インテリジェンス 武器なき戦争
NHKのワシントン支局長を勤めた手嶋龍一氏、そして外務省の官僚として対ロシア外交で活躍し、後に起訴された経験を持つ佐藤優氏の対談を1冊の本にまとめたものです。
本書のタイトルにある"インテリジェンス"とは直訳すれば"知性"、"理知"となりますが、ここでは国家戦略を左右する重要な情報という意味で使われており、"武器なき戦争"と言われる外交に関する諜報活動を例える言葉としてしばしば使われます。
経済活動、軍事活動、そして内政に至るまで、今や国際社会と無縁でいられるものは1つもなく、天然資源が乏しく、自給自足率の低い日本であればなおさらのことです。
協調であれ敵対であれ、そのすべては自らの利益(=国益)に沿って判断&行動しているのであり、崇高な理念でさえもそのための道具に過ぎない権謀渦巻く世界です。
混沌とした世界で正しい方向を指し示す"羅針盤"ともいえる存在がインテリジェンスであり、その延長線上に外交があるといえます。
当然ですが、"インテリジェンス"ともいえる情報は簡単には手に入らず、様々な国との取引、時には"スパイ行為"によって蓄積される貴重なものであり、更には苦労して入手した情報が偽者だということも充分にあり得ます。
本書ではそうした外交の裏側や、過去に伝説的なインテリジェンス・オフィサーとした活躍した人たちの逸話などを織り交ぜた非常にスリリングで国家レベルからのものの見方を考えさせてくれる1冊です。
対談を行う2人は旧知の間柄ではあるものの、直接的な仕事関係にあった訳ではなく、打ち解けた中にも大人同士の腹の探り合いといった雰囲気が醸し出されており、対談を行う距離感としては最適ではないかと感じました。
(逆に言えば親密過ぎる者同士の対談は、ともすれば内輪ネタや馴れ合いになりやすく、当り外れが大きいという実感があります。)
壊れた羅針盤を元に誤った判断をすれば国家が傾く可能性もある訳で、そのためにも情報収集を行うインテリジェンス・オフィサー、そして外交官といった人間を育成する仕組みが重要であると結論付けています。
たしかに外交の成果が戦争や貿易、資源の利権の結果に直結することも少なくなく、もっとも優秀な人間の配置が望まれるポジションであることに異論はありません。
さらに頻繁に発生する首相(内閣)の交代により、一貫した外交政策への不安があります。
大筋での国益、及び外交政策は首相が変わってもそう簡単に修正するべきものではなく、またマスコミやネットの声に左右されて変えるべきものでもありません。
日本の海外派兵、そして日米同盟のあり方など、果たして日本が歩んできた道が未来への正しい道だったのか改めて考えてしまう1冊です。
ゴルゴン―幻獣夜話
イギリスの著名な女流ファンタジー作家タニス・リー氏の短編集です。。
以前からいつか読んでみたいと思っていた作家の1人です。
分厚い文庫本に11本もの短編が収録されており、たっぷりと楽しめる1冊になっています。
作品ごとに雰囲気のバラツキはありますが、前評判通り内容はホラー色の強いダークファンタジーの印象を強く受けます。
またセクシーな大人の場面もしばしば登場することから、大人のためのファンタジー小説であるといえます。
副題にある通り、収録されている作品には"ユニコーン"や"ケルピー"、そして"ドラゴン"といった幻想的な生き物を題材とたものが多いですが、場面は現代、過去、そして別世界と様々です。
ストーリー内容も剣と魔法が飛び交う勇者と邪悪なモンスターとの戦いといったような、いわゆる"王道ファンタジー"的な物語は1つも含まれていません。
どちらかといえば神秘的なものへの"恐怖"、"畏怖"、そして"好奇心"といったテーマが全作品を通じて横たわっていると感じます。
