人に強くなる極意
元外務省官僚(外交官)である佐藤優氏が、おもに対人関係をテーマに執筆したビジネス書です。
今まで佐藤氏の著書は、日本とロシアを中心とした外交や政治、国際情勢をテーマにしたものしか読んでいませんでした。
"外交"は国家間の交渉の場ですが、基本的には"対人交渉"によって行われます。
海千山千の要人たちとの折衝は、人としてのタフさが必要とされる場面であり、著者の外交の最前線での経験を元に書かれているため説得力を持っています。
一方で政治から宗教、哲学まで専門的な内容が出てきた今までの作品と違い、著者も「私の著述の中ではもっとも読みやすい記述になっているはずだ。」と紹介していることもあり、より幅広いビジネスパーソンが読める内容になっています。
目次も大変分り易く、以下のような章で構成されています。
- 第1章 怒らない
- 第2章 びびらない
- 第3章 飾らない
- 第4章 侮らない
- 第5章 断らない
- 第6章 お金に振り回されない
- 第7章 あきらめない
- 第8章 先送りしない
本書は実用的であることを意識してあるため、分り易く具体的な内容で書かれています。
しかし内容はシンプルであっても実践はそれほど簡単ではありません。
例えば本書から引用する次の一文からもそれは分かります。
結局、飾らない力を得るには、自分が何者であるかを明確にするということに尽きると思います。
人間としての根っこがどこにあるのか、国や民族、故郷や家族、信条や哲学・・・・・・。
あなたにその軸はありますが?軸がはっきりしているからこそ、虚と実のはざまでどんなに揺れ動いても、飾らない自己、飾らない関係をつくることができる。
佐藤氏に軸があったからこそ、ハードな交渉や512日間にわたる勾留で検察の執拗な追求に対して妥協しなかったのです。
やはり自分をいかに成長させるのかが重要になってくるのであり、あくまで本書はそのヒントを与えてくれるものとして読むのが正しいと思います。
2時間もあれば充分読める新書ですが、その示唆するところは非常に深い1冊です。
荻窪風土記
井伏鱒二氏が長年住み続けた"荻窪(東京都杉並区)"という土地を中心に綴った随筆です。
私自身は東京出身ではないため、荻窪にそれほど詳しいわけではありません。
それでも中央線の荻窪から阿佐ヶ谷、高円寺にかけては何度か足を運んだこともあり、まったく知らない町ではありません。
荻窪周辺はサブカルチャーなどの活動が盛んで、若者たちの活気溢れる下町というイメージがあります。
今でも"金のない書生"が住んでいそうな雰囲気があり、江戸情緒が漂う"浅草"とは違った魅力のある下町です。
その下町の起源を辿ると、大正後期から昭和初期にかけて文学を志す青年や詩人たちが荻窪周辺に住み始めたのがきっかけです。
井伏鱒二氏はその代表的な作家といえる存在であり、ほかにも横光利一、三好達治、太宰治、阿部知二など多くの作家が荻窪周辺に住んでいました。
町並みの移り変わり、近所の人びとや作家たちの交流、趣味の釣りに至るまで荻窪を中心としつつも、幅広いエピソードに触れています。
中でも興味深いのは、「関東大震災」、「二・二六事件」などについても井伏氏の体験とともに当時の東京の様子などが詳しく描写されており、ちょっとした歴史小説として読める部分です。
また昭和のはじめの荻窪には、清流や(江戸幕府によって保護されていたため)大木が生い茂る森林が残されており、その情景を懐かしむ著者の描写からは、国木田独歩の小説「武蔵野」のような情緒があります。
井伏氏は荻窪に長年住み続けたこともあり、その荻窪をテーマに書かれたエッセーは、そのまま彼自身の自伝小説ともいえます。
黒い雨
井伏鱒二氏の代表作といわれる長編小説です。
太平洋戦争末期に原爆を投下された広島を舞台にした重いテーマを扱っています。
小説でありながらも実際に被爆を経験した人の日記を元に書かれており、本作品の主人公・閑間重松(しずましげまつ)夫妻、そして姪の矢須子は実在の人物がモデルになっています。
原爆をイメージしたとき、そこには"絶望"という言葉が頭に浮かびます。
徴兵されたとはいえ兵士として戦地へ赴くからには"戦死の可能性"を自覚でき、国家や家族を守るために成人男子が果たすべき義務感をいくらかは持つことができます。
しかし原爆は何の前触のない状態で、老若男女問わずに無差別に10万人以上の命を奪いました。
しかもそれが自然災害ではなく、人災であることにやりようの無い感情が湧いてきます。
原爆の投下は間違いなく戦争を繰り返してきた人類の中でもっとも悲惨な出来事の1つであり、その直後の広島は"地獄"そのものでした。
本書は原爆が投下される前日の8月5日から終戦を迎える8月15日までの出来事を回想する形で書かれています。
