラム)が発表するIT先進国ランキングでは、17位に甘んじている状況です。
これは効率的なIT投資が行われていないのが原因とし、それが主にシステムの保守費用であると断定しています。
著者はシステム保守費用が高いのは、以下に原因があるとしています。
- 「コンピュータとは難しいものである」という常識
- 「コンピュータが故障すると大きな影響が出るため専門家へ任せるべき」という常識
- 「コンピュータにはメーカの機密が詰まったブラックボックス」という常識
- 「製品のサービスはそれを作ったメーカにしか任せられない」という常識
どれも納得はできますが、新しい視点を与えてくれるには至りません。
本書は、こういった根拠の無い常識に囚われているため年間1兆円もの余計なコストがかかっていると断言していますが、本当にそうでしょうか?
例えば、日本が余りにも高いIT品質にこだわり過ぎる文化や制度を持っているという背景的なものへの言及や、そもそも高い日本の人件費へ対しては言及がありません。
そして保守費用を下げるためには現在受けているサービス内容を第三者機関により監査してもらい、再評価する必要のあるというものです。
本書に書かれている保守費用圧縮のための評価は9つ観点から150項目に渡って行う必要のある全体最適化が紹介されています。
しかしなぜか本書のケーススタディとして紹介されているのは、自ら部品交換を行う「自営保守」、そしてコールセンタの費用を「重量課金制」とするなど部分最適化ばかりです。
あからさまな表現ではないものの、どこか自らの会社を宣伝する「我田引水」の印象を拭えませんでした。
おそらくそれは、コンサルティング業者特有のプレゼン(提案)資料を読まされているような気分になってしまうからでしょう。
個人的な感想としては、ITに関わる仕事をしていなければ殆ど読む価値は無いように思います。
他業種であっても影響を与えられるような本が良書と呼べるべきものでしょう。
深海の女王がゆく 水深一〇〇〇メートルに見たもうひとつの地球
アメリカの著名な海洋探検家・海洋学者であるシルビア・A・アール氏の著書を和訳したものです。
字も大きく100ページに満たないため、早い人であれば30分程度で読み終える分量です。
本書の大部分は著者が半生を振り返り、様々な海での経験、そしてその素晴らしさを綴っています。
海は地球上の面積の7割を占めているにも関わらず、わすか5%しか人間による探索がなされていないため、21世紀の今日でも新たな生物が発見され続けています。
著者のような探険家・学者にとって海は、これ以上にない魅力的な世界といえます。
後半は一転して、海が人間の手によって破壊されている現状に警告を鳴らしています。
海の汚染によって急激に姿を消しつつあるサンゴ、乱獲により絶滅が危惧される生物など問題は深刻になりつつあります。
著者自身も人類未踏の海底へ到着したにも関わらず、既にそこには人間の捨てたゴミが横たわっていたという皮肉な経験をしています。
要するに本書は、海の環境保護を訴える啓蒙書であるといえます。
はじめにも書きましたが、本書は分量も少なく分かり易い表現で書かれているため、小学生でも充分に理解できる内容です。
親が子供に読んで聞かせるというのも、本書の有意義な活用方法ではないでしょうか。
日本人へ 国家と歴史篇
「リーダー篇」の続編として出版された塩野七生氏のエッセイ集です。
前巻と比べると、話題がファッションからワインや日本酒、映画、そして執筆活動にまでに及び、よりエッセイ色の強いものになっているようです。
エッセイならではの気楽な雰囲気の中にも塩野氏の明快な文章は健在であり、むしろ話題が自らの趣味に及ぶだけにその切れ味は一層増しています。
今回注目したのは、著者が身を置く出版業界に言及している部分です。
1996年をピークに出版業界の売り上げは2割近くも落ち込み、著者自身も初版部数の削減などの影響を受けていることを告白しています。
読書離れやインターネットにより、今後も出版各社がリスク回避のために短期的に利益を回収できるタイトルに重点を置くだろうとも予測しています。
確かに有名芸能人や売れっ子評論家が短期間に執筆するタイトルが話題に上ることが多い中で、15年間に渡る綿密な取材と調査を元に書き上げた「ローマ人の物語」は対極のスタイルであるといえます。
著者の作品に関していえば読者の知的好奇心を満たすに留まらず、古代~中世イタリア時代を臨場感を持って体験させてくれる楽しさがあります。
それらが著者の地道な活動の積み重ねと情熱による賜物であることは疑いなく、読書好きの人間としても今後こういった種類の本が少なくなってくことに危惧を抱いてしまいます。