言い換えれば現代版"おとぎ話"のような雰囲気が漂っていますが、どれも予定調和の幸せな結末とは縁遠く、人間の無力さを痛感させられる内容になっています。
とにかく本作品を読めば、なぜ彼女が「現代のシェヘラザード姫」と呼ばれているのかがよく分かります。
本書を手にして就寝前のおとぎ話として読むというのも悪くありません。
くれぐれも寝不足にならない程度に。。。
人もいない春
「廃疾かかえて」に続き西村賢太氏による短編集です。
収録されいるのは以下の6作品。
- 人もいない春
- 二十三夜
- 悪夢
- 乞食の糧途
- 赤い脳漿
- 昼寝る
1、2作品目は著者の若い頃が書かれており、忍耐が無いために1つの職場を長く続けられなかった経験、無謀な挑戦の末に叶うことなく終わった高望みの恋の話などが掲載されています。
3作品目は、都会の建物に住むネズミを擬人化した作品となっており、唯一私小説ではない異色の作品です。
そして後半の3作品は"秋恵シリーズ"ともいえる著者の同棲時代を題材とした私小説です。
西村氏の作品は2作品目ですが、全くブレることのない自らのダメ人間さをひたすら客観的に綴っています。
秋恵への罵詈暴言といった貫多の暴走は相変わらずですが、今回は多少なりともお互いを思いやる場面も描かれており、前作よりも殺伐としたイメージが払拭されている印象を受けました。
やはり誰もが心の中に抱えている"欲望"、"衝動"、"怠惰"といったものをテーマにしているところは一貫しており、著者の小説への変わらぬ姿勢を感じます。
自ら"私小説家"と称していますが、今後もこのスタイルを貫き通すのか気になるところです。
個人的にはミステリー小説の分野を開拓してゆけば、独特の雰囲気&味わいのある作品を書いてくれそうだと感じます。
廃疾かかえて
私小説家として知られる西村賢太氏による作品です。
私小説というと自らの経験を元に書いてゆくスタイルですが、その中でもとりわけ西村氏は臆面もなく自らの体験を赤裸々に描くタイプの作家ではないでしょうか。
著者の父親は強盗強姦事件を起こして逮捕され、その影響もあり自らは最終学歴が中学校であり、その後様々な日雇いやアルバイトを経験しながら生計を立てていたという、経歴だけを見れば大変な苦労人です。
ただし実際には、その日暮らしの衝動的・退廃的な生活を抜け出すことが出来ず、職を転々としつつ付き合っている女性のヒモとなり過ごした鬱屈した経験が書かれています。
本作品には3編が収められていますが、いずれも著者の分身である主人公"貫多"と、同棲している"秋恵"との間の日々の生活を描いています。
決して仲睦ましい恋人同士の生活を描いたものではなく、貫多は生活のあらゆる面において、パートとして働く秋恵に全面的に依存しており、時には暴力を振るい、罵倒を浴びせる典型的な"ダメ人間"であるのに対し、秋恵はおとなしい性格で、貫多へ対して従順な姿が目立ちます。
それだけに一層、貫多の言動は激しいものとなり、殺伐とした雰囲気が作品中に漂っています。
暴力、女、酒、金銭への欲望は多かれ少なかれ誰しもが持っているものであり、貫多はこうした衝動の象徴的な存在であるといえます。
読み始めた時には、大正、もしくは昭和初期の小説かと思わせるような少々古い表現方法を用いていますが、自らの経験を俯瞰して作品を書き上げようとする姿勢が感じられ、こうした表現の方が馴染むのかも知れません。
反省はしながらも懲りない性格である貫多が秋恵に愛想を尽かされる場面も必然的な結果であり、教訓というほどのものではありませんが、どこか自分の別の姿、もしくは自身の一部分と重ねてしまうような感覚が残ります。
怒涛のごとく〈下〉
下巻に入り、鄭成功は日本に別れを告げ、中国へ渡ることになります。
