母の影
本作品は、北杜夫氏が父母への思い出、そして自らの少年期を自叙伝的に綴った短編集です。
以下の9編が収められています。
- 神河内
- 根津山
- 夜光虫
- 茶がら
- 死に給う父
- 羽田の蝙蝠
- 海彼への憧れ
- 天衣無縫
- ついの宿り
北杜夫のファンであれば誰もが知っていることですが、彼の父は日本を代表する歌人・斎藤茂吉であり、母は男勝りの性格と実行力を持った女性として知られています。
北氏自身は大病院を経営する一族に生まれ、その時にはすでに父・斎藤茂吉も歌人の大家として知られており、多くの弟子たちがいました。
つまり経済的に恵まれた家庭で育ちましたが、茂吉が癇癪持ちの性格であり、母も気丈な人物であったため、必ずしも円満な家庭とはいえない環境だったようです。
母は父に追い出され別居状態で、北氏は父と一緒に暮らしていましたが、週末や夏休みに一緒にすごす母は優しく、少年期は明らかに父よりも母を好いていたようです。
(ちなみに別居に至る直接の原因は、母の浮気であったと北氏は推測しています。)
やがて青年になるにつれ父の歌人としての才能を知るに及び、父へ対しても密かに敬愛の念を抱くようになります。
しかし実際に会う父親は、相変わらずの癇癪持ちであったため、父の素晴らしい歌の世界と現実とのギャップに随分と悩んだようです。
父は著者の大学生時代に亡くなりますが、晩年に老年痴呆となった父の様子を描いた「死に給う父」、そして89歳まで存命だった母は晩年になっても元気に海外旅行を趣味としており、一緒に出かけた海外旅行の思い出を描いた「天衣無縫」では、息子としての視線に留まらず、小説家"北杜夫"としての鋭い人間観察が加わっています。
本作品の優れたところは、単に父母への追憶、そして少年・青年期を振り返っての自叙伝に留まっていないとこです。
分り易くいえば、父母の間に横たわっていた溝、そして父と母がそれぞれ持っていた信念や哲学といったものを息子の北氏がすべて理解し、自身を含めて小説のように俯瞰して描いているところに真骨頂があるといえます。
父母が他界して相当の時間が経過し、自らも老年を迎えて作家としての才能が成熟期に入った北杜夫にしか書けなかった作品であるといえます。
誰もが書ける"自分史"をはじめとした自伝がブームですが、北氏は自伝を文学ともいうべきレベルにまで高めたのです。