実在する日記を元に書かれた作品であることを考慮に入れても、あまりにもリアルな描写に途中から小説であることをまったく忘れてしまいます。
広島を中心に広がる悲惨な光景、我が子や親を失い呆然とする人びと、重傷を負った人びとが次々と息を引き取ってゆく光景が淡々と描かれており、そんな中でも生き残った人びとが必死に今日を生きてゆこうとする意志を感じることができます。
本書には反戦の訴えや、アメリカや日本の軍部への批判、教訓めいた内容は登場しません。
当時の人びとはそうした思考を巡らす余裕などまったく無かったはずであり、何よりも本作品にそうした内容が蛇足であることは明らかです。
読者を圧倒する描写される風景そのものが、何よりも雄弁に戦争の悲惨さを訴えています。
著者の井伏氏は広島にほど近い福山市の出身ということもあり、作家としての自分がやるべき義務感として本作品を書き上げたような気がします。
はっきりいって物語の中に希望は殆ど見いだせず、人によっては読むのが辛くなるかもしれません。
けっして流行の作品を読むことを否定しませんが、このような小説こそ後世の人たちに読み継がれるべきです。
一瞬の夏 (下)
沢木耕太郎氏によるボクサー"カシアス内藤"を題材としたノンフィクション作品「一瞬の夏」の下巻をレビューします。
"カシアス内藤"というボクサーを客観的に評価すると、1度は東洋ミドル級チャンピオンになるものの、その後の戦績はパッとせず引退し、4年ものブランクを経て現役復帰するボクサーということで話題性の少ない選手でした。
名伯楽として何人もの世界チャンピオンを育て上げたエディ・タウンゼントは、自らが手がけた選手の中で"もっとも素質があったボクサー"だとカシアス内藤を評価しています。
にも関わらず彼が世界チャンピオンになれなかったのはトレーニング嫌いであり、さらに優しい性格が災いしたためといわれています。
「用心棒なら、いつでもできるから。でもボクシングは今しかできない」
1度は引退したもののボクシングに置き忘れてきたものを再び取り戻すためにカムバックする1人の男の姿は、当時作家としての方向性を模索する沢木氏自身の姿と重なる部分があったのだと思います。
ボクサーはリングで拳で殴りあう原始的な競技であり、それがゆえに多くの人を惹きつける魅力に溢れているといえます。
それでもボクシングは1人で行うことは出来ません。
家族、ジムの会長やトレーナー、マネージャーなど多くの人たちを巻き込みながらボクサーはリングに立つことになるのです。
しかもボクシングは一部の例外を除いて世界チャンピオンにならない限り、ファイトマネーだけで充分な収入を得ることが困難なスポーツだと言われます。
確固たる信念で29歳で返り咲きをしたボクサーが、時には弱音を吐きながらも再び夢に向かって突き進んでゆく。。
そこには決して綺麗ごとばかりでなく、人間の心の弱さ、欲望などが生々しく交差し、様々な障壁がカシアス内藤たちの前に立ちはだかります。
強い決意、才能や優秀なトレーナーに恵まれていたとしても、必ずしもそのボクサーが"あしたのジョー"のようなストーリーを辿れるわけではありません。
それでも1人のボクサーの残した足跡は、30年以上を経過した今でも読者の心を打つのです。
ノンフィクションの本質を考えさせられる名作です。
一瞬の夏 (上)
1970年代に活躍したボクサー"カシアス内藤"。
アメリカ黒人と日本人とのハーフであり、1971年に東洋ミドル級チャンピオンになるも連敗を続け、1974年に一旦は現役を引退します。
しかし4年もの月日を経て1978年にカシアス内藤は現役復帰を果たします。
"カシアス内藤"はもちろんリングネームですが、大スターであるモハメド・アリの本名「カシアス・クレイ」からとったものです。
同時期、同階級で活躍した有名なボクサーに輪島功一がいますが、かなりのボクシング通でなければ"カシアス内藤"の存在を知らない人が多いのではないでしょうか。
本書は日本を代表するノンフィクション作家である沢木耕太郎氏の初期の作品でありながらも、第1回新田次郎文学賞を受賞した代表的な作品です。
東洋ミドル級チャンピオンを手にしながらも一度は引退し、29歳にして現役復帰するボクサーを題材とするのはノンフィクション作品としておもしろい題材であることは間違いありません。
普通のノンフィクション作品であれば綿密な取材、そして検証・考察して作品を書き上げてゆくのが普通ですが、本作品の沢木氏の立場は、作家として範囲を完全に逸脱しています。
毎日のようにカシアス内藤の練習を見学し、著名なトレーナーのエディ・タウンゼントらの信頼を得るところまではジャーナリストとしての範囲ですが、やがて彼のマネージャーとして試合のための契約交渉、さらには契約金までも(余裕のない)自らの資金を提供するといった行動に出るようになります。
何が沢木氏をそこまで駆り立てたのか?