また出版の問題も本書で触れられている政治不信や経済停滞、そして安価なブランドの氾濫といた話題もどことなく1本の線として繋がっているような気がしてくるので不思議です。
私自身も「良い本」と感じるものが、必ずしもベストセーと一致することは少なく、読書を有意義なものにするためにも著者の発言は示唆に富んだものとして響きます。
日本人へ リーダー篇
イタリアを舞台にした歴史小説においては、日本の第一人者である塩野七生氏によるエッセイ集です。
エッセイだけに内容は多岐に渡りますが、主にタイトルにある通り日本を率いるリーダー(とくに政治家)へ向けたメッセージという形をとっています。
本書に限らず著者の作品に共通する特徴は、評論家や学者のようにお茶を濁すような結論を極力避け、明快で分かり易いということです。
同意できるかどうかは別としても歯切れのよい爽快感があり、人気作家として支持されているのも納得できます。
イタリア史に詳しい著者の理想のリーダー像は、言うまでもなく"カエサル"になりますが、さすがに日本のリーダーにカエサルのような人物の登場を望んでいるほど楽観的な内容ではありません。
むしろ、そういった可能性が極めて低い現状に諦めを抱いているような感さえあります。
カエサルに限らず著者が理想のリーダー像としてあげるのは、
①知力・体力の兼備
②清濁併せ呑む度量の大きさ
③ユーモアのセンス
という日本の政治家にとって敷居の高いものではありますが、おおむね本書に書かれている具体的な提言は決して現実から足が離れているような荒唐無稽なものではありません。
例えば、どんなに複雑(なように)見える事象でも「単純化」することが可能であり、ローマ帝国の指導者たちのように高い理想を持ちつつも、1歩ずつ確実に改革を「継続」することの重要性を訴えています。
国際政治の舞台において影響力を持つためには、経済力だけでは不十分であり、背景に"行使できる軍事力"が必要であると説いています。
一見すると過激な発言ですが、先ほどの例のように物事を「単純化」してゆけば、歴史に例を求めるまでもなく力学的に当然の結論に至るわけです。
もっとも著者は日本に軍事力を期待している訳ではなく、大きな領土や軍事力を持たなかったにも関わらず中世イタリアで繁栄した「ヴェネツィア」をモデルとした、徹底した情報収集と分析に基づいた外交を推し進めることを重要視しています。
しかし首相が頻繁に入れ替わることで方針も定まらない今の日本では、本書で「血の流れない戦争」と表現されている"外交"でイニシアティブをとることは難しく、前述にあった「継続」の重要性を感じられずにはいません。
著者の専門分野であるローマ帝国といえば、歴史上最大にして唯一のミレニアムを築いた事例であり、そこで培われてきた統治方法は人類の至宝ともいえるものです。
カエサルの生きた時代から2000年以上経ちますが、本書を読んでいると科学技術以外の分野において、果たして人類がどれだけ進歩したのか疑問になってしまうような無情を感じてしまいます。
迷いと決断
1995年~2005年の10年間にわたりソニー社長を務めた出井伸之氏による1冊です。
1995年というと、Windows95が発売された年でもあり、本格的なインターネット時代の幕開けの時代でもありました。
「インターネットはビジネス界に堕ちた隕石だ」
とインターネットの普及前から出井氏は言い続け、ソニーはいち早くAVメーカからの脱却を進めてゆきます。
その路線を本書では、大きく2つの戦略として紹介しています。
・AV/IT路線
アナログを中心とした路線から、パソコン事業へ乗り出して"VAIO"シリーズを発表します。それと同時にソニーの代表格といえる"ウォークマン"のデジタル化、そしてゲーム機(プレイステーション)の分野にも積極的に進出してゆきます。
・コンバージェンス戦略
情報機器や映画・音楽の枝が四方八方に伸びていたそれまでの体系を、ハードウェアとコンテンツを両端に持つシンプルな形に改めて、それらを"IT"でしっかり結びつけることでインターネットの時代へ柔軟に対応可能な体制を築き上げます。
インターネットは、ライフスタイルの劇的変化をもたらした技術革新であり、各メーカが大きな舵転換を迫られた時期にソニーは創業者(ファウンダー)世代から生え抜き社長へのバトンタッチを行いました。
偶然にしてもベストなタイミングであったと思いますし、その中でも出井氏は適任でした。
実際に出井氏が社長に就任している間に、売上は4兆円から7.5兆円までに伸びており、日本メーカーの中でソニーは、新しい時代の適応に成功したといえます。