日本で勉学に励んだ鄭成功は科挙の登竜門ともいうべき童試に挑み、順調に合格してゆきます。
しかし李自成に率いられた農民による反乱軍、そして清の南下により首都の北京を陥落され、皇帝が自害するに至り明は滅亡することになります。
つまり明の制度である科挙試験が消滅することで、鄭成功は大きな目的を失うことになります。
鄭芝龍・成功親子は新たに南京で即位した隆武帝を補佐することになりますが、そこで父と子の意見が対立することになります。
鄭芝龍は鄭家の存続と繁栄を優先させ、場合によっては清に降伏することもやむを得ないと考え、子の鄭成功はあくまで清を敵とし、明の復興にすべてを捧げる決心をしていました。
やがて鄭芝龍は息子の反対を押し切って降伏のために清へ自ら赴きますが、そこで捕らえられ幽閉されることになります。
必然的に嫡子である鄭成功は鄭家の首領となりますが、自らの信念のために父親を犠牲にして反清復明(清と倒し明を復興させる)の運動にすべてを捧げる決心をします。
やがて鄭成功は力を蓄えて清を打倒すべく北伐を開始することになります。。。
この続きは小説を読んでの楽しみにしたいと思います。
鄭成功は今でも中国・台湾では人気がありますが、それは彼が単に清へ抵抗する海賊としてではなく、明の復興を誓った亡国の英雄としての生き様が後世の人々を感動させるからではないでしょうか。
ちなみに当時の日本は江戸幕府により鎖国が徹底されつつあり、鄭成功による江戸幕府への援軍要請に対しても一貫して他国の内乱不干渉の方針を徹底しました。
鄭成功が最盛期に300隻以上の船団と20万人近い軍勢を有していたことを考えると、江戸幕府との連携で清へ対抗した時の歴史の"if"を思わずにはいられません。
怒涛のごとく〈上〉
海を舞台にした歴史小説家で知られる白石一郎氏による1冊です。
本書は鄭成功(てい・せいこう)を主人公とした小説ですが、実際にはその父である鄭芝龍(てい・しりゅう)との父子2代に渡る構成となっており、上巻では鄭芝龍の活躍と鄭成功の幼年、青年時代を中心に書かれています。
鄭成功は国際貿易港として有名だった長崎県の平戸で生まれ、母親は日本人であることから日本でも比較的有名な人物です。
鄭芝龍は貿易に従事していますが、倭寇(海賊)としての裏の顔を持っていますが、息子の鄭成功へ対しては跡取りとして幼い頃より徹底的に学問を教え込みます。
これは文官が武官よりも圧倒的に力を持っていた中国においては成り上がりの海賊の頭目としての影響力は限界があり、その壁を息子に打ち破って欲しいという願望が込められていました。
鄭成功は明において科挙試験合格を目指すべく学問に励みますが、肝心の明が"ヌルハチ"を太祖とする満州族が建国した清によって滅亡の危機を迎えることになります。
日本では戦乱の時代が終わり鎖国政策が始まろうとしている時期である一方、中国では戦乱の時代を迎え、さらにアジアへ進出してくるヨーロッパ諸国が加わるという激動の時代を鄭親子は直面することになります。
ダイナミックでスケールの大きな父子の2代の物語は、歴史小説ファンなら是非読んで欲しい1冊です。
歴史を紀行する
司馬遼太郎氏による紀行本。
本作品が発表されたのが昭和44年ということもあり、のちの「街道をゆく」シリーズの原型ともいえる1冊です。
目次を見ると分かりますが、登場するのは司馬氏の小説の舞台としてお馴染みの町が殆どです。
- 竜馬と酒と黒潮と<高知>
- 会津人の維新の傷あと<会津若松>
- 近江商人を創った血の秘密<滋賀>
- 体制の中の反骨精神<佐賀>
- 加賀百万石の長いねむり<金沢>
- ”好いても惚れぬ”権力の貸座敷<京都>
- 独立国薩摩の外交感覚<鹿児島>
- 桃太郎の末裔たちの国<岡山>
- 郷土閥を創らぬ南部気質<盛岡>