本書は"カシアス内藤"を取り上げると共に、自らの人生の一部をも同化させてしまった稀有なノンフィクション作品であるといえます。
心の航海図
遠藤周作氏の最晩年のエッセーです。
約300ページの文庫本の中に約100本ものエッセーが収められています。
今から20年前に発行された本ですが、晩年の遠藤氏は"医療問題"にもっとも関心を持っていました。
これは彼自身が重病で苦しんだ経験を持つことから、病人の心理的、肉体的な苦痛をよく理解しているからです。
回復の見込みのない患者の苦痛を長引かせる延命治療に批判的であり、(患者自身が希望すれば)その苦痛を和らげる治療(緩和ケア)に注力した"ホスピス"の充実化を早くから提唱してきました。
ホスピスでは肉体的なケアだけでなく精神的なケアに重点が置かれており、欧米では神父や牧師といった宗教的な指導者が精力的な活動を行っています(一方で日本の仏教僧侶たちがこうした活動を行う例は少ないようですが。。)
本書が出版されて20年経った今でも日本のホスピスは不足している状態であり、根本的な問題は解決されていません。
また救急患者を受け入れる医師や病床の不足についても本書で触れられていますが、現在でも"救急患者のたらい回し"が社会問題となっていることからも分かる通り、改善されたとは言いがたい状態です。
本書に触れられている問題提起は1つとして"解決済み"のものが1つも無く、老作家の愚痴として片付けることができない部分に暗澹たる気持ちになったりします。
もちろん他にテレビ番組やグルメなど他の話題にも触れられていますが、著者が一番真剣になるのは医療を話題に触れたときのようです。
本書は狐狸庵山人としてのエッセーとは違い、全体的に軽快さや剽軽さを抑えてシンプルに本音を書いています。
その分だけ老年となった国民的作家の偽らざる心境が生々しく綴られているようです。
ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく
"ホリエモン"こと堀江貴文氏による1冊です。
ライブドア(オンザエッジ)の創業者としてプロ野球球団やニッポン放送買収などで世間の注目を集め、やがて証券取引法違反により逮捕されるという彼の経歴はあまりにも有名です。
拝金主義者として軽蔑する人がいる一方で、ネットの世界では未だに絶大な支持を得ています。
堀江氏の著書を今まで数冊読んでいますが、"過激"だと感じたことはありません。
その内容は常に物事の本質をつく洞察力に優れており、社会に潜む"矛盾"を白日の下に晒すといった鋭さがあります。
その"矛盾"の中に潜む既得権益層を警戒させ、さらに彼の合理的なビジネス手法を理解できない保守的な人たちからの批判の矢面に立たされたという見方もでき、堀江氏自身もそれを自覚しているようです。
その他にも、独特の発言やスタイルに誤解を生むような要素もあったでしょう。
彼は転んでもタダで起きる人物ではありませんし、本書では刑期を終えた堀江氏が"ゼロからの再出発"をきっかけにして執筆したものです。
そして本書のテーマは「働くことの意味」です。
本書の前半では堀江氏自身の生い立ちや、親との軋轢、学生時代のエピソードなどを自らが抱えていたコンプレックスを含めてかなり本音ベースで書いている印象を受けました。
服役を終えた堀江氏は以前のように上場企業の経営者ではありませんが、早速ベンチャー企業を立ち上げ、その他にも色々な仕事を兼任し、分刻みのスケジュールで目まぐるしく日常を送っているようです。
それは決してお金のためでなく、やりたいことを全部やるためだとしています。
人生でもっとも貴重なものは「時間」であり、その時間を提供して(犠牲にして)給料をもらうような働き方自体が、そもそも「お金に縛られた生き方」というのが彼の主張です。
たしかに世間の会社員の大半が「お金に縛られた生き方」をしていることは認めざるを得ません。
「会社は潰れても人は潰れない」、「(自営業を含めるなら)日本の就業者の15人に1人は経営者」という分かり易い例を挙げて起業することのリスクの無さ、そして仕事がつまらないのは、「仕事に没頭していないから」といった、日本のビジネスマンが普段見逃しがちな視点を読者へ与えてくれます。
結論として、彼は「自分の生を充実させるために働く」としています。