本書では触れられていませんが、実際には新しく到来した時代の流れはソニーの予想を超えるほど早いものあり、iPodによるウォークマンの淘汰、家庭用ゲーム機の競争激化と成長鈍化、海外メーカーの成長による液晶テレビやパソコン事業の苦戦といった状況にあります。
本書を数年前にも読んでいるのですが、その時は前社長としてソニー10年間の軌跡を振り返った本というイメージが強かったのですが、今回読んでみると、彼自身が誤った過去の決断についても正直に書かれていたのが印象的でした。
もちろん書けない内容も多いでしょうが、社員16万人を率いるソニー社長の胸中をネガティブな面含めて概ね正直に書いている印象を受けます。
著者は自らの経験を生かし、今でも中小企業を中心とした経営コンサルタントの仕事を続けています。
今なお衰えない出井氏の情熱は尊敬に値しますし、老練な経営者と若い勢いのある経営者の組み合わせが新しい価値観を生み出してゆくことを期待しています。
ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男
花札・トランプのメーカだった任天堂を世界的な企業へと躍進させた最大の功労者”横井軍平”の伝記です。
横井氏といえば名言「枯れた技術の水平思考」で有名であり、最先端技術を追いかけるのではなく、安価で普及した技術を利用して世界で初めてのものを作る哲学を貫き通した開発者として有名です。
この遺伝子は、1997年の彼の死後においても「Wii」や「ニンテンドー3DS」に受け継がれ今でも任天堂の中に生きています。
残念ながら横井氏は1997年に事故により急逝してしまいますが、アップル社の「iPod」、「iPhone」もこの考えを継承した例として挙げられることが多く、"横井軍平"の名は海外でも高い評価を得ています。
簡単に実績だけを挙げても、ウルトラハンド(伸縮して遠くのものを掴む玩具)にはじまり、ウルトラマシン(部屋でできるピチングマシン)、光線銃、そしてゲームウォッチからゲームボーイという数々の大ヒット商品を生み出しています。
そしてファミコン生みの親である宮本茂が、"師匠"と仰ぐ人物としても知られています。
本書を読んで驚いたのは、横井氏がインターネットが普及しはじめた初期の頃に、既にゲーム機の将来を的確に予測していたことです。
それはゲーム機の進化はCPUなどの「性能の進化」に過ぎず、その本質は画面上の演出の向上であると予測し、膨らむメーカの開発費用とユーザのマニア化(=ゲーム人口の減少)によって限界(衰退)を迎えるといったもので、今の家庭用ゲーム機の現状そのものです。
私自身含めて、初期のドラゴンクエストやFFシリーズをプレイしていた同世代は多いですが、今でも最新作をプレイし続けている人は随分減ってしまった(=殆どいない)というのが実感です。
横井氏の出発点は、本人が「落ちこぼれ」と自称するように、入社当時は花札の製造に使う糊の攪拌機の改良を行っている程度のエンジニアであり、後に"天才"と評される人物の片鱗をどこにも感じさせない人物でした。
しかし当時の任天堂の山内社長の大抜擢に伴い、頭角を現してゆきます。
横井氏は、ゲーム機やデジタル技術でさえも遊びの1つの手段に過ぎないと割り切っており、本質的な遊びの”楽しさ"を追求し続けます。
そう考えると事業的な責任とマネジメント業務に嫌気が差して、後に任天堂を退社した彼の心境は良く分かる気がしますし、子供の頃に体験した"楽しさ"を大人になっても忘れられず、生涯"遊び"を求道し続けるための出家であった感さえあります。
「枯れた技術の水平思考」を通じてのイノベーション部分を大きくクローズアップして評価する機会が多い気がしますが、真に評価すべき点は、"遊び"の本質を追及し続けてた信念であり、そこから生まれた着眼点だと思います。
特に今のゲーム業界は成熟を通り越し、行き詰まった感さえあります。
この本には、もう1度ゲームの本質を見つめ直すべきだと示唆しているように思えます。
棋神・阪田三吉
阪田三吉。
半ば伝説と化して、映画や村田英雄の演歌「王将」のモデルにもなった大正から昭和初期にかけて活躍した棋士です。
本書は今から30年前に阪田三吉と交流のあった著者によって書かれたものです。
彼の死後時代が経過するにつれ、「豪快」、「無法者」、「勝負の鬼」、「家族を顧みずに将棋の駒に命をかけた人物」といたイメージが一人歩きしてゆきます。
著者は、それを世間の作り上げた"虚像"とし、自らの体験に基づいたエピソードと共に阪田三吉の人生を振り返り、その"実像"に迫ろうとしています。