- 忘れられた徳川のふるさ<三河>
- 維新の起爆力・長州の遺恨<萩>
- 政権を滅ぼす宿命の都<大阪>
著者は歴史小説を執筆するにあたり、地道な現地取材と丹念な資料の下調べを行うことで有名ですが、それは作品の中でも物語の空間的な奥行きを感じさせる作風に大いに生かされていると思います。
いわば本書は著者の現地取材を歴史小説とは違った形で本にした1冊です。
一方で著者はあとがきで「風土はあてにならない」述べており、土地・風土が歴史的偉人に作用する要素として決め手になる訳ではないと偏った見方を否定しています。
違った解釈をすると司馬遼太郎氏が持つ世論への影響力の大きさを物語るものであり、著者の慎重さ故の言い回しであると言えます。
本書を読めば、著者が土地や風土が歴史に及ぼす力が決して小さくないと考えていることは明白です。
幕末の時代だけを考えても東北の地に坂本竜馬が生まれていれば海援隊は存在しようもなく、近藤勇が鹿児島の地に生まれていれば新撰組は誕生しなかったでしょう。
他にも高杉晋作は?勝海舟は?と挙げてゆけばキリがありません。
日本は狭いという言葉を聞きますが、著者の視点を通すと日本人は単純に1つに括れるものではなく、例えば隣の町と比較してさえ方言や風習、そして歴史的背景が異なることは珍しいことではなく、その多様性に気付くことで歴史に色彩が宿るかのような新鮮さを持って楽しむことができます。
世界史、日本史を学ぶことも大切ですが、むしろその前提として生まれ育った風土に根ざした歴史や民俗を学ぶことが大切ではないかと感じます。
著者の歴史への評価は"司馬史観"といわれ、どちらかというと批判的な言葉として用いられますが、歴史は所詮、主観でしか評価できません。
主観をもって史観としなければ歴史小説は書けず、たとえ書けたとしても薄っぺらいものになるでしょう。
司馬遼太郎氏が他界して15年以上が経過しますが、その時代の空気を感じさせる技量は、未だに他の追随を許さない凄みを感じます。
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歌舞伎町・ヤバさの真相
ジャーナリスト、ノンフィクション作家として暴力団を題材とした作品を多く手掛けている溝口敦氏による作品です。
いきなり歌舞伎町への潜入ルポかと予想していましたが、江戸時代の鉄砲百人組同心、遊郭の頃にまで遡って歌舞伎町の成り立ちを解説しています。
その内容もかなり詳細であり、民俗資料館で解説されてもおかしくないレベルです。
さらに戦中・戦後の歌舞伎町へと時代が進み、その時代の歌舞伎町成立に関わった人々へのインタビューを交え、裏社会に詳しい著者の独壇場といった本書ならではの内容へと移ってゆきます。
歌舞伎町ほど暴力団や愚連隊、そして外国人マフィアといった闇勢力の関わりが町の成立に濃く影響した場所も珍しいことが分かります。
それは戦後の闇市、そして過去の遊郭の延長線として現在でも様々な風俗店が軒を連ねていることとも大きく関連しています。
著者は"歌舞伎町"を香港の"九龍城"と似ていると指摘していますが、廃墟から様々な人々たちが自衛力(=武力)を持ってしのぎを削ってきた歴史は確かに共通する部分が多いと感じます。
社会のタブーとされる領域に切り込んでゆく著者にとって歌舞伎町は決して避けることの出来ない繁華街であり、その裏の姿は毎日歌舞伎町へ訪れる人にも初めて知ることが多いのではないでしょうか。
様々な人々の利害が絡み合い混沌の中で日本一の繁華街にまで成長した"歌舞伎町"。
その不思議な魅力を余すことなく紹介した1冊です。
森の紳士録―ぼくの出会った生き物たち
日本の里山に生息する動植物を題材にしたエッセー風の作品です。
生物学的な解説を行った内容ではなく、著者の経験や愛着を元に気ままに話題に触れらています。