人生の頂点から、一気に急降下した人生。
それでも生きている限り、人生に"0(ゼロ)""はあってもマイナスはない。
毎日小さな挑戦を繰り返して、自分へ"小さな1(イチ)"を積み重ねることがもっとも大切であり、その後の飛躍(掛け算)の結果が大きく違ってくるのです。
働くことがテーマでありながら、本書はビジネス書というよりも堀江氏の人生観を綴ったエッセーという感じです。
将来の進路に迷っている人、「働く」ことに迷いを抱いているビジネスマン、そうした人たちへ向けて分かり易く明快な言葉で書かれれいる本であるため、気軽に手にとって読んでみてはどうでしょうか。
武士道
明治時代の一流文化人であった新渡戸稲造が、外国の文化人へ向けて日本特有の精神「武士道」を解説した本です。
よって原書は英語で書かれていますが、本書は歴史研究家の奈良本辰也氏による訳本です。
西洋諸国がキリスト教に代表される"宗教"を通じて道徳を学ぶのに対し、一般的な日本人は「特定の宗教=道徳」とは考えません。
これは外国人から見れば考えられないことであり、新渡戸氏が日本人の道徳(善悪の区別)を学ぶ基準を「武士道」に置いて解説したものが本書です。
それには新渡戸氏自身が南部藩武士の子として生まれ、武士の幼少教育を受けたことも大きく影響しています。
文化人が文化人向けに執筆した明治時代の本だけあって、和訳されたものを読んでも決して易しい内容ではありません。
注釈を交えて、そして何度か読み直すことによってようやく少しずつ内容が吸収されてゆくといった種類の本だと思います。
私自身本書を何度か読み直していますが、そのたびに新しい発見があります。
世間には勉強方法を紹介したものから、ビジネスマン向けの経営や営業指南、老後のライフスタイルに至るまで、さまざまな本に溢れています。
しかし、そうした類の本の中から「人生の指針」のようなものを発見するのは困難なように思えます。
「武士道」を時代錯誤と批判することは簡単ですが、本書には日本人が先祖代々から受け継いできた「人としてよりよく生きてゆくための知恵」が詰まっており、現代においても日本人が日本人であり続けるための多くのヒントを得ることができます。
「武士道」の精神は、宗教のように聖典が存在するわけではなく、主に日常生活の中で口伝や実践という形で受け継がれたものです。
新渡戸氏はそれを「義」、「勇」、「仁」、「礼」、「誠」、「名誉」、「忠義」に分類して、豊富な古今東西の例を紐解いて武士道を体系的に解説しています。
著者の新渡氏はクリスチャンとしても知られていますが、それでもなお武士道を"人の道を照らし続ける光"として、この上なく大切な精神として位置付けています。
100年以上前に書かれながら、今なお現代に生きる日本人が読んでおくべき本の1冊ではないでしょうか。
薔薇盗人
以下6作品が収められている浅田次郎氏の短篇集です。
- あじさい心中
- 死に賃
- 奈落
- 佳人
- ひなまつり
- 薔薇盗人
私にとって浅田次郎氏の短編は、その題材を問わず決して期待を裏切らない小説です。
もちろん今回紹介する本を読み終えてもその印象は変わりませんでした。
勝手に本作品のテーマを決めさせてもらえるなら、それはズバリ"恋愛"であるといえます。
直球勝負もあれば、もの凄い変化球の恋愛小説までが揃っており、著者はまるで1つの素材から多彩な料理を作り出す凄腕の料理人といった感じです。
たとえば「あじさい心中」はタイトルから分かる通り、目的を失った行き連れ男女の心中を扱った文学らしい作品ですが、それでいながら浅田氏らしいドラマチックなストーリーに仕上がっています。
また「奈落」に至っては、恋愛と関係ないミステリアス内容で物語が進行してゆきますが、その根底(バックボーン)には、やはり男女の恋愛というテーマがしっかりと存在していることに気付かされます。
「ひなまつり」は著者のもっとも得意とする人情を交えた泣かせる恋愛小説に仕上がっていて、著者の本領が発揮されている作品です。
とにかく1冊の本でこれだけ様々なストーリーを楽しませてくれる本書は私のように浅田氏のファンでなくとも、満足できること間違いなしです。
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