彼の生まれ育った家庭は貧しく、成人になった後も草履作りで何とか生計を立てている状態でした。
また充分な教育を受けれなかったこともあり、文字の読み書き出来なかったというのも事実のようです。
そんな境遇の中で阪田青年は、見よう見まねで将棋を覚え、やがてアマチュアの中で頭角を表してゆきます。
しかし日露戦争以降の不景気もあり、当時はプロ棋士といえども生活は決して楽ではありませんでした。
まして結婚して子供も生まれた阪田家では、食事にも事欠くありさまでした。
三吉の妻のコユウも困窮のあまり子供を連れて電車で無理心中を試みたエピソードは有名です。
阪田は将棋に打ち込みながらも、誰よりも妻を大事にし、また子煩悩な一面もありました。
彼の奇行ともいえるエピソードは、文字の読み書きが出来ないことによる僅かばかりの教養不足であり、阪田三吉の天衣無縫、そして礼儀正しい性格は、そうした欠点を補っても余りある魅力がありました。
また生涯の最大のライバルとなった関根金次郎との対決は、本を通じても鬼気迫る緊張感が伝わってきます。
ここ一番の勝負には信じられないくらいの集中力と、「銀が泣いている」に代表される天に身を委ねるかのような指し手は、理論を超えた測り知れないものがあります。
これは羽生善治氏の本を読んだときに感じたことですが、将棋は頭脳、そして人格を賭けた1対1の人間同士が争う究極の勝負の場だと思います。
そこに貴賎の差はなく、過酷ながらも美しい勝負の世界を生きた"阪田三吉"の生涯は、爽やかな印象さえ与えてくれます。
カムチャッカ物語―第二龍宝丸虜囚之顛末
戦時から戦後にかけてカムチャッカ半島へ鮭漁へ出かけた漁船「第二龍宝丸」が、ソ連に拘束され、そのままカムチャッカで強制労働に従事した人たちを題材として描かれた1冊です。
まず圧巻なのが、当時のカムチャッカ半島における船員や漁師たちの生き生きとした描写です。
船内での生活風景、人間関係をはじめとして、そこで働く人たちの心理描写は目を見張るものがあります。
しかしそれもそのはず、著者は捕虜となった当時の数少ない「第二龍宝丸」の一員であり、本書は自らの体験を元に再現した回想録でもあるからです。
カムチャッカ半島は日本の中で最も近い北海道からでさえ1000キロ離れた距離にあり、その面積は日本に匹敵するほど巨大なものです。
そこでの過酷な強制労働や食糧事情による苦しさもさることながら、祖国や家族と引き離されて期限の見えない日々を過ごす状況は、絶望との闘いの日々でもあったと思います。
戦争は当事者だけでなく、様々な人たち(本書では漁業従事者)を不幸に巻き込んでしまう恐ろしいものであることを再認識させられます。
少し残念なのは、著者の都合か紙面の都合かは分かりませんが、抑留生活の半ばにして本書が突然終了してしまっていることです。
それでも規模の大きなシベリア抑留に比べて知名度の低いカムチャッカ半島の抑留経験者によって書かれた本書の存在は、大変貴重なものです。
ほんとうは怖い沖縄
沖縄に在住する著者が、自らの心霊体験、そして心霊スポットをエッセー風に紹介した1冊です。
著者は沖縄の民俗伝承に詳しい人物ですが、彼自身オカルト研究家ではなく、まして霊能力者でもありません。
そのため大部分の人(=霊感が無い人)にとって、親しみやすい目線で書かれています。
逆に怪奇談を中心に読みたい人にとっては、少し期待外れになってしまうかも知れません。
沖縄の霊媒師(シャーマン)である"ユタ"の役割、昔から崇められてきた神々、信仰上欠かすことのできない聖域"御嶽(うたき)"といった独自の宗教・死生観を著者の体験を通じて知ることができます。
一方で沖縄は、太平洋戦争において多数の民間人を巻き込んだ地上戦が行われ、悲惨な戦場となった場所が心霊スポットとして全国的に有名となった側面があります。
ただし前半の沖縄民俗・宗教観的な話題から後半は一転して心霊スポットを中心とした話題に切り替わる部分は少し戸惑いを感じるかもしれません。
個人的には前半の流れを最後まで通し、後半部分を別に1冊として出版した方が、どちらも質の高い内容に仕上がったと思います。
今でも沖縄の人にとって”霊”や"死"は身近なものであり、祖先とも強固な絆でつながっています。
こうした沖縄の文化は、"独特・異質なもの"というより、昔の日本人が本来持っていた宗教観や死生観と共通する部分があり、"なつかしさ"を感じるのは私だけではないはずです。
よい意味で"ユタ"をはじめとした沖縄の豊かな民間信仰が今後も保存され続け、若い世代にも伝えられてゆくことを願います。
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