目次を見ても分かるように、本書では日本人にとって身近な動植物が紹介されています。
早春・夜から朝
- ムササビ
- アカハラ・クロツグミ
- ブッポウソウ
- ヒグマ
- ウサギ
- キジ
昼下がり・夏
- サワガニ
- カワガラス
- イワナ
- アマゴ
- オオサンショウウオ
- モリアオガエル
秋の到来
- キノコ
- アキアカネ
- タヌキ
- クマゲラ
- ブナ
夜の世界
- イノシシ
- モズ
- モグラ
- コウモリ
- キツネ
- カモシカ
- オオカミ
肩から力の抜けた感じの"ゆるい雰囲気"で書かれていることもあり、さくさくと読み進められます。
自然散策が好きな方であれば気軽に手にとって読んでみてはいかがでしょうか。
霧の子孫たち
新田次郎氏の地元・長野県で実際にあった霧ヶ峰の自然保護運動をテーマに描いた作品です。
本ブログで紹介した"聖職の碑"もそうですが、実際の出来事を小説化する手法は著者のもっとも得意とするところです。
時代は昭和40年代。
人口増加に伴う宅地造成、高度経済成長によりレジャー地の開発が進み、日本の自然の多くが破壊される危機に瀕していました。
しかもその多くは、政府や地方自治体による政策によるものであり、長野県の諏訪地方にある霧ヶ峰高原にも有料道路建設の計画が進められ、多くの固有種に絶滅の危機が迫ってきました。
もちろん観光事業が盛んになることで地元経済が潤うという側面があり、地元の人々にとって必ずしも悪いことばかりでなく、そこに自然保護運動の難しさがあります。
その中、一市民として考古学に従事する宮森栄之助、産婦人科の院長でありアマチュア天文学者である"青山銀河"、高校教師として霧ヶ峰の自然保護に取り組む"牛島春雄"らが中心となり、霧ヶ峰の自然保護運動が展開されてゆくことになります。
題材が題材だけに地味なストーリー展開であることは否めませんが、作品中を通じて霧ヶ峰の自然の美しさが伝わり、霧ヶ峰が決して未開拓の秘境の地などではなく、残された遺跡が示すように、太古から人間と密接に関係し、共存してきた自然であることが分かります。
しかし人間が自然に対して謙虚さを忘れ横暴さを顕わにしたとき、わずかな期間で簡単に破壊されてしまう脆いものであり、しかも固有種の多い霧ヶ峰の自然は一度破壊されると二度と再生することが出来ないという現実があります。
今でこそ世界遺産ブームで自然保護への関心は高まりつつありますが、経済成長を最優先にしていた当時にあって毅然と環境破壊へ立ち向けかった無数の市民たちの功績が土台にあるのではないでしょうか。
本作のように自然保護を小説の題材として取り上げることは、著者流の環境保護活動でもあるのです。
月島慕情
浅田次郎氏の短編7作が収められた作品です。
前回紹介した「草原からの使者」が著者にとって冒険的な試みが見られた短編集だったのに対し、本作品は浅田氏の本領発揮ともいえる人情モノ小説に絞った作品が揃っており、ファンであれば是非読んでおきたい、また著者の作品をはじめて読む人にとってもお勧めできまる1冊です。
どの短編を読んでも手抜きが微塵も感じられず、読み応えのある内容に仕上がっています。
著者の長編小説が壮大な歴史を舞台にした感動巨編であるのに対し、短編小説は市井の人々が織り成す心温まる物語であるといえます。
前者が時代を変える気概と実力を持った人たちの勇敢な自己犠牲だとすれば、後者は身近な人のために献身的に尽くす優しさと表現することもできます。
普段より読むペースを緩めて、映画を見るように1作品、1作品をゆっくりと味わって欲しい1冊です。
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